恋のミラクルポーション
中三の夏休み、私は同級生の彼氏とビーチリゾートにやってきた。
輝く太陽、真っ白な砂浜、エメラルドグリーンの海。
この日のために新調した花柄ビキニに着替え、彼と手を繋いでビーチに駆け出して行く。
ああ青春真っ盛り、二人のときめき夏物語。
そして夕暮れ。波打ち際に並んで座り、水平線に沈みゆく夕陽を眺めていると、不意に彼の顔が近づいてきた。
ファ、ファーストキスだっ……!
私は目を閉じ、息を止めてその瞬間を待った。
やがて、唇に何やら冷たい感触が……。
あれ、冷たい?
☆ ☆ ☆
目が覚めた。
ここは夕焼けのビーチなぞではない、殺風景な私の部屋だ。
どうやら受験勉強中に、チカラ尽きて居眠りしてしまったらしい。
机の上にはヨダレの海。冷たい感触の原因はこれだった。
「せっかく良いところだったのに……」
ぶつくさ独りごとを言いながら、ティッシュでシコシコ机を拭く私。
これ以上情けない画面があるだろうか? いや、ない(反語)。
時計の針は午前三時半を指している。たっぷり二時間は寝ていたようだ。
参考書の角を枕にしていたせいか、何だか顔が痛い。
手鏡を見ると、目元から頬に掛けてゴルゴ線ができていた。ここが教室でなかったのは不幸中の幸いだ。とても人様に見せられるような顔ではない。まあ、元々大した顔でもないけどさ……。
ちなみに先程の夢において正しいのは、冒頭の『中三の夏休み』。ただこれだけである。コミュ障の根暗女に彼氏などいるはずもない。
「はあ……」
大きな溜め息ひとつ。
こんなダメダメな私にも、好きな人がいる。夢にまで見るほどに。
だが、現実はあまりにも厳しい。恋のA級スナイパーには成れそうもない。
☆ ☆ ☆
ああ、私ごとき下賤の者が見るには素敵過ぎた夢、無駄に背負った喪失感で、すっかり勉強する気も失せてしまった。
「テレビでも観るか……。でも、こんな時間帯にやってる番組なんて……」
リモコンの電源ボタンを押すと、案の定、画面には通販番組らしきものが映った。
チャンネルをザッピングしてみたところで、どこも同じようなものである。
万能包丁とか、高圧洗浄機とか、惚れ薬とか、全く興味のないものばかり……。
なに、惚れ薬……だと?
☆ ☆ ☆
「あなたの切ない片思いを一発解消! 『恋のミラクルポーション』のご紹介です!」
おお、これは気になるぞ。今の私にジャストミートなアイテムじゃないかっ。
「使用法は至って簡単。思いを寄せるターゲットに飲ませるだけ! たったそれだけで、相手はアナタにもうメロメロ!」
本当かよ……。だとしたら凄すぎるんだけど……。
「あのクレオパトラも愛用したという、ヒマラヤの奥地にのみ自生する幻の植物、スキニナール草のエキスが何と50000mgも入っています!」
へえ、何だかよく分からんが効きそうだ。
「更に、サメ軟骨から抽出したコンドロイチンも配合しておりますので、関節の痛みにも効果抜群!」
……関係あんのか、それ?
「では、実際に使用した方のお話を伺いましょう」
ふむふむ。
「僕は全然モテなかったんですが、この『恋のミラクルポーション』のお陰で、遂に念願の彼女ができました! 彼女はヒザの痛みがなくなったと喜んでいます!」
マジかよ凄いなコンドロイチン……。
「私には五十年間思いを寄せている男性がいるのですが、先日寝たきりの彼に『恋のミラクルポーション』を飲ませたところ、フルマラソンを完走できるまで回復しました」
おい、コンドロイチン効き過ぎだろ。むしろそっちの効能を前面に押し出せよ。
「その他にも沢山の喜びの声が届いている、この『恋のミラクルポーション』。さて、気になるお値段ですが」
一体いくらなんだろう?
「税込で150万円です」
たっか! でもホントに寝たきりが治るんなら、そのくらいの価値はあるかも……。って、何の薬だっけ?
「しかし今回、この番組を観ている幸運なアナタに限り、何と税込298円でご提供!」
やっす! 逆に効きそうにない気がするが……。
「それでは只今より三十分間、オペレーターを増員してお電話をお待ちしております!」
☆ ☆ ☆
……。
何だかなあ、胡散臭さが半端ないぞ……。
やっぱりさあ、こんなものを買ったところで、どうせ安物買いの銭失いに決まってるんだよね。
「ええい、私は騙されないぞ!」
少しグラつかされた心を否定するように、私はテレビを消し、一応書き留めた電話番号のメモをごみ箱に投げ捨てた。
こんなニイキュッパの怪しげな薬ごときで、二年間にも及ぶ切ない片思いが成就するならば、誰も苦労はしないってもんだ。
そう、もう二年も密かに想い続けているのだ……。
☆ ☆ ☆
あれは中一の秋頃のこと。
その日掃除当番だった私は、放課後の閑散とした廊下を、ひとり大きなごみ箱を抱えて歩いていた。
チビで体力のない私である。少し歩いては小休止、そしてまた「うりゃ」と気合いを入れ、重たいごみ箱を持ち上げて歩く。そうやってごみ集積所までの長い道のりを歩んでいた。
何回目の「うりゃ」だったろうか、突然ごみ箱がフワッと軽くなり、虚を突かれた私は体勢を崩してよろめいた。
「おっと、大丈夫?」
ドン、と背中に何かが当たった感触に驚いて振り返ると、やたら背の高い男の子――当時身長140cm足らずの私比――が、私の背後から手を回してごみ箱を持ち上げていた。
「何だか重そうだな、と思ってさ。手伝うよ」
彼は白い歯を見せてニコッと笑い、あの重かったごみ箱を片手で軽々と持ちながら、颯爽と歩き始めた。
「あ、ありがとう……」
物心ついた頃から極度の人見知りで、特に異性に対しては何の免疫も持っていなかった私。
男の子に優しくされた記憶なぞ皆無に等しく、「手伝うよ」などという至って日常的な一言すら、私をキュン死たらしめるに充分な殺傷能力を持っていた。
そして私はこの一瞬で、『恋のウイルス』に全身を冒されてしまったのだった。
☆ ☆ ☆
かくして、私の初恋相手となった彼の名は、英太君。
明朗活発、頭脳明晰、更には運動神経も抜群で、一年生の時から野球部のレギュラーに抜擢される程の実力を誇り、周囲に明るい光を振りまく太陽のような存在だ。
そんな彼とは対極的な私、遥香。特筆すべき長所は何もなく、性格は極めて内向的で、趣味は妄想。クラスでも全く存在感のない、いわゆる『陰キャラ』である。
まさに光と影、果たして同じ人類なのかと疑わしいほど途方もない格差を自覚しながらも、彼への恋心で胸が一杯、時折呼吸困難に陥るほど好きになってしまった私。
それからはストーカーのように、そっと陰から彼を見つめ続ける日々が始まった。
彼への想いを綴った詩集も作った。
記念すべき一作目、真夜中に書いた『私はピエロ』という詩を翌朝読み返したら恥ずかし過ぎて死にたくなった。
詩やラブレターの類は深夜の世界観で書くべきものではないと気が付いたが、それでも懲りずに沢山書いた。
私のこの気持ち、いつか彼に届きますように……。
だが、私の前に立ちはだかったのはスクールカーストの厚い壁だった。いつも大勢の級友に囲まれている彼に、私みたいな不可触賤民が話し掛ける隙などなかった。恋のライバルが沢山いることも分かった。告白なんて恐れ多すぎて、できるはずもなかった。
二度巡ってきたバレンタインデーも、折角作ったチョコレートは自分で食べてしまった。
結局彼に気持ちを伝えられぬまま、卒業まで残り半年になった。おそらく私の初恋は、青春のほろ苦い蹉跌として、このまま何もなく終わってしまうのだろう。
所詮は成就するはずのない、身分違いの恋だったのかもしれない。
☆ ☆ ☆
「はあ……」
また大きな溜め息ひとつ。
ヨダレでシワシワにふやけた数学の参考書。
彼との学力差を少しでも縮め、あわよくば同じ高校に……。そう思って先日買ったばかりのものだ。
しかし、毎回勉強を始めるやいなや失神してしまう私には、全く意味がなかった。ただの高性能な睡眠誘導装置である。
ああ、恋も、勉強も、もはや諦めたほうが良いのか……。
そうだ、人間諦めが肝心だ。そうやって色々なものを諦めながら私は生きてきた。決して光を浴びることなく、石の下を這いずり回る日陰者の宿命として、この過酷な現実を受け入れるしかないのだ。
何だか泣けてきた……。
☆ ☆ ☆
ふと、ぼやけた視界にカレンダーが映った。
八月二十一日の欄には、『地区大会決勝戦』と書き込んである。
彼に恋をして以来、野球部の試合が行われる度、誰にもバレないよう帽子と眼鏡で変装しながらこっそり観に行っていた私。
グラウンドで躍動する彼の姿が大好きだった。
だが、中学最後の大会となる、この地区予選。これまで彼の出場機会はない。どうやら彼は肘を痛めていて、満足にボールを投げられない状態らしい。
本来正遊撃手の彼が、ベンチで大声を出して仲間を鼓舞する役割に徹していたのを、私はスタンドの隅っこで見ていた。
三日後の決勝戦も、彼の華麗な守備や鋭い打撃を見ることは難しいかもしれない。
ああ、あんなにも一生懸命練習してきたのに……。
何だか自分のことのように悲しい。また涙が出てきた。
でも、私にはどうすることもできない。彼の肘が奇跡的に回復するよう祈るくらいしか……。
ん……?
肘? 関節?
私は何かを思い出した。そして両親に悟られぬよう、そーっと階段を降り、電話の子機を持って再び自室へ帰還。
ごみ箱からクシャクシャのメモをサルベージして、先程記した電話番号に掛けてみた。
☆ ☆ ☆
「ハーイ、テレビでお馴染み、魔女の宅配便です!」
オペレーターは、やたらテンションの高い女性のようだ。
「あ、あの……、さっきの番組を見てお電話させてもらったんですが……」
「まあ、ありがとうございます! 恋のミラクルポーションのご注文ですね!」
「は、はい……」
「こちらのお薬は二種類のタイプがございまして、意中の相手に飲ませる服用タイプと、相手の肛門に注入する浣腸タイプがございますが、どちらをご希望ですか?」
「か、浣腸タイプ!?」
「ええ、臨床データによりますと、浣腸タイプのほうが即効性があるということで、こちらを選ばれるお客様も多数いらっしゃいますよ。浣腸タイプにされますか?」
いやいや、それを買ったとして、一体どうやって彼のお尻に突き刺せというのか?
そもそもそんなシチュエーションに持って行ける時点で、既にクスリなど必要ないレベルの親密な関係だと思うが……。
「い、いえ……、服用タイプでお願いします」
「さようでございますか……。では、服用タイプをお送りしますね」
何故かちょっと残念そうだったオペレーターによると、商品は入金確認後すぐに発送し、明後日には私の手元に届くとのこと。良かった、ギリギリ間に合いそうだ。
☆ ☆ ☆
彼の肘が回復する可能性があるならば、私はそれに賭けてみる。
とにかく彼の役に立ちたい。その一心で、私はこの魔法の薬を注文したのだ。
……いや、それは体のいい大義名分かもしれないな。
何か切っ掛けが欲しかったんだ。
結果を恐れ、勝負を後回しにしてきた今までの私。
勝手に諦め、自分の心が傷つかないようにしてきた今までの私。
できない理由を必死に探しては、良さげな言い訳が見つかったと安堵していた愚かな私。
いつか変わらなければ……、そんな自分にサヨナラしなきゃいけないとは思っていたんだ。
これを機会に、ほんの少し勇気を出してみよう。
自分を守るために閉じ籠っていた殻を割ってみよう。
「まあ、ダメで元々だしさ……」
まだそんな心の予防線を張りながらも、入金のために急ぎ足でコンビニへ向かう、今までとは少し違う私がいた。
☆ ☆ ☆
二日後、待望の小包が届いた。
開封してみると、木製の箱の中に小さな瓶と説明書が入っていた。
瓶の中には透明の液体。どうやらこれが『恋のミラクルポーション』らしい。
早速説明書を読んでみる。
『まず、あなたの脳髄液を採取して、ポーションと混ぜ合わせてください』
……は?
ちょっと待て、そんなもんどうやって採取すんだ!?
「ちきしょう、やっぱり詐欺だったか!!」
怨嗟の叫びを上げ、説明書を引き裂く勢いで憤慨する私だったが、下の方に注釈があった。
『脳髄液を用意するのが困難な場合、涙でも代用可』
だったら最初からそう書いとけ馬鹿!
というか、脳髄液を簡単に用意できる奴なんて存在すんのか……?
まあそれはともかく、早急に涙を出さねばならぬ。
どうしよう、悲しい映画でも観るか?
いや、そんな時間の余裕はない。ここは物理的作戦で行こう。
私は愛用の毛抜きを鼻の穴に突っ込み、うりゃっと気合いを入れて鼻毛を引っこ抜いた。十本くらい抜けた。やり過ぎた、痛い。
部屋の真ん中で、芋虫のようにピクピク悶絶しながら蹲る私。一体何やってるんだろう……。
多大な犠牲を払いつつ、何とか涙一滴の採取には成功した。
さて、スポイトで吸った涙を小瓶の中に落とし込み、数回振って混ぜ合わせる。
『ポーションの色が紫に変化すれば、準備完了です』
おお、確かにほんのり紫色に変わったぞ。どういう化学的作用なのかは全く分からんが、この薬の信憑性が多少増したような気がする。
『そして、完成したポーションを意中の相手に飲ませてください』
そう、一番の難関はこれなのだ……。一体どうやって、この怪し過ぎる液体を彼に飲ませれば良いのか……?
この困難を極めるミッションについて、私は昨夜、ない知恵を必死に絞り出して考えた作戦があった。
☆ ☆ ☆
時刻は午後四時を過ぎたところ。
そろそろ作戦決行の時間だ。
私は意を決して、愛犬のジョニーを引き連れ家を出た。
ポケットには、エナジードリンクの瓶に移し替えた魔法のポーション。
私の考えた作戦はこうだ。
幾度にも渡るストーキングにより、彼が学校から自宅へと帰るルートは熟知している。
その道中にある駄菓子屋。私は犬の散歩の途中、そこで休憩しているフリをしながら彼が通り掛かるのを待つ。
そして彼が現れたら、あくまでも偶然の出会いを装いつつ、
「これ、差し入れ。明日の試合、頑張ってね!」
と、エナジードリンクに偽装したポーションを彼に飲んでもらう。
うん、完璧だ。脳内シミュレーションも百回以上やった。
後は滞りなく実行するだけだ。
☆ ☆ ☆
目的の駄菓子屋に着き、店の前のベンチに腰を下ろした。
現在の時刻は午後四時半。過去の統計から導き出した、標的の予定通過時刻は午後五時二十分である。
その時間が迫るにつれ、どんどん高鳴っていく胸の鼓動。やばい、心臓が破裂してしまいそうだ。
どうしよう、やっぱり引き返そうか……。今ならまだ間に合うぞ……。
そんな弱気の虫が顔を覗かせる。私が生まれてから、ずっと心に住み着いている悪い奴だ。
「ええい遥香、勇気を出せ! これは私の人生を賭けた大勝負なんだぞ!」
私は悪い虫退治とばかりに、自分の頬を往復ビンタしてセルフ叱咤激励を行った。
ジョニーが私の奇行を不思議そうな顔で見ていた。
☆ ☆ ☆
おかしい。
もう六時になるというのに、彼は一向に現れない。
「練習が長引いているのかな……?」
いや、試合の前日は早めに切り上げるのが野球部の慣例だ。それは私が精密に記録した統計表からも明らかだ。
そして、彼は仲間と寄り道することもなく、真っ直ぐ家に帰るのも知っている。
これは一体何事……?
でも、待つしかないか……。
退屈そうな顔で隣に寝転んでいるジョニーの頭を撫でながら、私は彼を待ち続けた。
やがて真っ赤な夏の夕陽が山の向こう側に沈み、辺りはすっかり夜の帳が下りた。
それは、私の作戦が完全に破綻したことを意味していた。
☆ ☆ ☆
以前の私なら、あっさり諦めて家に帰っただろう。
しかし、私はやってきた。標的の本陣、彼の家に。
ひとつ深呼吸をして、震える指でインターホンのボタンを押そうとした、その刹那だった。
「あれ、遥香ちゃん……?」
突然背後から掛けられた声に、私の心臓は超新星爆発を起こした。
全開白目で振り向くと、彼もまた驚いたような表情で立っていた。
あわわわわ、どどどどうしよう? な、何て言えば良い!?
想定外の出来事に、新たに組み直したシミュレーションは吹っ飛び、頭が真っ白になった。
メデューサに睨まれたように硬直する私。
それを救ってくれたのは、ジョニーだった。
愛犬は尻尾を振りながら彼に駆け寄り、腰の辺りに抱きついた。
「おお、可愛いな。よしよし」
飼い主に似ず、実に社交的な奴である。
彼とジョニーが遊んでいる間に私は何とか石化から立ち直り、自分でも驚くほど普通に彼と会話ができるようになった。
クラスが別々になった後も、廊下で擦れ違う度に笑顔で挨拶してくれた彼。その二言三言の会話を何度も反芻し、「もっと気の利いた言い回しはなかったか?」と、一人反省会を開催しながらも、ささやかな幸せに浸っていたものだ。
そして、次なる接近遭遇機会に備え、妄想における予習復習を怠らなかった。ようやくその成果が発揮されたのだ。
どうやら彼は練習後、病院に行って肘の検査をしていたらしい。
その結果は、残念ながらドクターストップ。
「でも、明日勝てば県大会の本戦に行けるからさ。それまでには必ず治すよ!」
逆境にもめげず、彼の瞳は力強い光を放っていた。
何と心の強い人なのだろう。そのポジティブなオーラに触発されたのか、何だか私にも勇気が湧いてきた。
「これ……良かったら飲んで。明日は応援に行くね」
彼に魔法のポーションを渡して、私の計画は無事完遂。後はクスリが効いてくれるよう祈るだけだ。帰りはお寺と神社と教会に寄ろう。
☆ ☆ ☆
翌日、地区大会決勝戦。
私は初めて変装もせず、堂々とスタンドの真ん中に陣取った。
スタメンが発表されたが、そこに彼の名前はなかった。
「やっぱり即効性の浣腸タイプにしとけば良かったかな……」
今更そう思っても後の祭り。私はランナーコーチとして声を張り上げる彼を目で追いながら、試合の行方を見守った。
そして迎えた九回裏、ツーアウト二塁。一打同点のチャンス。
ここで彼はコーチャーズボックスを離れ、ベンチに戻った。
「もしかして……?」
監督が審判に代打を告げ、バットを持った彼が颯爽とベンチから出てきた。今大会、初めての出場だ。
「スイングできるくらいには回復したのかな? だったら良いんだけど……」
このチャンスで彼がランナーを迎え入れることができれば同点、優勝への望みが繋がる。もし打ち取られてしまえば、彼の中学野球生活は終わりを告げる。
彼はバッターボックスに入る前、私のほうを見て、何かを呟いた。
そして、ピッチャーの投じた初球を振り抜くと、甲高い金属音を響かせた打球はレフトスタンドへ飛び込んだ。逆転サヨナラホームランだっ!
ああ、やっぱりあの薬は本物だった!
やったぞコンドロイチン!!
凄いぞコンドロイチン!!!
優勝の歓喜の輪の中で、私に向けてガッツポーズをした彼。私はそれを見届け、球場を後にした。
☆ ☆ ☆
彼の活躍で試合に勝った喜びと、胸に去来する少し複雑な思いを抱えながら、私は歩いて帰路に就いた。
あの魔法の薬が効いて、彼の肘が奇跡的に回復したのは確かなようだ。
彼の様子を見るに、きっと惚れ薬の成分も本物なのだろう。
でも、それって……。
☆ ☆ ☆
「遥香ちゃん! 待ってくれ!」
背後から彼の声が聞こえた。
振り向くと、ユニフォーム姿のままの彼が、私に向かって駆け寄ってきた。
「英太君……」
「今日は観に来てくれてありがとう。君のお陰で優勝できたよ」
「……おめでとう。カッコ良かったよ!」
彼は少し照れた笑顔を見せた後、口を真一文字に結び、何かを決意したような表情に変わった。
「遥香ちゃん。実は俺、君のことが……」
「待って!」
私は彼の言葉を遮り、俯いて首を振った。
確かにあの薬の効果は凄い。でも、これじゃダメなんだ。これはフェアじゃない。薬の効果で好きになってもらったところで、それは私のチカラじゃない。もしここで彼の告白を受け入れてしまったら、私は一生、『変な薬で彼を騙した卑怯者』の看板を背負って生きていくことになってしまうんだ。
私は覚悟を決めて、全てを打ち明けることにした。
☆ ☆ ☆
「私、英太君に謝らなければいけないことがあるの。実は、あのエナジードリンクは……」
「ああ、あれ? ごめん、飲んでないんだ」
「……ゑっ?」
「いやあ、試合の直前に飲もうと思って冷蔵庫に入れてたら、弟が勝手に飲んじまったんだよね……。アイツめ、人の大切なものに手を付けやがって」
「じゃ、じゃあ、薬が効いたんじゃなくて!? あ、いやその……」
「薬? 何のこと? ああ、君の応援っていう特効薬は抜群に効いたよ、あはは」
「そっか……、良かった……」
私はお腹の底から安堵した。私の不埒なドーピング作戦は未遂に終わり、彼の心は純潔を保ったのだ。
ん……?
と、いうことは……?
「改めてもう一度言うよ。遥香ちゃん、君は今まで試合の度に来てくれてたよね? 何故かいつも奇妙な変装してたけど……」
バ レ て た !
「他の誰かを応援してるのかな、だとしたら悔しいなと思ってたんだけど、昨日確信した。君は俺を見に来てくれてたんだよね?」
「うん……」
私がおずおずと頷くと、彼は白い歯を見せて微笑んだ。そうだ、この爽やかな笑顔にやられたんだっけ。
私もつられて笑顔になった。心の準備はできた。
「ずっと俺を応援してくれてありがとう。君が俺を見ていたように、実は俺も君を見ていたんだ。自信が無くてなかなか言えなかったけど……、俺は君が好きだ。俺の彼女になってくれないか?」
「……はいっ!」
この夏空のように晴々とした気持ちで、私は元気よく答えた。
☆ ☆ ☆
恋のミラクルポーション。
結局その薬に関係なく、彼は肘の痛みを堪えてホームランを放ち、そして私たちは結ばれた。
どうせ効きやしない胡散臭い薬だったけど、卑屈になってウジウジしてただけの私に、やっと行動を起こさせてくれた。その意味では効果があったのかもね。
うん、感謝しておこう。
☆ ☆ ☆
さて、念願叶って彼とお付き合いを始めた私だったが、やはりどうしても腑に落ちないことがあった。
学校のスターであり、現人神のような彼が、何故私みたいな野良犬を……?
「ねえ、いつから私のことが好きだったの?」
「そうだなあ、あれは一年の夏休み明けだったな。遥香は自由研究の発表で『憑霊型シャーマニズム』について熱弁を奮ってただろ? あの時に『何だか凄い女の子だな……』と思って興味が湧いたのさ」
ええっ、発表後の教室の空気を凍てつかせた私の黒歴史が……!?
うーむ、災い転じて福と成すとはこのことか……。まあ何でもいいや、とにかく付き合ってしまえばこっちのもんだ。覚悟なさい、咬みついたまま絶対に離さないんだから!
☆ ☆ ☆
そして、できるだけ間近で彼を監視するために、何としても同じ高校に行かねばならぬと、彼の家で猛勉強を始めた私。(自分の部屋ではすぐ気絶してしまうため)
あれほど苦手だった数学も、優秀な専属家庭教師のお陰で少しずつ理解できるようになってきた……気がする。
しかし最近、ちょっと気になることがある。どうも彼の弟の様子が変なのだ。何だか妙に視線が合うし、隙あらば若干過剰気味のスキンシップを図ってくる。その度に彼が追い払ってくれるのだが……。
まさか……!?