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2物いう獣

「いいものをみつけたよ」


昼時、繁茂する樹影の根で握り飯をかじっていたカナフシの前へ、四つんばいに地を蹴って獣が飛び出すなり、歯茎をむき出しにしてそう言った。


「良いもの?」

「うん。カナにもみせてあげようか」


みせてあげる、と珍しく懐こい顔をして擦り寄ってくるので、見るからにそわそわと上機嫌な獣の横腹を叩いて、では夕刻にと約束を交わした。待ちきれないとばかりに、すぐにまた「いいもの」とやらを見張りに行くと言って林に紛れる。群れのなかでも一際大ぶりの体躯は、強い日差しのなかで艶よく光って黄金にも見えた。





――飛び起きた。


日差しに焼けた緑葉の濃い匂いが鼻の中にムッと入り込んだのだ。こんな目覚め方、したことがない。


なんだなんだとばくばくする心臓のままで辺りを見渡すと、森である。

実によく生い茂った森の、ど真ん中であると推測する。


「はぁ……」


――森か……


『私』は地べたに座ったまま、所在なく両手で寝癖を撫でつける。短い草がふわふわとお尻の下に生えていて、直接お尻をつけても痛かったり冷たかったりはしなかった。


――変だ、もっと痛かったはずなのに。


自分の頭に勝手に浮んだ考えにぎょっとする。知らず知らずのうちに横腹に触れたが、痛みなんてない。当たり前だ。ケガなんてしてないんだから。そう思いつつも肩をさする。やっぱり、痛くない。


なんだろう、何かとんでもない事があったはずだ。でも思い出せなかった。私は昨日、いやここで目覚める前、何をしていたのだろう。普通のはずだ。そう、普通に、いつものように


……いつもって、何してたっけ?


「あ、あれ?」


なんだこれは、 ド忘れってやつだろうか。それにしたって何も思い出せないなんて、これじゃまるで。


「――記憶喪失?」


――そんなばかな。


呟いて、すぐさま否定した。そんな、「私はどこ、ここはだれ」って、お話じゃないんだから。

そうだ、私は、自分の名前がちゃんと言える。ここがどこかは分からないけれど、自分が誰かってことは、きちんと。……きちんと。


「ああ、もう!」


たまらず髪をぐちゃぐちゃにかきまぜる。混乱しているんだ、きっと。落ちついたら、冷静になったら、きっと思い出せる。そのはずだ。

私はぺたんと座ったまま、目を閉じて、ゆっくりと呼吸した。風の音や木の匂い、木立ちを介して降り注ぐ日差しが、際立って五感に訴える。私はたっぷり三分ほどそうして、静かになった頭で、やっと結論にたどりつく。自然と声にしていた。


「ここ、どこ。私は、だれ、だっけ?」



しばらくぼうっとしていたら、涙がつっと頬を伝って、指で拭うと、もう次から次から溢れて止まらなくなった。

心に聞いても答えは返ってこなかった。よく自分の胸に聞けって言うがあんなのはサギだ。誰が言ったのかは忘れてしまったから、文句を言う事はできないけれど、もし思い出したら、いや、思い出して絶対訴えてやる。


「もう、誰よう……」


子供みたいに泣いている。べそべそみっともないったらないが、考えてみれば記憶がないのだ。確かな事がまっさらなのだから、まさに子供そのものだった。守ってくれる親もいない。みじめだ。また泣けてきて、わっと顔を覆った。その時だ。


「――だれだ?」

「……そんなの、わた、わたしが、知りたいよ」


涙をぼたぼた落としながらのろのろと顔を上げ、ぎょっとして後ずさる。緩慢な頭にガツンと一発喝が入ったようで、泣くのも忘れてしまう。


そこには、巨大な獣がいたのである。


「えええええ」

「おい、おまえ」


しゃべった! 唸りの中に、人の言葉がノイズみたいに混ざっている。しゃべる動物。金茶色の、四つ足の獣。


「なっ なな、なに? なんですか?」

「うん」


とっさにひねり出した返事がお気に召したのか、獣は私の胸に、大人のこぶし大の鼻を押し付けてきた。


――わっ、水っぽい。


退くタイミングを逃して、今からやめてもらうのも怖いのでそのままにさせておくと、獣はくん、とちょっとかわいい声で鳴いて、あっさり離れてしまう。そのまま振り返らず茂みに去ろうとするものだから、ちょっと待ってと声をかけたくなって……やめる。いくら寂しいからって、知らない獣に付いていくのはどうだろう。それでも理性と別に心細がる自分の情けなさにうちひしがれていると、その獣は尻尾を左右にぱたんぱたんと振って答えた。なんとなく、このままでいろと言われた気がする。寂しさが作り上げた妄想かと思って悲しくなったが、他にどうもできないので私はその場にしゃがみこんだ。


膝を抱えて、ほっと息をついてみると、見知らぬ環境はそのままなのに、先よりも恐れを感じない。


――なんとか、なるのかな。


なんとかしてくれるのだろうか。


獣の消えた林の陰を、否定しようのない心細さでしばらく見つめていたが、いつしか疲れて、自分の膝の上で寝入ってしまった。



涼しい風が吹いていた。少し肌寒いと言ってもいいかもしれない。膝を抱き寄せてそこに毛布がないことに気づくと、胸を切なくして顔を上げた。即刻、切なさは吹っ飛んだ。


「おきたのか」


獣はそこにいて、地面に丸くなった私を見下ろしていた。尖った犬歯が、真っ赤な舌が近い。呆気に取られていると、べろりとなめられた。犬のような顔をして、舌は猫のようにざらついている。


「お、おはようございます……」


自分で言っておいてツッコミを入れたいが、獣は満足そうに歯をむき出した。これはたぶん、笑っているのだろう。よだれを額に受けながら、そうでなかったら困る、と、私は静かにそれを拭った。


とりあえず、と起き上がろうとする。獣にさえぎられて見えなかったが、もう夕陽の時刻らしい。手をついた草むらが、仰ぎ見る梢が、茜の色に染まっている。背中を支えてくれる獣の毛皮も、たっぷりの日光を浴びて暖かい。


――きれい。


こんなに夕陽に見惚れた事はきっとない。覚えていないが、きっとそうだ。また鼻の奥がツンとして、ぐずぐずし出す私を、獣は湿った鼻でなぐさめた。


「あ、ありがどー」


きたない顔で告げたお礼に、頷くようなしぐさをして、ごろごろ唸った。獣はおしゃべりするのがあまり得意じゃないのかもしれないと、私は鼻をすすりながら思った。



「それで、さっきはどうしてた……ん、ですか?」


もう話しかけるのに抵抗はなかった。順応性が高い。さすが何も知らない子供だと、少し自嘲気味になる。けれど、泣いているのをなぐさめてくれて、何より――ひとりぼっちから抜け出させてくれた彼、彼女かもしれないが、とにかくこの獣を信用しないのは何だかバチあたりな気がするのだ。それに言葉が分かるのだから、話しかけない手はない。


獣はうーんとちょっと考えるみたいにしてから、べろっと私の手をなめた。待っていれば、自然と分かるよ、という目で見上げられた、気がする。おかしな想像と言われたって、仕方がない。獣がそれ以上の行動を起こさないなら、私もそれに習う他にないのだ。


そうやって獣との一方的な会話をひとしきり続けて、お日様が山の谷間に入ってしまうころ―― それは来たのだった。


始めは風の音かと思った。

でも、獣の耳がピンと立ったり、他の獣らしい遠吠えが聞こえたり、終いには風に乗って荒っぽい息づかいが聞こえ出したので、勢いつかんでしまった獣の太い首をたどって彼の顔を見上げた。こころなしか、厳しい雰囲気をたたえている。


気のせいだといいな、という私の儚い願いは、突如側の草むらから飛び出してきた一匹の別の獣によってあっさりと打ち砕かれた。


「えっ?」


反応の鈍い私は、その一匹がさっきまで傍らにいた彼によって地べたに押さえつけられるまで、彼が離れた事に気づかなかった。喉に巨大な牙を立てる寸前で睨めつけられて、突然現れた獣は意識を失ったようだった。そんな獣をぽいっと放って、四方の草むらに牙を剥きだしにしながら、私を長い尾で庇ってくれる。どうやら私たちは囲まれているらしかった。


私は彼が、とても美しい事に、とても強い事に気づきながら、突如湧いた感情によって大声を出した。


「だめっ! やだ、やめて!」


―― 死んでしまうのは、いやだ。


美しい獣は、いきなり首に飛びついてきた小さな子供に驚いたようだった。やんわりと外そうとするが、私は余計に取りついた。


「はなして」

「いや! だって、もう、わたしのせいで」


自分でも何をしているのか、どうしてこんな奇行に出たのか分からなかったが、止めなければならないということだけが頭に、いや、頭にこびりついた誰かの声を受けて、心がそう叫んでいた。


――来てはいけない。死んでしまう。 あなたが殺されてしまう。


そう、伝えなくてはならなかったのに。


「なあ」

「いや、いやだったら」

「わかった」

「……ほんとに?」


顔を上げると、獣が穏やかな目でこちらをじっと見ていた。優しく背中に乗るよう促されて、私はおとなしく従った。でも離したくなかったというか、腕が固まってしまって離せなかったので、首にはまだつかまっている。


彼が高くひと鳴きすると、いつの間にか草むらから出てきていた他の獣たちがすっと道を開けた。鼻を伏せてばつの悪そうな顔をする彼らに、とても先ほどまでの勢いは見られない。そんなにこの獣が怖いのだろうか、いや怖いけれど、と頭を悩ませるうちに、獣は足を止めた。 鼻の先を追いかけると、一本の木の前に、黒い人影が見えた。


目を凝らそうと凝視したので、その影がすっと鈍明かりの中に現れた時、 ものすごい眼で睨まれていることに気づいて、私は驚きのあまり地面に転がり落ちてしまった。獣が気遣わしげな鼻を向けてくるのに対して、人影――私とそう歳の変わらなく見える少年は、ふんと見下ろしてきた。


「いい格好だ。引きずりおろす手間が省けた」

「――カナ」


 ―― カナ?


獣がとがめる響きで少年を呼んだ。カナというのは彼の名前らしい。それにしても、カナ。どこかで聞いた、むしろ聞きなれた響きだ。友達にでも、カナちゃんがいたのかもしれない。


カナと呼ばれた少年は思いっきり顔をしかめて、わたしを指さした。


「まさか、いいものというのは、これじゃないだろうな」


これ、なんて言われてあまり良い気分はしないが、自分の話題なら聞いておこうと、カナと一緒になって獣の言葉を待った。


「うん。これだ」


小さく頷いた。獣はさりげなく私に寄り添ってくる。庇ってくれるのだな、と思って、また少し唇を噛んだ。カナはものすごく嫌そうな顔をした後、少し考えて、今度はわざとらしいくらいの笑みを見せた。


「喰らう方の意味でなら、カラ、俺は賛成するが」

「カラ? 食らう?」

「カラは、おれ。くらうのは……」


疑問の声を上げると、獣はふふと胸を張るようにしてから、次には微妙そうな目になって口をつぐんだ。私が喋るのが気に入らないのか、カナは獣――カラの言葉を引き継いだ。


「お前だよ、人の子」

「…… 私?」

「カナ」

「黙ってろ。――俺たち鬼は、お前ら人を食べるんだよ。その気楽ぶりをみると、本当に教わらなかったのか。相当親に恵まれなかったと見える」


理解が追いつかずに怪訝な顔をする私をいたわしそうに見てから、カラは姿だけなら人と変わらない少年に言った。


「カナ、これは人じゃない」

「えっ?」


驚くのは私だった。声にはしないものの、カナも変な顔をした。私を見る目が、不審そうなものに変わる。


「しかし鬼には見えない」


と、 カラやほかの獣と似ても似つかない体の少年はつぶやいた。思っても口には出さない。これは我ながら賢明だと思った。


「鬼でもない。べつのもの。なにかはちょっと、わからない」

「―― じゃあ食ったら、どうなる?」


私たちの方へ手持ち無沙汰に近寄ろうとする獣たちを制しながら、カナは物騒な事を言う。私は安全な毛皮に擦り寄った。


「わからない。でも、人よりも毒かもしれな い」


――人よりも?


どういうことだろう。人が毒になるなら、なんで食べるんだ。そもそも私に毒なんてないのに……ないよね?


つい腕のにおいをかぐ私の疑問を汲んで応じようとするカラを止めて、カナはしばし熟考した。それから毛皮にしがみつく体勢の私をいまいましそうに一瞥した後、ため息をついて、「しかたがない」と言った。


「館さまに申し上げよう。おい、そこのガキ、なめた真似をしたらその場で食い殺すからな」

「……うん」


頷かなくては今すぐそういう事態になりそうな剣幕だった。ついカラの毛皮を握ると、またすごい顔になる。私はひらめいた。そうか、そういうことか。


――カナはカラのことが大好きなんだね。


この人とも、もしかすると、仲良くなれるかもしれないな。


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