3岩壁の子供
「おいガキ、ちんたらしてると食い殺すぞ」
前言撤回。
背をかがめておぶってくれようとするカラを睨みつけて、カナはそうさせなかった。夜の岩場なんて、登り慣れないと、相当辛いと思うのだけれど。
ちらり、とすこし離れて付いてくる獣たちを振り返ると、そそくさと目をそらされた。関わり合いになりたくないらしい。
――いいよもう。がんばるよ。
へばってばかりじゃ、さりげなくもたれさせてくれるカラにも悪いからな。
「この程度でへばるなんて……本当に人じゃないだろうな」
うるさいな、もう! 特に真剣に驚いているあたりが、まったく腹立たしい。
そして三十分ほどが経っただろうか。私はよろよろな足取りで岩の間につまずいて、庇った自分の腕に顔面強打、それ以降はむりやりカラが背中に引き上げて、下ろしてくれなかった。
「おい、カラ」
「どうかしました?」
「お前には言ってない」
「でも、カラさん、答えないし」
そうなのだ。さっき私が転んでから、「はじめからこうしてれば」と呟いたきり、黙々と私を乗せたまま前進を続けている。カナがこっちをじろじろ見ながら声をかけても、無視を決め込んでいるのか、反応といっても尻尾を縦にぱしんと振れば良いほうだった。カナはこれが大分堪えているようなのだが、全部こっちにとばっちりがくるので、正直やめてほしい。
「カラさん」
たまらず呼びかけると、うん?と首を回して応えてくれる。この対応の差に、約一名がぎりっと歯を鳴らした。私は嫌な汗をかきつつ提案する。
「もう、ひとりで歩けます。止まってください」
黙って降りずにわざわざお願いするのは、私が徒歩だった時よりも進度が桁違いに速くて、今飛び降りたらまちがえてずっと麓まで転げそうだからだ。今だって、しっかり首にしがみついているくらいなのである。
「か、カラさん?」
ふいっと前を向かれてしまう。なんだか揺れが大きくなっている気がする。またペースを上げたらしい。横をすたすた歩いているカナが呆れた顔をしていた。
カラが拗ねたり、怒ったりするのはめずらしいということくらい、聞かなくたって分かる。カナも慣れない事で対応しづらそうだし、何よりずっと落ちついていて、大人な感じが、この半日ほどの付き合いでも伝わってくるのだ。
そのカラが、機嫌を損ねている。
――気をつかわせてるんだろうな。
ほとんど会ったばかりで、どうしてここまで良くしてくれるのかは不思議でならないが、とりあえず、自分が今迷惑をかけまくっているのが不機嫌の原因だろう。そのくせカナも言うように、いやカナはカラを心配してのことだが、この獣は私を甘やかしすぎなのだ。矛盾しているぞ。それにしてもそこまで頼りないだろうか。いや思いっきり頼りないけれど、ちょっとくらいは自分の足で歩かないと、ものすごく申し訳なさが募って、なんだろう、泣きそうになる。
「ううっ」
ぐす、と鼻を鳴らすと、過保護な親のようにカラがゆっくり立ち止まって、顔をなめてくれる。ああ申し訳ない、申し訳ない、と思うほど泣けてくる。
何だろう、本当に子供に戻ったみたいで、でも私はもう子供じゃなくて……情けないことこの上ない。
「でかいガキだな。カラ」
始めのうちはいよいよ食べられるかというほどの剣幕だったのだが、こうも続くと、もううんざりした顔をするしかないあたり、カナはたぶんお人よしの部類なのだろう。自分でも怖いくらい泣けてくるので、正直カナの軽口は助かった。カラもその言葉を否定せずに目を細めるので、カナとしても少しほっとするようだったけれど。
私が泣き止まないと先頭のカラが進まないので、結局全体の動きがストップしてしまう。その事の後ろめたさから、さらに涙腺が決壊し、もう収拾がつかなくなるのだが、その度カナが嫌われ役を買って出て、
「泣くのを止めるか死ぬかを選べ」
と言ってくれると、そのいかにも本気らしい、たぶん本気の声音に私のしゃくりあげはぴたりと止まる。まあいくらかは泣かせてからでないとカラが梃子でも動かないので、これも絶対ではないのだが、正直カナがいてくれてずいぶんこの一行は助かっている。
しばらく揺られているうちに、カラの背中の傾斜――つまりそのまま足場の傾きなわけだが、それが一段と急になった。カラも含め、皆が背を低くして登っている。隣のカナは身軽な分楽そうだったが、カラが気になるのか速度を緩めている。
「カラ、それ、落としちまえば?」
せめて下ろすって言ってほしい。でも、私も同感だった。体の大きいカラや他の皆は歩きにくいかもしれないけれど、カナみたいに小柄な私は這っていけば行けなくもない。
――後からでもついていくから、平気だよ。
夜だけど。暗いけど。でも、何だか大丈夫な気がする。目覚めてからしばらく、ふつふつと力が湧いてくる感じがしているのだ。そりゃ、この獣たちにはとうてい追いつかないけれど。
そういう気持ちでじっと顔をのぞきこんでみたが、この大きな獣は、悲しそうに鼻をスンと鳴らしただけで、取り合ってくれなかった。ちなみに声に出して言わないのは、カラに喋らせるとカナが静かに怒るからだ。
私はなるべく表に出さないように心の中でしょんぼりして、せめてじゃまにならないように、大人しくカラの首に顔を埋めているしかできなかった。
――前触れなく、隣で足が止まる気配があった。カラが耳をぴくぴくさせて困った顔をしている。カナも耳をすませながら、チッと苦々しそうに舌打ちをした。
「……あのくそガキが」
ガキ、と言われて身を竦ませると、つかまられた獣が苦笑する気配が伝わった。どうやら私のことではないらしい。ほっとしたのも束の間、いきなりカナがずんずんやってきて、しがみつく私を嘲った後、カラに向かって言った。
「俺はちょっと行って拾ってくる。お前はこいつらを連れて先に戻ってろ」
「カナ」
「……分かってる。そんなに叱らない」
じっと見つめる獣の双眸から目を背けて、カナは頷く。でもたぶん嘘だろうな、と私は思った。カラもそう感じたのだろう、鼻で追いかけるように背中をつっついているが、カナはそ知らぬ顔で他の獣たちに指示を出していた。ひとりだけ別行動を取るらしい。「くそガキ」とやらを迎えに行くのだろう。嫌々に見えても、そうして気にしてくれる人がいる、その子がちょっとうらやましかった。
カラが、私の心を読んだようにクンと鳴いた。
その鬼は名前をニキと言う。彼は兄貴分に抱えられたままの格好で、長い鼻でぐずぐずとべそをかいていた。
ちょっとだけのつもりだったのである。集落のなかまたちと連れ立って、小さな野の獲物を追いかけて、あと少しというところで届かずに、自分だけ岩の谷間に転げてしまった。本当にちょっとだけ、決められた場所を出て、羽を伸ばそうとしただけだったのに。
とりあえずまた投げられたりしないようにと、自分を抱える鬼の顔を見上げて先手を打った。殴られる回数も、少ないに越した事はない。
「ごめん。あにき」
兄貴分はそんな自分の考えを見透かしたように、ごつりとニキの鼻っ柱を殴った。やっぱりな、と覚悟を決め、次に備える。しかし、痛みはいつまでたってもやってこなかった。
あれ?と恐る恐る目を開けると、怒っているというより、うんざりした目で前を見ていた。その視線の先には、森向こうに位置する鬼の集落があるはずだ。
「どいつもこいつも、びーびー泣きやがって」
「ごめん」
「謝るくらいなら少し我慢しろ」
うん、と頷くと、鬼は少し柔らかい顔になって、ニキの額をなでた。そしてまた岩場に足をかける。こういう時、彼は兄貴分の長い足を羨むのだった。
そうして何気なく、ニキが自分の丸い脚を眺めた時だ。
――ない。
「おい、お前?」
「ない」
「何が――っおい!」
ない、ないとつぶやきながらニキは自分の四つの脚を調べ、それでも目当てを見つけられないと、はっとして、今まで登ってきた岩の転がる谷間を振り返った。ずっと向こう、さっき自分が転んでいた場所が、月光にきらりと光を返した。
ニキは、自分を支える腕を振り払って飛び下りる。ほとんど落ちるようにして、そこまでたどりつくと、失くした宝物をはっしと口にくわえる。
――よかった。これでだいじょうぶ。
とりあえずあにきに謝らなくては。せっかく運んでもらったのに、また落っこちてしまった。そう思って顔を上げるのと、他ならぬ兄貴分が叫ぶのとが同時だった。
「ばかやろう! 崩れるぞ!」
ニキの視界が、がくんと下がった。
ほとんど呆気にとられながら、それでも足場がなくなると、ニキは何より先に宝物をしっかりと歯でつかんだ。何より守らなくてはいけないものだった。
その様子を見た兄貴分が、またばかと怒鳴ったが、ニキにはほとんど聞こえなかった。このまま落ちたら死ぬのだろうか。今死んだら、またやり直しだ、などと考えるうちにじわじわと怖くなって、かたく目を瞑った。歯の間の感触だけが確かだ。
――おやかたさま。
そう、宝物をくれた方の名を、心でつぶやいた時である。だんっと強い衝撃が横からぶつかってきた。ニキはぎょっとして目を開ける。ぎゅうっとしがみついてくる、長くて、細い腕があった。
「だ、だいじょう、ぶ?」
それはニキよりもずいぶんなめらかに言葉を紡いだ。きつく当たる風の中で、叫ぶように発される、あにきや、それから、おやかたさまのような、はっきりとした声。
ニキはたまらずその相手にしがみついた。ぐえっとうめいたが、それでも抱き返してくれる。
――これで、ほんとうに、だいじょうぶだ。
「でも、どうしよ、落ちっぱなし……」
声が情けなくつぶやくのに、ニキがえ?とその顔を見つめた時である。下から、ずいぶん大きな体が、ニキたちを拾いあげたのだ。
すぐ遅れて追いついてきた兄貴分の、安堵のため息が聞こえた。
カラがぎょっとした顔でいきなり走り出したのは、カナが抜けてほんの十分ほど後のことだった。いくら夜目がきくといっても、こんな場所での全力疾走は辛いだろうに。それでも後ろの獣たちは、距離を開かせずにきちんと付いてくる。
――やっぱり、置いていかれなくてよかったかも。
感動しながら落ち込んでいると、カラが急に足を止めた。私はつんのめって顔をぶつけながら、よろよろと顔を上げた。
そう遠くないところに、二つの影が見える。ここってずいぶん高さがあるんだな、と、私は下に広がる見えない闇に背筋を寒くした。
と、カラがびくりと震えた。私も遅れて息を呑む。下の方にいた影の足場が、いきなり崩れたのである。カナの犬のような怒鳴り声がここまで届く。
――あの高さから落ちたら、ひとたまりもない。
はっとして横のカラを見る。駆け出したくてしかたがない顔をしていたが、あの辺りには獣の巨体を支えるだけの足場がないのだ。私は自分の体を見下ろした。
――私なら。
後から考えるとずいぶん無謀な思考回路だったと思う。でもその時は、思いつくと同時に足が駆け出していた。
体がずいぶん軽く感じた。傾斜に沿って斜めになる視界を恐れながら、こうして動く事を当然とするような意識が自分の中に満ちていた。私は近づいた茶色い固まりに、勢いのままタックルをかまし、そのまましがみついた。
カラたちをそのまま小さくしたような、それにしても私と同じくらいのサイズの獣だった。声をかけると、ぎゅうっとしめつけてくる。ああ怖かったんだな、と、ずいぶん痛いながらその背中に手を回す。
――ところで、どうやって止まろう。
ものすごい勢いでぶつかったせいか、道をそれて宙に飛ばされてしまっていた。これは、かえって普通に落ちていた方がマシだったかも、と思うと、状況を読まずに目頭が熱くなってくる。クン、と獣の子が鳴いた時、私は自分の体が、懐かしい温かさに受け止められるのを感じた。
「カラ!」
私はたまらず、子供ごとその背中にしがみついた。