第五章:真堂冷炎vs天草しいな
またもや翌日――
俺はなぜかポールに括られたペラペラ紐の反対側を握っている。
クーラーの冷気がとても心地よい室内で身体を休めて元村辺りと駄弁るいつもの昼下がりではなく、照りつける日差しの中、汗がだらだら流れ落ちるグラウンドなどに立たされなきゃいけない理由はなぜか。
それは真堂会長の勝負とやらを天草しいながあっさり受けて、さらには、貴様はゴールテープ、との生徒会長様直々の命令が下ったからだ。
観客は一人もいない。
さっきから食堂辺りがやけに騒がしいから、彩援さんがなにか手を回したのかもれない。
美人秘書としては完全無欠の生徒会長が敗北を記す瞬間など、誰の記憶にも残してほしくはないだろう。
それに相手が相手。
そりゃあっさり決闘も受けるさ。
天草を心置きなく入部させる方法として決闘は最も簡潔で簡単に思いつく方法だ。ただの決闘じゃない、天草しいなの得意分野での決闘を申し込み挑発する。
やっぱりなとは思ったさ。
誰でも思いつく。だからこそ問題も簡単であり難解、つまるところ、完全無欠の生徒会長である真堂冷炎が、陸上部エース天草しいなに勝てるかだ。
なにせ中学時代、全国大会出場経験もあるらしい陸上部期待の新人がもっとも得意とする競技、百メートル走だもんな。
短距離走は日々の地道な鍛錬が、コンマ一秒でも脚を速くするスポーツだ。
素人が学生とはいえ将来有望の選手候補に勝てるわけがない、ましてや全国区。
高校一年といってもすぐにでもエースに登りつめるだろう。
そういや二人とも体操着姿になってから気づいたのだが、天草しいなは、ほどよく筋肉のついた太ももからつま先まですらっと伸びた脚をしていた。
モデル体系の彩援さんとは違う種類の美。
美人秘書魅惑の太ももに勝るとも劣らない、鍛え上げられた豊かさがある。
なるほど、会長さんもピューマのような脚とは良くいったものだ。
ピューマ脚は見た目だけではなく本物で、さっき準備運動といって二百メートル程度走ってるのを見たが、驚異的なスピードだった。
百メートルであのスピードだとしても勝てる気がしない。
本気を出して走ったらどのくらいなのか、楽しみではあるな。
対して会長さんは、調度二人の脚を足して二で割ったような肉付きをしていた。
一年間サッカー部にでも入ればこんな感じになるだろう。
そうだな、スポーツ少女一歩手前といったところか。
陸上部女とは違って、会長さんは今から勝負をするというのに軽いストレッチだけでやる気があるのかないのか。
勝てないと悟って諦めたのかもしれない。
それならそれで全然構わないのだが。便乗して俺も辞められそうだし。
生徒会業務で新一年生の部活動の訓練風景なんて見る暇ないだろうし、もし遠くから見れたとしても実際のスピードってのは近くで見ると全くの別物だから、会長さんの下調べってのは意味をなさず無駄になるってものだ。
さてさて、会長さんと、近未来の陸上部エースが遠くで横一列。
勝手に火花を飛ばすのは天草しいな。
その左横で彩援さんがピストルを握ってる。
あぁそうだ。
二人が勝利したときに掲げる条約をそれぞれいっておくと、
「あたしが勝ったら、今後一切あたしに声をかけるな! 勧誘ももちろんなしだ! あたしはあんたみたいな、なんでも出来る天才が、大嫌いなのさ」ってのが陸上部女の条約で、
「いいだろう。我はお前みたいな奴が大好きだ! 我が勝利した暁には、陸上部を辞め、我がサークル、フレンドラブルへの正式加入を申し立てる」というのが生徒会長様のお言葉。会長さんのは絶対叶わないから条約でもなんでもない。
それはそうと、二人とも自信満々だなぁ。
「位置について」
おっと始まるようだ。
彩援さんがピストルを天に向けた。
きれいなクラウチングスタート姿勢の天草しいなに対して真堂冷炎は眼を瞑り構えなし。
やる気ないのか?
「よーい――」
直前、天草しいなは呼吸を止め、真堂冷炎は眼を見開いた。
「――ドン」
スタートダッシュを決めたのは天草しいな、予想通りの速さだ。
だがそんなことより驚いたのは、隣を走っている完全無欠の生徒会長。
両腕を後ろに伸ばしただけのフォームも糞もない(しいていうなら忍者みたいな)でたらめな走り方なのに、すぐ後ろをぴったり張り付いている。
「おい、うそだろ?」
歩数は少ないが一歩の前進距離が桁違いに広い。
いや、同じ地面を走っていると到底思えないといったほうが正しいか。
まるで平面のエスカレーターともいわれるムーヴィングウォークの上を走っているような奇妙さ。
歩数は三倍近く違うのに両者のスピードには眼に見える差がない。
さすがの陸上部エースもこれには驚いたようで後ろを二度振り向き、口と眼を丸くした。
五十メートルラインを過ぎても差が広がらない――いや、逆に差が縮まっていく。
七十メートル、八十メートルでついに横一列に! 九十メートルを過ぎ天草しいなは眼をつぶり必死の形相。
どっちだ、どっちだ、どっちだ!
眼球を限界まで大きくし、その光景を眼で捉える。
ゴールテープを握る力を弱める。
視線を先に通り過ぎたのは、
先にテープを切ったのは
「勝ったのは……はぁはぁ……どっち」
背中で息をしている陸上部員が膝に手を置き、背を丸めて問う。
「…………」
会長さんは息一つ乱さず、無言でたたずんでいた。
俺は自分の眼で見た光景を言葉にしていく。
「勝者――――天草しいな!」
今、刻を停めたのは確実に俺だ。
天草しいなは呼吸をしてないみたいに動かないし、会長は無言で天を見上げている。
動いているのはスタートラインからこっちに小走りしていた彩援さんだけ、まだ四十メートルラインなので聴こえなかったのだろう。
「負けてしまったか」
言葉とは裏腹に、晴れやかな声だった。
「さすが我の認めた女、天草しいな。我の全力をこうもあっさり抜きさるとは、これまで敗北などしたことのない我が、よもや負けてしまうなど、まさしく驚天動地なり」
そういった会長さんはとても眩しく、勝者よりも勝利の輝きを放っていた。
なんか……潔いというか、少しは悔しがってもいいだろうに。
素人ながらにいい勝負をしたように見えたぞ。
天草がいる前で、そんなこといわないがな。プライドを傷つけるだけだ。
俺が世紀の一線を勝利した陸上部女に目を向けると
「ふっ――」
そいつは、
「ふっざけんじゃないよぉぉぉぁぁぁぁぁぁぁぉ!」
突然、大地を激震させるような雄たけびをあげやがった。
「ど、どうしたんだ、おま」
「お待ちください」
驚愕の表情でいった俺の言葉を彩援さんが遮る。
その動作に目を丸くして彩援さんを見たのだが、驚いてばかりの俺とは違い、彼女の言葉には迷いなどなかった。
「今、わたくしたちが口を挟んではいけません、申し訳ありませんが……ここは」
あぁそうか、と俺はようやく気づいた。
彩援さんは、口を挟むべきではない、とは違い、口を挟んではいけない、つまり選択ではなく一つの道しかないといっているのだ。この時間この空間は、真剣勝負をした二人だけの空間、俺たちがどうこういっていいことじゃないんだ。
今の二人へ他のなにかをその瞳に映してはいけないのだと、そう理解して彩援さんの言葉を受け入れ、二人に視線を戻そうとしたのだが、戻す前にそこから罵声が飛んできた。
「なにがあっさり抜きさるとはだ!」
どうやら、天草しいなには元から俺の声など聴こえてはいなかったらしい。
「なにが驚天動地だ、驚いたのはこっちだよ! ただの一般人が鍛錬をほどこしたスプリンターに勝てるわけがないんだ! ましてやあたしは全国区、優勝経験だってある。中学時代といっても負けるわけない。三年生の先輩にだってあたしには追いつけなかったんだ。あたしの脚はこの高校にいる誰よりも速いんだ、それなのに……」
そいつは自身を痛めるつけるように、手のひらを力強く握った。
「ぎりぎりだった……本来あんたなんかが追いつけるはず、ないのに」
「コンディションが悪かったのだろう」
「コンディションだって問題ない! むしろ良いほうだったくらいだよ」
「だった――実際は違ったのだな」
実際は違うってどういうことだ? 途中から脚を痛めたのだろうか、と俺のアホな考えとは裏腹に陸上部女は次のように告げた。
「――あんたの速さに驚いたあたしは、いつもの走りを忘れてた。誰もあたしに追いつけるやつなんていなかったからね」
「ふむ、そのようだな。途中、お前の速度は落ちていた」
「あぁ、でもすぐに戻してみせたよ」
天草しいなは白状したようにいう。
俺にはスタートからゴールまで全力疾走で走り抜けたようにしか見えなかったけどな。
「始めの三十メートルまでは全力、我を見て七メートル減速して、二十三メートル全力、そこから二十四メートル減速して、残り二十六メートルを持ち直したのだな」
そんなことを淡々と告げて
「そうだな、タイムとしてコンマ七秒のロスといったところか」
「へ?」
アホみたいな声を上げたのは俺だったが、心停止したように硬化したのは天草しいなだ。
俺はなんの知識もない一般学生なので良くわからんが、おそらく、俺が考える何倍も凄いことなのだろう。いや、『凄い』という言葉では言い表せないほど……かもしれない。
天草の硬化は五秒ほどで解かれ、今度は表情を引きつった面持ちに変化させる。
「……どうしてそこまでわかるんだい? あたしの平均タイムは十一秒八。今回のタイムは、おそらくあんたのいうとおり、十二秒五に限りなく近い。あたしは何万本も走ってきたからね、そのくらいはわかる」
そいつの瞳は一気に炎に包まれた。
「でもあんたには、あたしの走りがどの程度かなんてわからないはずだ! いいや、タイムをわかってたとしてもそんなことはあり得ない、プロのコーチでもほぼ不可能だよ。何千本もあたしの走りを見てようやく予測が付くくらいだ」
「そう、だから見てきた」
髪を掻き揚げ、平然という。
「我はお前の走りを何度もこの眼におさめた。去年の大会映像の全てを入手してな。視聴回数は合計二千三十二回、いや、二千三十三回だったか」
俺は自分で決めつけていたことを思い出す。
――実際のスピードは近くで見ないとわからない、会長には天草の走りを見る暇がない、会長さんの下調べってのは意味をなさず無駄になる――
全くの逆だ。
会長さんには天草しいなの走りが全てわかっていた。
こいつは、真堂冷炎という女は、見るほどに観るほどに視るほどに診るほどに看るほどに、天草の走りを何度も何度も見て、眼前で再生されるほど天草しいなという女を魅てきたんだ。
天草しいなという女にそれほどの時間を費やして。
全ては天草しいなを欲するが為に。
「そんな……こと、あんたは」
「実に素晴らしいものを見せてもらったぞ、我は有意義な時間を過ごしたものだ。しかし、映像で見るよりやはり速いな、そして美しい」
爽やか選手権全国優勝者みたいなパーフェクトスマイルをみせた真堂冷炎は、口説き文句の鉄板みたいなことを告げた。
ほんとお前は、何から何までやりすぎだっつの。
「我の負けだ、疑いようもなく完全なる、な。天草しいな、お前とのかけっこ、我の一生の思い出に残そうぞ」
「…………」
やれやれ、陸上部のやつらが激震しそうな一戦を、ただの『かけっこ』と称しやがった。
天草しいなはなにもしゃべらねぇし、その『かけっこ』に見入ってた俺が馬鹿みたいじゃねぇか。
「さて、美零。我は条約により、今後一切、天草しいなと関わることができない。なんとも心苦しいが、敗者は勝者に従うまで、いくぞ」
「はい……会長……」
準決勝で惜しくも敗退した甲子園球児のキャプテンと二年生エースのようにグラウンドを後にする二人。
敢闘賞の代わりに賞賛の拍手を贈ってやろうと手をひらいた時、
「ちょっと待ちな」
もう一人の敢闘賞受賞者が二人の歩を止める。
「あんたが少しわかった。あんたは噂以上の会長さんだ。だから条約は、取り消す」
「取り消す……か。しかし、そうなれば我はもう一度そなたを口説きにいくぞ」
「ん、そうはならないよ。そんなのお互い疲れるだけだからね」
ホワイ? 俺にはこいつのいってる意味が理解できん。
次の言葉に期待を持たせた天草しいなは、眼を閉じ、肩で大きく息を吐く。
そして瞳を決意の色に染めた。
「陸上はあたしの命だからね、さすがに部は辞められないけどさ。そのサークルとやら、たまになら顔を出しても…………いい」
やっ……
「やりましたね会長っ! さすが会長です! 素晴らしい限りです! いつも尊敬しております! 愛しております! 永遠に側で御使いします!」
それまで表情を一切変化させなかった副会長が、究極なデレを開花させ会長に抱きついた。愛してるとまできたもんだ。
どうやら俺が賞賛の言葉を贈るまでもなかったようだ。
つーか、彩援さん。ギャップ萌えとはいうけども……これはいかんせん、世界レベルの伝説になりそうだな。
「はっ」
デレを凌駕したテラ萌えを発揮した、元クールビューティ彩援美零嬢は、会長以外の民衆もこの場にいることを思い出しのか、
こほん
「失礼しました」
若干顔を赤らめながら眼鏡のつるを上げ、サポートプロフェッショナルの美人秘書に転身した。
かわいい。
「……あ、えっと……あんたも大変なんだね」
「そんなことはない。好意を持たれることは人間として最上級に素晴らしいことだ。大切にせなばなるまい」
「…………」
「…………」
俺と陸上部女は互いをトレース、完全無欠さんへ、同時に哀れみの無言を放射。そして
「――――」
恥じらいの美人秘書もやはり無言。少し種類が違う気もするが。
パン
「まぁそれはおいといて」
その一言が空気を変えた。
ふむ、空気の読めるやつは嫌いじゃないぞ。
俺の好感度を二ミクロンほど上昇させたそいつは、真堂冷炎めがけて人差し指を突きつけた。
「あんたにこれだけはいっておくよ! 完全無欠の生徒会長、真堂冷火! あたしはあんたを、いつか必ず、追い抜いてみせる!」
「うむ、期待しているぞ! 天草しいな」
そういった二人はスポーツマン特有の燃える背中をしていた。
誰だってそう思うさ。
勝者も敗者もないこのグラウンドは、学校中のどの場所よりも居心地が良かったんだからな。それだけは間違いない。
「美零、我はこれより、二つ以上の部に同時参加することを許可する。ただし、やる気のない者は即、両部活を辞退との条件付きでな。校則を書き換えるぞ」
「はい、会長」
今日一番の笑顔を見せた真堂冷火は、太陽の光よりも俺の心を熱くした――ような気がした。
「あたしはやる、勝ってみせるっ! 一から特訓やり直しだ!」と青春学園ドラマのように走り出した天草しいなも負けてなかったけどな。
どいつもこいつも熱い熱い。
まぁ、そういうのもたまには悪くないか。
「ああ、元村のいった通りじゃねぇか、ちくしょう」
マジで完全無欠だわ。
皆がそれぞれのグラウンドを後にする中、俺は独り言のようにいった。