第七章:野球
「あなたたちが救世主様ですか!」
「今日はほんとにほんとにどうか、よろしくお願いします」
断る理由も思い付かず、やってきたのはグラウンド。
沢山の選手と吹奏楽部の応援団、その十倍はいそうな観客をぐるり。
もう一回ぐるり、更にぐるり、ぐるり。
何度やっても変化のない人数に溜息しか出ない。
「なぁ、俺たちって絶対場違いだよな」
「そんなこといわれなくてもわかってるよ! 陸上ならまだしも球技、それも野球なんてどう考えても戦力外さ」
俺と共に負け戦を突き進むのは、陸上部エース天草しいな。
負け戦と最初からわかっているのが余計に俺たちのやる気を削ぐ。
本来なら、ポップコーンでも食いながら暇つぶしがてらに、「あぁどっちが勝ってもいいけど迫力ある試合にしてくれよ」とか緊張感もプレッシャーも選手のひいきすらないフィフティーフィフティーの精神で高みの見物決め込める観客席に座りたかったのに。
俺ら場違いコンビのリアルタイムな居場所といったらどうだ。
洗濯したてのユニフォームを着た野球少年たち(一応年上だが)に囲まれた男臭漂う青春のベンチ。
時間よ止まれ、ここにいるのは青春なんぞ似合わない男だぞ。
「それにしてもほんと腹立つ。あのおっさん、あたしのことをなんだと思ってるんだ。あぁ殴りたい、殴りたい」
天草が真後ろでぶつぶつと悪意を発散させている。
気持ちは察するぞ天草。
「君は男のふりをしてくれ。こうしてヘルメットを深めに被ってれば少年にしか見えないから大丈夫だよ」なんていわれたら殴りたくもなるさ。
だがこれも依頼だ、俺たちが頼まれた最初のな。
あとでなんか旨いものでも奢ってやるから、今は耐えろ。
「うるさい」
怒られた。
俺の好意を無に帰す怒り。なんとなく想像はついていたが、こいつ短気だな。
「……わかってるよあたしだって、そんなこと。依頼は依頼だ。でもやっぱり腹立つんだ! あぁ殴りたい、殴りたい」
「頼むからお得意の鉄拳制裁だけはやめてくれよな?」
「……まるであたしがいつも拳を震わせてるようないい方だね」
「違うのか?」
「バカ! 殴るよ」
「殴るんじゃねぇかよ」
「ぶちかますよっ」
「こえぇぇぇ」
荒れに荒れた不良みたいなことをいいだした天草を黙らせるのはそれなりに骨で、俺がオブラートに包み込んだ綿毛みたいな共感語を、「でも」「だけど」の否定語パンチでことごとく返し、俺の知りうるあらゆる手法を用いて彼女の怒りを沈めようとしたのだがそれは全く無意味で、仕方ないから無視したらしたで椅子をガンガン蹴られるしで、挙句の果てにはこんなことをいい出した。
「……あたしって、女の子っぽくないのかな」
知るか、んなもん。
とはいえず、肯定も否定もしない微妙な物言いで長々、女の子とはなにか、を一から説明してやると、納得したのか、なんとか収まった。
収まったのを確認してようやくグラウンドを見てみると、試合は八回裏にまで進んでいた。八回裏だぜ? 何時間話してたんだよ。
途中で家の話とか雑談までしたからな、そうなるか。
長時間無駄話で一つわかったのが、こいつは自分が男っぽいということを相当気にしているらしいってことだ。お年頃なのね。
俺がカラカラに乾いた喉を潤そうとスポーツドリンクを買いにいってベンチへ戻ると、監督らしきおっさんに肩を掴まれ、
「出番だ君たち! 頼む、我らの窮地を救ってくれ!」
その言葉で思い出す。
そうだ、俺たちは代打バッター(救世主)として呼ばれたのだと。
八回裏、点数は二対四。
もちろんこっちが負けている。
ワンアウトで二、三塁にランナーがいるといういわゆるヒーロータイムだ。
どんなプレッシャーだよ。
天草に近付き、小声で話しかけた。
「おい、どうするよ。このままだと俺たちの内どっちかがほんとのヒーローにならないといけないぜ」
「ヒーローになんてなれる訳ないよ。あたしは球技が苦手なんだ。運良くバットには当てられるだろうけどそれが限界。ヒットやホームランなんて無理ってもんさ、あんた頼むよ」
「俺だって打てねぇよ。当てるだけならまだしも、アウトに決まってる。相手は優勝候補チームのピッチャーだぞ? 急速どんだけあるんだよ」
「全国目指してる猛者が並大抵の実力じゃないことくらい当然だろ? だからこそあんたに頼んでるんだ。真堂会長に訊いたよ。あんた、元野球部なんだってね。しかも相当熱心に練習してたとか。ならその実力を見せておくれよ」
天草はあとは全て任せたといわんばかりに、リラックスモード全快だった。
こいつ、自分は外野視点でいるつもりだろうがそうはいかない。
さぁどうしてやろうか。
俺は二秒で閃いた。
「なら賭けようぜ。お前は一塁到達、俺はホームベースに帰ってくるって条件で負けた方が相手のいうことを一つなんでも訊くってのはどうだ」
「ん〜」
指を口に当て、五秒ほど唸ってから、
「いいね、それ。でもそれだと在り来たり過ぎないかい?」
景気良くうなづく陸上部女。
ふふん、乗ってきたな。
スポーツ女の特徴として負けず嫌いと勝負心ってのが必ずあるって、母さんに訊いたことがある。
母さんいわく、自分に有利そうなちょっとした挑発や賭け事を持ち込まれれば、断る理由はほとんどないらしい。会長との決闘然り、天草は典型的なタイプかもな。
勝負を承諾させたならこっちのもんだ。
「で、二人とも無理だった場合は会長の頼みを一つ訊くってルールだ。あの会長の頼みだぞ? なにを頼むか楽しみだなぁ天草」
「会長の……頼み」
想像してるのか、顔色がみるみる青白く染まっていく。
どうせ二人とも打てないに決まってる。
そして会長が天草に頼むことなど大体想像がつく。
あれだけの求愛行動をしていた会長なんだからな。愛の告白めいたことを天草の口からいわせるとか、そんなんだろ。
天草の精神ダメージとしては最上級だろうな、はっはっは。
対して俺への頼みなどサークル関連のことに違いない、事務的な仕事とも考えられるな。
どちらにしろ、精神ダメージは零に近い。
いいね、我ながらローリスクハイリターンの賭けだな。
「ま、お互い頑張ろうぜ」
「む……」
先にバットを渡されたのは頭を抱える天草しいな。
丸坊主選手から星型のキラキラが注がれる。相当期待されているようだ。
それに反し、青色のヘルメットより青冷めていく天草しいな。
「……打てる気がしない……全くしない」
そう囁きながら、バッターボックスへ歩いていく。
「ホームランお願いします!」「三点は獲ったも同然だな」「あの完全無欠の生徒会長が自信満々によこした二人組みだ」「勝利は確定だ!」
などなど依頼主様方は勝手なことをおっしゃってますが、それは間違い。
あいつはただの陸上部。
そして俺はただの一般学生。
そんな俺の心の叫びなど誰も訊く耳持たないだろう。
なんせ全校生徒どころかその辺の住民にまで知られるあの会長が自信満々だったなら誰だってそっちを信じるさ。
ていうか会長、自信満々だったのか……そうなのか。
不安顔でバッターボックスに立つ天草。
相手ピッチャーの剛速球をずっと見てなかった俺たちのなんとアホなことよのう。
これから未知の急速がキャッチャーグローブへと投げられるのか。
天草には悪いが、しっかり見ておこう。
ピッチャーが投げ姿勢に入り、投げた。
「――――」
「ストライク!」
「……速い」
見えなかった、全く見えなかった。
気付いたらキャッチャーグローブにボールがあった。
普通に速ぇよ、余裕で百三十キロ以上でてんじゃねぇか。
さすが優勝候補。
でも俺はこの速さに安心していた。
これで俺と天草は間違ってもボールをバットに当てることすら出来ないと、確信したからだ。
やるねぇ、全国目指してるだけあるよ。
「ストライク! バッターアウト」
あっさりアウトになった天草は、ベンチへと帰ってくる。
なにやら神妙な顔つき。
「んん――」
「どうした? あっさりすぎて頭でも打ったか?」
「頭なんて打ってない! さっきのボールがちょっと……」
ボール? ボールがどうしたってんだ?
「さっきのボール、多分だけど全部ストレートだった。カーブとかシンカーじゃない、ただのストレートだったんだ」
こいつ……今なんていった?
「お前、あの球が見えたのか?」
「あれくらいならなんとか。陸上やってるからね、速さには慣れてるつもりだよ。ぎりぎりだったけどね」
天草はけろりといってのける。
まさか、初心者に優勝候補チームの有名ピッチャーが投げる球が見えたってのか?
球種までしっかりと。
「……動体視力ってやつか」
「なにかいったかい?」
「いや。それより全部ストレートってのは本当か?」
「多分間違いないよ。一回も曲がらず、グローブへ入ったからね」
「そうか、ありがと」
「ありがとう?」
俺の返事に天草はクエッションマークを浮かべていたが、仕方ない。
それによく考えると感謝するのはまだ早かったな。
問題は次だ。
いきなりの感謝の言葉に続いてぶつぶつ独り言を呟き出した男を目の前にして、ますます頭上のハテナを大きくする天草。
そんな彼女へと、ずんずん歩み寄る一人の人物――――監督だ。
心情の読み取れない無表情。
おそらく憤怒だと思うが。
しまったな、バットに掠ってもいない見事なまでの三振だ、いい訳も出来ない。
俺たちが素人だって、さすがにバレたか?
「天草さん、さっきは調子が悪かったのかな? でも君らなら大丈夫! なにせあの真堂会長が推薦された方々だ。勝利を掴んだも同然! 次で決めちゃってください」
「…………」
憤怒どころか満面のスマイルを見せたおっさんの絶大なプッシュに、
「ささ、君も軽く打っちゃって、かるーく敵チームを圧倒してきてください」
俺たちは若干どころか、かなり引いていた。
このおっさん、どれだけ会長のこと信頼してんだよ。
逆効果だよ、こっちにはプレッシャーしか残らねぇよ!
この状況をどう切り抜けようか必死に考え始めた俺のもとへ、丸坊主選手がバットを持ってくる。バットが妙に重く感じるのは何故だろうね?
……まぁ、いいか。少しだけ余裕も出てきたことだし。
天草との会話で一つ気になることができたからな。
だから、俺はバッターボックスに向かう途中、天草にこう告げた。
「この三球、球種を見ていてくれ」
「えっ」
「見やすいように二球までバットは振らない、頼んだ」
天草は良くわからないといった表情ながらも頷いてくれた。
バッターボックスに立つと、緊張が体中を駆け巡り俺の頭にパニックの文字がうっすら浮かび上がる。
応援団の声、観客の数、ベンチの期待、そして、敵チームの威圧感に押し潰されそうだ。
大丈夫、今回は相手を見るだけだ。
大丈夫だ、落ち着け。
敵ピッチャーが投げ姿勢に入る。
良く見ろ、見るんだ。
ばんっ
音だけがした。
やっぱり見えない、速い。
でもキャッチャーグローブはきっちりど真ん中にあった。
そのあとも球に集中して、全く見えなかったのだが、キャッチャーグローブはいつも同じ位置、ど真ん中だ。
「なるほどな」
あとは天草に確認すれば――
三球目に一応振ってみたが……まぁ見えない球に当たるはずないよな。
ベンチに戻ると、無抵抗のままやられたど素人バッターに
「次ありますよ」「あなた方ならホームランも楽勝です」「負けるなんて百万分の一の可能性もありません」「私たちの救世主様!」
監督含め選手一同、この調子。
もはや意味不明だ。
開き直ってるのか、それともこんな馬鹿を本気で信頼してる大馬鹿どもなのか。
でもまぁ、人に信じられるってのは、案外、悪くない。
「どうだった?」
「遠くからで自信はないけど……ストレートだったように思う。曲がってもぶれてもなかったし、あたしの時と同じコースをボールが走ったように見えたから」
「同じコースをボールが走る……か。思った通りだ」
「どういうことだい?」
動体視力抜群の優秀生に、種明かしではないが、俺は自分の考える仮設を話してやった。
「――――と、こういうわけだ」
「ふーん」
「どうだ? この作戦」
「それだけ?」
「そうだ。……驚かないのか?」
「単純も単純で単純な作戦だなぁと思って。小学生でも思いつくよ?」
「……悪いかよ」
「悪くはないけど、ほんとにそれで良いのかい?」
「良いも悪いも、俺たちが勝てる見込みは、ここにしかないんだよ」
「んーっ」
急に椅子に座りこんだ天草は、自分の額に手を置き、眼を閉じて動かなくなった。
まるで修行僧の瞑想みたいに微動だにしない。思わず手を合わせたくなる。
数分の神々しさを見せ付けたそいつは、
「よし!」とカエルみたいに跳びあがり
「今回はあんたに任せる。野球のことはあんたの方が詳しいからね。賭けに負けたら笑ってやるさ」
浪花のガキ大将みたいなことをいった。
「そうか、ありがとよ」
それから九回表、九回裏とすぐに打席が廻ってきた。得点は変わらず二対四。二、三塁にランナーがいることも同じ。違うのはツーアウトだってことだ……。
「あたしが出なきゃ、そこでゲーム終了なんだね」
まずい、この状況は予想してなかった。
まさか一塁ベースでゲッツーを取られるとは、この状況でそれはないだろう。
こうなったら俺が先に出て奇跡のホームランを打つべきか、それとも――
「おーい」
「ん、あぁ、わるいわるい」
「あんたさ、あたしがまた三振になると思ってる?」
平然の顔で当たり前のことをいいやがった。
三振にならない理由があるなら是非ともご教授いただきたいね。
「あたしはね、勝負事には強いんだ」
そういって颯爽とベンチを後にする天草。
いや、無理だろ。その自信はどこから来るんだ。
だいたい素人が練習重ねたピッチャーに勝てるはずないだろ。
お前だって会長にそういってたじゃないか。
いくら球が見えるからってどう足掻いてもお前が打つなんてことあるわけ――
カキーン
「かきん?」
音を辿ると、矢のようなボールが観客席付近にまで到達していた。
おいおい嘘だろ?
必死にボールを追いかける相手選手。キャッチしてから投げるまでのモーションが速い。さすが優勝候補といったところ。
しかしここからが更に速かった。
速かったのは相手ではない。
陸上部エース、天草しいなだ。
天草はスタートダッシュからどんどんスピードを上げていき、一塁、二塁、三塁を駆け抜け、遂には前を走っていた味方選手を追い抜いてしまうんじゃないかっていうところまで来ていた。そのスピードは超速を超えた神速ともいうべきか。会長との一戦で見せたあの走りの比じゃない。
あいつほんとに人間か? 速すぎだろ、おい。
「五点めっと!」
試合は天草しいなの活躍によってあっさり勝利。
これまでの苦戦はなんだったのか、俺が自信ありげに考えた作戦はなんだったのか。
とにかく今は脱力感で一杯だ。
「どんなもんだい!」
ホームベース付近で胴上げされてた天草がドヤ顔でやってきた。
「あたしのバッティングも中々のもんだったろ?」
ドヤ顔でこちらを見ている。
「うんうん、さすがあたしだね。いやぁ、ど真ん中を打ち抜いた時は、気持ちよかったなぁ。かっきーん、だって!」
ドヤ顔が止まらない、素振りまで始めやがった。
すげぇうざいんですけどこの女。
「かっきーん、かっきーん、野球も面白いもんだね! 陸上には負けるけどさ」
「良かったですねー」と俺はテキトーに褒めてやった。
「あんたも喜びなよ、勝ったんだからさ! あたしのおかげで、ってあんたのおかげでもあるんだけどね」
全部自分の活躍だと顔に書いてある女は、気の使い方を再学習したのか、俺の哀れさを笑ってか勝利の共感を求めてきた。
今のどこに、俺のおかげ要素があるんだ。
「あんたが立てた作戦、『相手ピッチャーは、真堂会長が直々に選抜したあたしたちにびびって全力投球剛速球のストレートしか投げない』ってやつ。あれのおかげなんだよね。実はあたし、タイミングはばっちりなんだけど振る位置がわかんなくって困ってたんだ。カーブとか出されたら終わりだし。でもストレートが来るって最初からわかってるなら、さっきボールが通ったのと同じ位置にバット振りぬけば跳ばせるかなーと思って。思いっきり振ったらジャストミート! そう、ジャストミートだった!」
こいつはたったそれだけのことで、百キロ以上の剛速球を返したってのか。
違うな、返しただけならまだいい(よくはないが)、あの神速でベースを駆け抜けたことが問題だ。練習なしで剛速球を返す、ツーベースも離れてる選手に追いつく。
むちゃくちゃだな、こいつ。とんだ身体能力だ。
今からどっかの球団に引き抜かれてこい、お前ならメジャーリーグでも活躍できるだろうぜ、金はもらえてジャストミートも打ち放題だ。
「それはそれで面白そうだけど遠慮しておくよ。あたしは陸上一本だからね! フレンドラブルのこともあるし、こっちの方がもっと面白そうだ」
ま、お前には陸上の方が断然似合ってるな。
日本代表なんてあっという間だろうぜ。
あのサークルが面白いかどうかは別にしておくがな。
たくっ、会長も大したやつをスカウトしたもんだ。
「お疲れさん、天草」
「おう!」