1通り魔
月のない晩である。
物音を聞いた気がして、銀山治子は後ろを振り返った。そこには薄暗い、学校からここまで続いてきた歩道がひっそりとあるだけだったが、治子は息を詰めて急ぎ足に街灯を目指した。
――もっとはやく帰るんだったなあ。
住宅街といっても高齢者ばかりが住んでいる。不審者に出会ったとして、悲鳴に反応してくれるかどうかは微妙である。
心中で暗い怖いと泣き言を漏らしながら、灯りの落ちる曲がり角までもう少しという所までやってきた。明滅しながら蛾をまとわせる街路灯は、普段なら不気味だが、 今はずいぶん頼もしく見える。あそこまで行けば大丈夫、と治子は試験前で重い学生鞄を持ち直すと、素早く一歩を踏み出した。
「――!」
出し抜けに何かぶつかって、あえなく尻餅をつく。触れたところから全身に鳥肌が広がった。投げ出した足もとで鞄に鋭い傷が入り、隙間から教科書がのぞいていた。
「あ」
声を上げてから、しまった、と心がうめくのを聞いた。その逆光になった人物の顔に、見覚えがあったからだ。かといって知り合いではない。一昨日の夜、ニュースに現れた写真の男に、帽子をかぶせ、髭を生やしたら、きっとこんな顔になる。
――指名手配中って。
皆まで考える事ができなかった。男が右手を、そこに握られた刃物を素早く振り上げ、ちょうど明かりで目をくらませるようにしてから、とっさに身をよじった治子の肩に突き立てたからだ。
一瞬遅れて、自分の喉が破けるのではないかと思った。耳が痺れるほどの大声を上げていた。男もこれには驚いたようで、慌てて治子の背を蹴り、顔を地面に押しつけた。肩の刃物を引き抜かれたかと思うと、間をおかずに横腹にねじこまれた。鋭利な切っ先が肌の内側に触れて切り裂くたび、燃えるような激しい痛みが頭をかき回した。むちゃくちゃに手足を振り回しながら、殴られて、夏の温いアスファルトに顔を埋める。口から溢れたもので頬が汚れた。
――死ぬ。ぜったいに死ぬ。殺される。
恐怖と辛さとむなしさと悔しさが溢れて、けれどその感情をぶつけるだけの力は残っていない。
――いやだ、いやだ、なんで私が、こんな、何をしたって言うの。
弱弱しく唇を噛んだ、その時だった。頭を押さえつけていた手が動揺に激しく揺れる。
「お前、何をしてる!」
初めて聞く声が、駆け足でやってくる。朦朧とする頭に、その怒声は、闇を切り裂いてぴっと治子の心に焼きついた。
指名手配犯と闖入者がもみ合う気配があったが、前者に分が悪かったらしい。捨て鉢になり、また倒れた治子の前に来ると、止めを刺そうと凶器をもたげた。治子は苦痛に悶えながら、恐怖から逃れたい一心で目を閉じる。すぐに衝撃は来たが、それは刃物にしては暖かく全身に被さった。苦悶の声がごく側で上がる。自分のものではない息を感じて、まだ自由になる目を開けると、ちょうど向こうもこちらを見ていた。
スーツを着た男性だ。会社勤めの帰りなのか、汗のにおいが近い。お酒も入っているかもしれない。普段は嫌うはずのにおいが、生きていることの証明に思えた。
「ありがとう」
うまく言えたかわからないが、伝えるべきだと思った。
スーツのシャツにべったりとしみた赤色は、治子のものか、見知らぬ通行人であったはずの彼のものか。申し訳なくなる。私を助けたばかりにこの人は今こんなに苦しいのだ。犯人への、不条理への憎しみは膨れ上がったすまない気持ちに溶けてしまった。
謝罪を込めたお礼の言葉は届いたようだった。彼はとても困ったような顔で、うん、とだけつぶやくと、苦しそうに目を閉じた。治子ももう限界だった。
この後近所の老人によって通報され、逃走を図った犯人は現行犯逮捕された。折り重なるようにして倒れていた二人も、病院に搬送されたが、いまだ意識は不明だという。