99 かんげき
第三幕が終わった時、リーナは泣いていた。
恋人と引き裂かれたヒロインは政略結婚をすることになり、結婚式の日に死んでしまうという結末だった。
リーナが泣いてしまうことは、第二幕終了時にボックスにいる全員が予想していた。
ヘンデルとパスカルが優しい言葉をかけてハンカチを差し出すが、すぐに事態を収拾することはできなかった。
さすがに泣いている女性を見捨てるかのように先に退出するのはどうかと考えあぐねいていたキルヒウスたちに声をかけたのはクオンだった。
「キルヒウス」
名前を呼ばれたキルヒウスはすぐにクオンの元に駆け付けた。
「先に退出しろ。アンディとシーアスも連れていけ」
「わかりました」
「待って! このあとの補助をよろしく!」
ヘンデルが声をかけると、キルヒウスたちは了承してボックス席から退出した。
「リーナを呼べ」
「了解」
すぐにヘンデルはリーナをクオンのいる小部屋へ移動させた。
「ここに座れ。立って泣くよりもいい」
クオンは詰めるように座る位置を変えた。
「でも、私は身分が低いので」
「いいから座れ。他の者は立て」
「はっ」
クロイゼルたちが立ち上がり、ヘンデルとパスカルも小部屋の方に移動した。
クオンの姿を見られないようにするための壁になるためと、ボックス席にいつまでもいると目立つためだった。
「その涙は心が悲しみを感じているからだが、感動した証拠でもある」
静かな口調でクオンはそう言った。
「だが、オペラは架空の話だ。現実的に考えるのであれば、大抵はあのまま結婚する。ヒロインの生活は保障されている。悲しみを乗り越え、新しい人生を送ることで幸せになるかもしれない」
リーナは困惑するような表情を浮かべた。
「気に入らないか? リーナがどう思ったのかも知りたい。遠慮するな。オペラの感想を自由に述べるのは普通のことだ」
「政略結婚はしない方がいいと思います」
リーナは正直に答えた。
「結婚は大事なことです。人生で一度あるかどうかもわかりません。好きな相手と結婚した方がいいと思います」
「私もそう思う。だが、ヒロインと恋人は身分違いで経済的にも格差がある。裕福な生活しか知らないヒロインは貧しい恋人との困窮した生活に耐えられないのではないか? 喧嘩をして別れてしまうかもしれない」
「これは架空のお話です。現実的に考える必要はないですし、ハッピーエンドでいいと思います。じゃないと夢がないです。夢があった方がいいです」
「そうだな。夢がある方がいい」
クオンは素晴らしい感想だと思った。
「リーナの夢は何だ?」
「借金を返すことです」
「他は?」
「良さそうな職について、普通に生活できるようになりたいです。できれば結婚もしたいです。子供もほしいですし、お金を貯めて旅行に行きたいです」
リーナの言ったことは普通のことばかりだった。
しかし、クオンはひっかかった。
旅行という言葉に。
「旅行に行きたいのか?」
「はい」
「なぜそう思う? 王都が嫌なのか?」
「両親と暮らしていた場所に、もう一度行ってみたいのです」
リーナの言葉に、全員が視線を向けた。
「どこに住んでいた?」
「地名などはわかりません。あの屋敷には別の人が住んでいるのかもしれませんが、もう一度、記憶の中にある風景を見てみたいです」
リーナはクオンと話しているうちに、段々と気持ちが落ち着いてきた。
「ありがとうございます。お話をしていたら、気分が落ち着いてきました」
「そうか。良かった」
クオンは微笑んだ。
「男爵家の出自だと聞いた。貴族になったことで、良い職につけるかもしれない。普通の生活や旅行のために努力すればいいだろう」
「間違っていないといいですけれど」
リーナの本音が漏れた。
自分がリリーナ・エーメルであるということに完全に納得できたわけではなく、本当はリリーのことではないかという気持ちが残っていた。
「間違っている? そう思うのか?」
クオンは驚いた。
だが、突然リーナが貴族出自になったことに対して違和感があったのも事実だった。
「調査結果が出ているので、そうなのだとは思います。手続きも終わりました。でも、最初はリリーのことだと思ったので、自信がないというか」
「リリー?」
リーナは自分と同じ孤児院にいたリリーの本名がリリーナで、子どもの頃に聞いた家名がエーメルに近い感じの者だったような気がすることを話した。
「リリーのことを家族が探しているのかと思ったら、私のことだったらしくて」
怪しい。
クオンは直感的にそう思った。
孤児の素性調査は難しい。
しかも、保護されてからすでに多くの年月が過ぎている。
子どもから大人になってしまうと、見た目による本人確認は困難。別人と間違えてしまう可能性もゼロではなかった。
まさかとは思うが……。
クオンはエゼルバードたちが裏から手を回していないかが気になった。
「昔住んでいた場所についてより詳しく話せ。ヘンデル達に調べさせる」
リーナの証言とリリーナ・エーメルが住んでいた屋敷の特徴が同じであれば、本人確認の代わりになるのではないかとクオンは思った。
「ロジャー様が知っているかもしれません。祖父のエーメル男爵とか」
「お前が屋敷を離れたのは昔のことだろう? 所有者が変わっていると、無用なトラブルを避けるために教えないかもしれない」
「あっ、そうですね」
「森の中で湖の側にある屋敷はそれなりに多い気がする。保養地には多くの別荘があるからだ。別の特徴はないか?」
リーナは自分の記憶にある屋敷や周辺のことなどを話した。
「森や湖の名前はわからない?」
ヘンデルが尋ねた。
「わかりません。森、湖と呼んでいました。でも、どちらもお父様のものです」
リーナの発言に誰もが驚いた。
「父親が湖を所有していたのか?」
「そうです」
リーナは迷うことなく答えた。
だが、これはおかしいことだった。
湖は私的な権利の対象外。国が所有している。
領主やその家族であれば、自分の領地にある湖を所有していると言ってもおかしくない。
エーメル男爵の領地に湖があるかどうか、その側にリーナが話した特徴を持つ屋敷があるかどうかを調べればいいとクオンは思った。
「ヘンデルとパスカルで調べろ。キルヒウスにも調べさせる」
「なんで三人? 一人でいいよね?」
「個別に調べるのはわかっている。ならば、各自で調べるよう指示を出した方がいい」
「なるほどね」
ヘンデルは適切な判断と指示だと思った。
「でも、子どもの頃の話だよ? 本当は湖ではなくて池のことかもしれない」
「両親や召使も湖と言っていました」
「人造湖を作ったつもりでも、実際はため池だったり貯水池だったりすることもある」
「確認したいのですが、七歳まで両親と共に屋敷に住んでいたということでいいでしょうか?」
パスカルが尋ねた。
「はい」
「何か思いついた?」
ヘンデルが尋ねた。
「……数年以内に完成したようなものは対象外であることを確認したまでです」
「ああ、そうだね。リーナちゃんが七歳の時にあったものが対象だ。森は伐採されてしまった可能性があるけれど、湖と呼ぶほどの水源なら今もありそう」
「内密に調べろ。エゼルバードたちには教えない」
「了解」
「わかりました」
ヘンデルとパスカルは頷きつつも、クオンの本心がわからなかった。
リーナちゃんのことは手放したはずじゃ?
王太子の重責と執務で忙しい。一人の女性に構っている暇はないと断言するような方だというのになぜ?
第二王子やロジャーのしていることが気になるとしても、おかしいと感じる部分があった。
「ああ、そうそう。リーナちゃんの願いは俺が一つ叶えるから」
ヘンデルが言った。
「願いを叶える?」
クオンは眉をひそめた。
「借金。俺が壊した食器をリーナちゃんが弁償してくれていた。そのせいで借金が相当増えていたみたい」
「なんだと!」
クオンの口調にも表情にも怒気が宿った。
「自分の代わりに払わせたのか?」
「俺が弁償するつもりだったけど、名前を教えてなかった。誰かわからなくて、リーナちゃんが弁償することになったらしい」
「さっさと払え! 迷惑料も上乗せしろ!」
「そのつもり。食器と迷惑と口止め料も含めて全額返済する。いいよね?」
「なぜ私に聞く?」
「経費で落ちないかなと」
「お前の失態だ。自分でなんとかしろ!」
「わかった。そうする」
ヘンデルはあっさりと引き下がった。
「待て。お前が全額払うのは危険だ。借金を払ったことを恩に着せるに決まっている」
「よく気づいたね。その可能性は否定できないかな」
「私が払う。経費で落とせ」
「えー? 俺のせいだし、俺が払うよお?」
ヘンデルはニヤニヤした。
「殊勝な心がけだが、私が払う。お前は一時的に立て替えるだけでいい」
「じゃあ、そういうことで。リーナちゃん、良かったね。借金がなくなったよ? 王太子殿下に感謝しなくちゃね」
リーナは素直に喜べなかった。
「大金です。よろしいのでしょうか?」
「後宮の借金はさまざまな事情が重なったせいだ。リーナは真面目に働いていた。私はそれを最大限に評価したい。これからも真面目に働くだろうと信じているからでもある」
リーナの止まった涙がまたしてもじわりと溢れそうになった。
「いつかきっとお返しします。真面目に働いてお金を貯めます!」
「金を返す必要はない。それよりも教えてほしい。ノースランドで不自由なことはないか? 辛い思いをしていないか?」
「大丈夫です。生活が良すぎて、お姫様になったようです。お世話になっている方々にも感謝しています。そのことに報いるためにも、しっかりと勉強をして就職したいです」
「どこに就職する予定だ?」
「王宮の侍女見習いに応募するようなことを聞きました」
「やはり王宮か」
クオンは顔をしかめた。
クオンはリーナを王宮で働かせたくない。何かよくないことに巻き込まれそうな気がした。
後宮は秘匿性が高いからこそ内密にできることが多い。だが、王宮で大ごとになってしまうと、助けたくても難しい。
クオンがリーナのために自分の力を使ったことがわかれば、数えきれないほどの人々がなぜだと感じて騒ぎ出すに決まっていた。
「他の場所では何か聞いていないのか?」
「今のところは何も聞いていないです」
「そうか」
クオンは決めた。
だが、それをリーナに伝える気はなかった。
「偶然だが、会えて良かった。元気そうなのは確認できた。何か私に言っておくことはあるか?」
「言っておくこと?」
リーナは考えた。
王太子に何かを言える機会は滅多にないが、何を言えばいいかわからなかった。
「特にないです」
王太子と話す機会があれば、言いたいことがあるという者は大勢いる。
ヘンデルとパスカルはリーナの答えを聞いて驚き、正直すぎると苦笑した、
一方、クオンは誠実さと正直さを高く評価した。
「いつか私に何かを伝えたくなったら、王太子府のレグルス・オールという者に手紙を出すといい。私に伝わる」
「綴りはどうなるのでしょうか?」
「関係ない。レグルス・オールと読むことができる綴りであれば届く。覚えておけ。そして、このことは誰にも教えるな。ロジャーやエゼルバード、お前よりかなり上の者に命令されても、絶対に話してはいけない。これは王太子命令だ。わかったな?」
「わかりました」
ヘンデルとパスカルは驚いていた。
クオンがリーナに教えたのは個人的に使用する秘密の名前で、そのことを知るのは側近などの一部の者だけだった。
「今夜は悲劇を鑑賞した。今度は喜劇やハッピーエンドのオペラを鑑賞してみればいい」
「機会があればそうします」
「招待する。勉強するリーナを応援したい」
「ありがとうございます!」
クオンはリーナと約束した。
極めて異例な事態を目撃していた者たちは、驚きを懸命に抑え込んでいた。





