996 敬礼
パスカルの姿を見たユーウェインはすぐに姿勢を正して敬礼をした。
敬礼の仕方にはいくつもの種類があるが、ユーウェインが選択したのは右手を握りしめて左胸に当てるものだった。
意味は複数あるが、この場合は上官への敬意や従属をあらわす。
ユーウェインの敬礼を見た三人は慌てて同じように敬礼をした。
午前中の騎士教練で習ったばかりだが、咄嗟にすることができない。
騎士だけでなく警備関係者及び一般的なものを含め、敬礼は多種多様だ。
どのような敬礼が相応しいかを状況や相手、自身の伝えたいことに応じて使い分ける必要がある。
騎士らしくてカッコイイ、簡単だと思っていた三人はクラウスの厳しい指導に敬礼の奥深さと難しさを感じていた。
「初々しいね。騎士らしいよ」
三人の敬礼姿を見たパスカルは嬉しそうに言った。
「教練で習うことは必須のことばかりだ。教えられたことは日常的に繰り返しながら覚えていくように」
「はい!」
三人の返事が揃う。
基本的に同じ立場の者達は同じタイミングで同じ返事を返さなければならない。
百人の騎士が一人ずつ順番に違う返事をするのは無駄だからだ。
これも教練で教わる。
「いいね。揃えるのはとても大事なことだ。すぐにできるのは優秀な証拠だよ」
褒め過ぎだとユーウェインは思った。
このようなことはできるのが普通、当然なのだ。
本来は騎士学校あるいは他の騎士団で習い、完璧に習得した者だけが第一に入るゆえに。
三人は違う。
初歩の初歩から習うことになるため、教えられるのは一度だけ。すぐに覚え、身につけていくようにしなければならない。
猶予はない。一秒たりとも無駄にできない。必死で食らいつくのみ。
だというのに、三人の表情は真剣なものから嬉しそうなものへ変わっていた。
褒められたのを真に受けたのだ。
単純過ぎてユーウェインは呆れた。
「対戦は終わった?」
「終わりました」
ユーウェインは即答した。
上司の質問に誰が答えるのかを瞬時で正しく判断しなければならない。
担当教官であるユーウェインを差し置き、三人が答えるのは間違いになる。
三人の判断よりも早くユーウェインが答えれば、三人は間違えない。
担当教官であるユーウェインの責任も問われない。
「この後は?」
「ありません」
終業時間になっている。追加勤務等の指示がなければ何もない。
三人は宿舎に帰るだけだ。
ユーウェインも同じく。
「明日の予定について説明する」
やはりそのことかとユーウェインは思った。
タイラーから訓練場に行くよう言われた際、明日の三人の予定についてラインハルトとタイラーに確認したが、わからないと言われてしまったのだ。
三人については王太子の命令でパスカルが直接担当になっている。
終業時間までに伝令や指示書が来るかもしれないとユーウェインは思っていたが、何もなかった。
ロビンとの対戦が終わった後にパスカルの所へ行かなければならないと思っていたが、本人の方が来た。多忙極まりないはずだと言うのに。
それだけ三人が特別なのかもしれないが、正直、ユーウェインはよく思っていない。
三人がヴェリオール大公妃と同じ孤児院にいた者であることも、今の暮らしが苦しいために新しい職を求めていることも知っている。
王太子が密かに保護し、以前よりも良い条件の就職先を斡旋する気でいることも。
ヴェリオール大公妃の知り合いというだけで、驚くほどの幸運を手に入れた者達だ。
ユーウェインは騎士見習いを三年、従騎士を二年、勤務の傍ら必死で勉強に努め、嫌がらせにも耐え続けてようやく騎士になった。
騎士になっても苦労の連続だった。
上級騎士になったせいで命まで狙われるほどの嫉妬や多くの悪意を受け、幾度となく限界を感じて来た。
騎士を辞めるべきなのかと悩む中、近衛騎士団長のおかげで能力主義の第一に出向することになった。
ようやくここまで来たという想いがある。
三人は自ら騎士になることを選んだわけでもなければ、騎士になるかどうかさえもまだ決めていないただの一般人。
にもかかわらず、エリート中のエリート騎士団である第一の体験者になれた。
たった一カ月後の勉強と訓練期間の後、結果次第では第一の従騎士になれる可能性もある。
自分との差を思い知るしかない。
「騎馬訓練には第一に所属する騎士が参加する。国民に第一の素晴らしさと誇り高さを知らしめる意味もあって、防壁の外側で行われる」
王宮地区を取り囲むようにある防壁は主要街道以上の幅がある道路によって囲まれている。門のある場所は必ず広場にもなっている。
防壁外道路も広場も全て王宮地区。
有事の際には王宮を守る者達が防壁外道路に集合、展開する場所になる。
新年の謁見に来る者達が通る正門付近は通行できるが、それ以外は騎士団の騎馬演習のために防壁外道路及び広場は封鎖、許可のない者の立ち入りは禁止になる。
特別訓練には全員参加ということになっているものの、護衛や警備の任務遂行者は参加できない。
勤務は交代制であるため、途中で交代する者や夜勤の者も勤務に影響が出ないように参加を控えなければならない。
とはいえ、騎馬訓練は新年の幕開けともいえる一大イベントだ。
見学に来る一般市民からの賛辞や激励が直接聞けることもあって、騎士達は可能な限り参加しようとする。
騎馬訓練は一月二日から各騎士団が交代で行う。
第一王子騎士団は一月三日。
訓練とは言っても本当に訓練をするようなものではない。
訓練の成果を確認するためのもの、騎士団としての誇り高さや強さを見せつけるためのものといっていい。
「三人は騎士ではない。騎馬訓練も受けていない。参加できない」
すでにユーウェインから聞いていたことではあるが、三人はがっくりと肩を落とした。
「そこで三人には視察任務を与える」
私服で外出し、広場の一部に設置された見学エリアから第一の騎馬訓練の様子を見学する。
それ以外にも警備、見学者、周囲の状況についても観察及び情報収集に努め、騎馬訓練時の外部状況を把握しておく。
「第一は午前中に騎馬訓練を行う。見学後は寮に戻って着替え、昼食を取る。午後は馬術に関する技能の確認を行う」
ピックは前の勤め先が馬や馬車の管理やメンテナンス等を扱う店だったが、ロビンやデナンの知識や技能も含めてどの程度かを実際に確認することになった。
「三人は馬に乗れるようだけど、一人で乗り降りしたり操作することができるという意味でいいのかな?」
貴族の常識では男性は馬に乗れる。自分一人で馬に乗って歩かせたり走らせたりすることができるという意味だ。
貴族が通うような学校では馬術が必須科目になっているため、よほどのことがなければ基礎的な知識と技術を習得している。
しかし、平民は違う。
標準的な公立学校において馬術は必須科目ではない。特殊な事情がない限りは習わない。
馬に乗れないどころか触ったことさえない者も普通に多いというのが常識だ。
「大丈夫です! 俺は馬関係の仕事だったので!」
ピックが馬好きなことも、人間よりも馬の方が素直で嘘をつかないと思っていることもパスカルは知っていた。
「仕事で扱っていたことがあるので大丈夫です」
「普通に扱うことはできます」
「ピックとデナンはともかく、ロビンはどこで習ったのかな? 孤児院では教えていないはずだ」
「アルバイトで……」
ロビンが弱々しく答えた。
失敗したと思っていることがわかる表情だ。
「どんなアルバイトかな?」
孤児院にいた頃に職業訓練の一環でアルバイトをしていたという話は聞いているが、三人は詳しく話したがらなかった。
色々、ちょっとした手伝い程度だと言って誤魔化していた。
ただ、犯罪行為や違法行為ではないことはしっかりと強調していた。
「……配車係です。ドアマンの仕事と一緒にしていました」
配車係というのは乗り物の手配をする者のことで、客が乗って来た馬や馬車を一時的に預かり、馬小屋や車庫に移動させるようなこともする。
ドアマンは常時礼儀正しく立っている必要があるが、長時間は辛い。
そこで店によっては配車係も受け持ち、交代で務めながら体をほぐして体の負担を軽減するようにしていた。
「専門的なことはできませんが、簡単な馬の世話や馬具の調整は一通りできます」
他の配車係、馬車の管理者、飼育員に質問しながら教わった。
「俺もドアマンと配車係のアルバイトをしていました」
「俺も!」
デナンとピックは自分達も同じアルバイトをしていたことを伝えた。
ロビンを支えるため、何か問題があれば自分達も一緒だということを示すためだった。
「そうだったのか」
有効な情報が追加された。
三人は未成年時のアルバイト経験によって馬に関する知識や技術を得ている。
自分で馬を扱えない者は騎士になれない。
平民が騎士になりにくいのは身分のせいだと思われるが、馬術の技能で差がつきやすいこともあった。
「でも、走らせるようなことはしてなさそうだね」
「走らせるのは大好きです!」
「それも大丈夫です」
「走らせることもできます」
配車係は安全第一のため、歩かせることはあっても走らせるようなことはしない。
しかし、馬や馬車に乗って来た客が何らかの事情でその馬や馬車を利用しないこともある。
そのような時は店の方で馬や馬車を一時的に預かったり、自宅等へ送り届けたりする。
普通のドアマンや配車係は決められた仕事しかしない。できないことは他の担当者、店によっては外部の者に委託する。
だが、孤児である三人はできる限りのことを率先して引き受けていた。
三人よりもやや年上だったボスは孤児院が押し付けてくることよりもよっぽど社会勉強や職業訓練になると考え、アルバイトを通じて多くの知識や技能を身につけていた。
それを手本にして、三人もアルバイトで可能な限りの知識と技能を身につけるようにしていた。
「貴族の屋敷までぶっ飛ばしたことがあります!」
「軽く走らせる程度です」
「もう一頭、連れていくこともできます」
「俺も二頭いける!」
「それこそゆっくりですが」
パスカルは内心驚いていた。
孤児だからこそ何もない、何もできないのではない。
何もない孤児だからこそ、必死に貪欲に学んできたのだ。
あることを当然として目の前のことだけをこなし、十分学んでいると慢心してしまう者とは違った。
猶予が欲しい……もっと多くの。
だが、与えられたのは一カ月。
原石のままにはしたくない。磨ききれないのもわかっている。それでもせめて、形になるよう削りたい。
世界にたった一つしかない輝きを予感させるように。
「日課を与える」
第一は能力主義。常に向上を目指し、スパルタ教育が施される。
他の騎士団はともかく、第一ではそれが常識だ。
特別訓練も可能な限り体験させろとラインハルトに言われている。
逃げられない内に慣れさせろというのがクロイゼル。
休日分を取り返す日課を与えろというのがアンフェル。
当然だ。
第一に入るためだけでなく、仲間として受け入れられるためにも必須だった。
「日課ですか?」
「毎日ということでしょうか?」
「馬についてですよね? 絶対にそうですよね?」
「勤務日は王宮と寮を結ぶ通勤用馬車の運行を補助するように」
勤務時間に合わせて寮から王宮へ移動する際、騎士達は騎士団所有の専用馬車を使用する。
「朝に増発する通勤馬車の御者役を務めて貰う」
「御者!」
ピックの表情が一気に明るくなった。
「自身の通勤には馬車ではなく馬を使用するように。通常の訓練や実務補佐だけでは馬に乗る機会が少ない。乗馬経験を少しでも増やすため、単騎での通勤を許可する」
「馬に乗れるーーーーーー!!!」
ピックは我慢できなかった。
一気に疲れが吹き飛ぶほどの大騒ぎだ。
「やったああああー! ありがとうございます!」
「騎士らしくない!」
「抑えろ!」
慌ててロビンとデナンが注意するが、パスカルは微笑んでいた。
「終業後だし体験者だから構わない。でも、明日からは気を付けて欲しい。常に騎士らしくあるよう心掛けるのはとても大切だからね」
「はい!」
リーナのお兄さんは凄く良い人だ! 大好きだぜっ!
喜ぶピックをよそに、ロビンとデナンは助かったと一息ついた。
「明日から取り掛かれるように手配する。ユーウェイン」
「わかりました。通達しておきます」
「団長にも伝えて欲しい」
団長に話すのはパスカルだろうと思っていたが、予想が外れた。
「団長室がどこか三人に教えるのも丁度いい。必要そうなものはこちらで手配する。受け取りもしておくように」
「わかりました」
そう、わかっている。
パスカルに付き添うのは護衛であり、雑用をするための人員ではないことを。
何かするのであればユーウェインだ。体験者は役に立たない。
どこに何があるのかさえもわからないのだから。
「ユーウェインの分は今日届く。馬も」
ユーウェインは目を見張った。
現在、ユーウェインは第一騎士団内に専用の馬や鞍といった馬具が一切ない。
出向だからというのもあれば、勤務上必要ないからでもある。
必要な時があれば、第一騎士団が所有する共用のものを使用すれば事足りる。
「担当教官として必要になると思ってね。全て専用にしていい。馬は候補が何頭かいる。好きなのを選べばいいよ」
馬具だけでなく馬までも専用。しかも、候補の中から自分で選べる。
驚くほどの高待遇だ。
「……ありがとうございます」
そうは言ったものの、ユーウェインは素直に喜べなかった。
それだけ三人の担当教官になった責任が重いと感じた。
「改めて三人に紹介しておく。彼はユーウェイン・ルウォリスだ。近衛騎士団から第一に出向している」
近衛騎士団の者ということか?
第一の者ではなかったのか。
よくわからないなあ。
それが三人の正直な感想だった。
「現在、第一には多くの審査対象者がいる。増員に備え、第一でやっていけるかどうかを試されている。ユーウェインはその一人で団長付きをしている」
多くの騎士や警備関係者が第一王子騎士団に入ることを目指している。
努力が報われて第一の騎士になっても、より多くのことをこなせるよう勤務以外の自主勉強や鍛錬に努める必要がある。
役職付きは激務だが、非常に多くのことを勉強できる。
それに応えることができるよう必死に励んだ者は必ず向上する。
自身の力で周囲に認められるだけの立場を築き上げることができる。
「通常、出向者は団長付きになれない。ユーウェインは特例者だ。近衛騎士団において身分のハンデを実力ではね返し、騎士見習いから上級騎士になった。第一に相応しい優秀な騎士として近衛団長からの強い推薦を受けているため、第一の者も期待している」
三人がユーウェインを見つめた。
その眼差しに宿るのは敬意と羨望だ。
だが、ユーウェインは快く思わなかった。
パスカルの説明は表向きのもの。実際は団長付きの雑用係。
書類を処理したがる騎士がいないための処置だ。
「ユーウェイン」
「はい」
「三人は平民というだけではない。孤児だ。第一は能力主義だけに、出自にこだわる者は少ない。だが、王宮は違う。敵地同然だと感じることが多々あるだろう。わかるね?」
「わかります」
常に油断はできない。
足を引っ張るどころの話ではない。寝首を取られないようにしなければならない。
ユーウェインにはそれがわかる。
自身の所属する近衛騎士団も王宮と同じく敵地同然だったからこそ余計に。
「だからこそ、担当教官に抜擢した。ユーウェインがこれまでに経験した苦労、努力の全てから三人が学び、心の支えにできるように。自分自身で道を切り開く強さと力を伝えて欲しくもある」
ユーウェインは理解した。
平民の孤児という出自ゆえに、三人は自身の強さと力だけで人生を切り開いていかなければならない。
その手本になれる。心の支えになれる存在だと判断された。
ユーウェインが自身の強さと力だけで人生を切り開いてきた者であることをパスカルが認めている証拠だ。
嬉しい。
だというのに、否定したい自分がいる。
ただ必死だっただけであり、誰かの手本になるような立派な者ではない。
騎士かもしれないが、本当の騎士ではないことを自身が一番よくわかっている。
生きるために騎士になっただけなのだ。
ああ……同じ、か。
ユーウェインは気づいた。
三人に偉そうなことを言ったが、本当は言えない立場だということを。
自分も筆頭隊長のおかげで近衛騎士になるための機会を手に入れた。
騎士になりたくて騎士団に入ったわけでもない。
そこに居場所が用意されたからだ。他に道などないも同然だった。
三人を否定するのは、かつてのユーウェイン自身を否定するのと一緒だ。
込み上げる感情は悔しさ。負けたくないという気持ち。
自分にも。運命にも。三人にも。全て。
第一の騎士になりたい。なってみせる。必ず実力で認めて貰う。
その気持ちはいつの間にか強く大きくなっていた。
「明日の騎馬訓練に参加するのは第一の騎士のみ。ユーウェインも参加する以上、出向者であってはならない。第一の騎士としての姿を全ての人々に見せつけなくてはならない。いいね?」
「はっ!」
ユーウェインは右手を強く握りしめ、左胸に当てた。
全力を尽くすという意味の敬礼だった。
次は騎馬訓練のお話の予定です。
またよろしくお願い致します!





