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よろしくお願いいたします

それからどれぐらい時間が経ったのだろう。もう腕時計を確認する気にもなれない。


壁にもたれて鼻をすする。トイレットペーパーを引きちぎって鼻をかむ。便座の蓋を薄く開けて紙くずを放り投げた。


もう一度壁に寄りかかる。

泣いてしまったのは何時ぶりだろうか。


「…そうか」


前回泣いたのは確か、十六年も前。

亜美が産まれた時だった。



妻とは大学のサークルで知り合って卒業後に結婚した。

拗ねて怒った時の顔が可愛いと思った。身体が弱いからとプロポーズを一度断られ、それでも押し切っての結婚だった。


子供が出来たときは嬉しい反面、妻を失うかもしれない恐怖があった。妻の両親からは猛反対を受けた。

そんな中『産みたい』とキッパリと言った妻は、何処からどう見ても立派な母親の顔をしていた。


悪阻が酷かった。何度も入院を繰り返し、何度も切迫流産の危機があった。なんとか臨月を過ぎようとした時、予定日より何日も早くにお産が始まった。


真夜中に苦しみだした妻の背中をさすりタクシーを呼んだ。パニックになりかける頭を必死に叱咤した。タクシーの運転手に何度もすみませんと繰り返した。


息がうまく出来ないぐらい苦しそうな妻に痣が残るほどに手を握られて『ヒッヒッフー』なんて柄にもなく呼びかけて。

助産師に『落ち着いてください』と注意され。

ようやく産めるかと思ったらへその緒が首に巻きついていると言われ。

あれよあれよと帝王切開に決まり。

手術室の前でガタガタと震えながら祈るしかなくて。


ようやく亜美の産声が聞こえた瞬間。


全身に鳥肌が立った。深夜だったにも関わらず世界中が明るく見えた。顔が熱い、目が熱いと思ったら涙が止まらなくなっていた。


涙が止まらないまま初めて亜美を腕に抱いて。意識が戻った妻に何度も『ありがとう』と伝えた。


駆けつけた義父と抱き合って喜んではうるさいと義母に叱られた。

俺が大事に育ててやる。格好いい父親になってやる。

そんなふうに誓った。



変わったのは小学校五年生ぐらいから。

反抗期が始まり、パパ臭い、汚いと言われ。

成長するにつれ必然だと覚悟はしていたがやはりキツかった。


必要最低限の会話にし(それすら妻を介してという時もあった)格好悪く拗ねるのはこっそりとした。

寡黙なほうが格好いいかもしれない。せめてお金に困らないようしっかり稼いでいればいいだろう。そう思った。


冷静に考えてみると、亜美からは偉そうにムスッとした臭い親父に見えて逆効果だったろう。


臭いと言われるのは気になった。とくに仕事終わりは臭いのではないかと夕ご飯を一緒に囲むのが憂鬱になった。

いつの間にか仕事を言い訳にして帰りを遅くしていった。


「…駄目な父親だ」


乾いた笑いが洩れた。窓からは相も変わらずサンサンと太陽の光と熱が入ってくる。

ふと視線を床に下ろすと、黄色いネズミのマスコットが落ちていた。さっきぶつかった拍子に棚から落ちていたのだろう。


気になって手に取った。これは俺が亜美に買ってやったものだった。


反抗期になって可愛げがなくなっても、亜美が好きな物はなんとなく覚えていた。出先で目につけばなんとなく買って、なんとなくリビングのテーブルに置いておいた。


お礼なんて言われたことはなかったが、亜美なりに大事にしていたのかもしれない。

マスコットには埃なんて少しも付いていない。


もう一度この空間を見回した。

そういえば掃除が行き届いている。あいつは身体が弱いくせに。


熱い。暑い。

あつくてしょうがない。

泣いたせいでさらに熱中症の危険性が増したかもしれない。


情けなくて死にそうだと思ったが。


あいつが置いたダンボールのせいでは死ねない。

亜美がせめて嫁に行くまでは死ねない。

いや、正直行かせたくはないが。


もう一度タンクの脇のレバーを回す。

勢いよく流れた水を手で救って必死に身体中にかけた。

床が水浸しになったが、しょうがない。あとで謝ろう。


それでも暑い。あつくてしょうがない。


ガンガンと頭が割れそうだ。暑いはずなのに背筋がゾクゾクと寒い。

朦朧としてきた。


ボンヤリとした意識のなか。

あんなに開かなかったドアが開いて、ビックリした顔の亜美が見えた。


幻か。分からない。


亜美が何か叫んでいる。分からない。



「亜美、亜美…パパの、パパのクローゼットの…一番下の引き出し…パパの、クローゼット…」


そこで意識が途絶えた。




ありがとうございました

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