06.元聖女、旅に出る
忙しい朝の合間を縫うかのように、セーナはあっさりと屋敷を抜け出すことに成功した。
もう少し苦労するかと思いきや、意外なほどに簡単であったが……まあ、外からの侵入ならばともかく、中からの脱走など普通はそう警戒することではない。
そう考えれば、簡単だったのは当然のことだったのかもしれない。
ともあれ、屋敷を抜け出したセーナが向かったのは、屋敷の裏手だ。
屋敷を抜け出せたところで、その外には街が広がっている。
街の外に出るには、街の門から出るのが正当な手段ではあるのだろうが、当然のようにここはクラウゼヴィッツ家の治めている街だ。
セーナが抜けようと思って抜けられるかと言えば、非常に怪しかった。
最悪の場合そのまま屋敷に強制的に戻されてしまうかもしれず、それを考えれば正当ではない方法を取るしかあるまい。
そのための方法というのが、屋敷の裏手に回るというものであったのだ。
屋敷の裏手に広がっている森は、そのまま外に繋がっているという話からである。
ただし、ちょくちょく兵達の訓練に用いられるぐらいには魔物が溢れており、一般人どころか多少腕に覚えのある者でさえ、そこを通り抜けようとするのは自殺行為らしいが。
そのことを理解しているというのにセーナがそこを通ることを選んだ理由は、主に二つある。
一つは、姉達がかつてその森を通って街の外に出た事があるという話を聞いた事があるということ。
もう一つは、その姉達はその後冒険者になったという話も聞いた事があり、冒険者は魔物と戦うこともよくあることだからだ。
要するに、これから冒険者になろうとするのであれば、この程度のことは出来なくてはならないだろう、と思ったからであった。
とはいえ、無論そのために死んでは元も子もない。
魔物というのがどういうものであるのかは、話に聞いた事はあるものの、セーナはまだ遭遇したことすらないのだ。
自分だけではどうしようもない可能は十分にあり、その時は諦めて別の方法を探すつもりであった。
の、だが――
「んー……もしかして、今日のわたしはとても運がよかったりするのでしょうか?」
呟くセーナの眼前に広がっているのは、見渡す限りの平原と、街道であった。
そして後ろを振り返ってみれば、そこには鬱蒼と生い茂った森がある。
つまりは、無事に森を抜ける事が出来たということであった。
しかも、呆気ないほど簡単に。
何せ、結局魔物とは一度も遭遇しなかったのだから。
「運がよかったのでないのであれば、単に大袈裟に言っていただけだった、という可能性もありますが……まあ、どちらでもいいことですか」
冒険者を目指すのであれば魔物との戦闘経験ぐらいは必要ではないだろうか、とは思ったものの、別にそれが今である必要はないのだ。
もっと安全で安心な状況で挑めるのであれば、それに越したことはない。
まあさすがにそこまでを望むのは無理だろうが、見晴らしの悪い森の中で戦うのに比べれば、大抵の場合はマシだろう。
「とりあえずは、好きで苦労したいわけでもないのですし、問題はないですかね」
それよりもと、セーナはその場を見渡した。
先ほども述べたようにそこに広がって居るのは主に平原だ。
見晴らしはいいものの、要するに何もないということでもある。
日の位置はまだ高いものの、あまりのんびりしていては野宿をすることになってしまいそうであるし、先を急ぐべきだろう。
「そのうち経験すべきだとは思いますし、嫌でも経験することになるのでしょうが……さすがに初日からというのは遠慮したいですしね」
一応多少の準備はしてあるも、本当に多少だ。
野宿をするにしても、せめてもう少し準備はしておきたい。
「一番いいのはこのまま一旦街に戻って準備をすることなのでしょうが……まあ、さすがにないですね」
それでは何のためにこの森を抜けてきたのかという話である。
あっさりと抜けられたとはいえ、さすがに無意味と化すのはやめたい。
それに街に行ったら買い物は出来るだろうが、その代わり捕まってしまう可能性が少なからずあるのだ。
その場合、セーナの冒険は一日も経たずに終わってしまうことになる。
それだけは避けなければならなかった。
「まあ、姉様達の話によれば、割と近い場所に村はあるらしいですし、まずはそこまで行くことが出来れば何とかなるでしょう」
かなり楽天的であり、大雑把な思考ではあるが……問題はないだろう。
セーナはこれから、旅行に出かけるのではない。
冒険に出かけるのだ。
無計画な方が、いかにもそれらしいではないか。
元よりセーナは、未知だとか未踏だとか、そういった言葉に心ときめくタイプだったりするのだ。
冒険者となることを選んだのも、今の自分でもなれる上に求めているものを得られそうだから、というのもあるが、冒険というものに心ときめいたという要素も大きかったのである。
しかもこの世界は、剣と魔法の世界だ。
そんな世界をこれから自由に歩けるというのであれば、それだけで十分というものであった。
「わたしにとっては、ここの時点で既に未知の場所ですしね」
ただの街道の一部に過ぎないが、窓からであるならばある程度外を見たことはあったものの……自分の足で立つのは、初めてなのだ。
これが未知以外の何だというのか。
「まあ、そういう意味でしたら、わたしの初めての未知はこれということになるのでしょうが……」
後ろを振り返り、鬱蒼と生い茂ったそこを眺める。
しかし初めて歩くはずの場所だというのに、何となくそこは初めて歩いた気がしなかったのだ。
既知感があるというか、どこかで見たことがあるような気がしたのである。
もっとも、日本にいた頃も森などを歩いたことはなかったはずだし、おそらくは外から見たことのある似たような場所を重ねているのだろう。
森のような場所ならば、前世の頃も見たことならばあるのだし。
「さて……ともあれ、行きましょうか」
何にせよ、全てはここから始まるのである。
高まり続ける期待を胸に、セーナはゆっくりと歩き出すのであった。