977 伝え合って
カンカンカン!
鍋を叩く音が響いた。
それはスープの提供が終わることを示す合図で、案内係は一斉にそのことを伝え始めた。
「スープはもうすぐなくなりそうです。本当にすみません。ですが、パンはまだまだいっぱいありますのでご安心ください!」
「心を込めて用意したパンが沢山あります。ぜひ、受け取って下さいね!」
スープが終わる通達をする際、沢山のパンがあることを強調し、人々を安心させるよう努めること。
マニュアルにはそう書かれていた。
温かい食事が欲しいかもしれないが、ないものはない。
残念だという表情が人々に浮かぶとしても、まだパンがあることに喜び、安堵することができる。
列の進みが早くなった。
パンを持ち帰ろうと思う者が多く、食事スペースに留まる者がほとんどいなくなったためだ。
食事スペースは並ぶのに疲れた者の休憩所になった。
配布物の種類が少なくなる度に配布所も閉鎖されていく。
時間の経過と共に誰もが炊き出しの終わりに近づいていることを感じていた。
それでも人々を落ち着かせ、安心させようとする呼びかけは続く。
「配布物は沢山ありますので、ゆっくり進んで下さいね!」
「早く進んでも貰える順番は変わりません! ギュウギュウ詰めで苦しくならないようにしてくださいね!」
「小さな子供もいます。押しつぶされたりはぐれたりしないように、保護者だけでなく周囲も協力して守ってあげて下さい。お願いします!」
「大丈夫です! まだまだ沢山ありますよ!」
「十種類以上の中から好きなものを選べますから!」
案内班だけでなく、閉鎖された配布所にいた配布班の者達も呼びかけを手伝った。
警備の者も声を張り上げる。
「前に押してはいけない! 誰かが怪我をすると配布が止まってしまうぞ!」
「落ち着いて順番に貰えばいいだけだ!」
「怪我をしたら大損だ! 安全に配布物を受け取れるよう協力してくれ!」
警備の者は少しずつ進ませながら、待っている者の前にロープを張り、一気に大勢が殺到しないようにした。
その一方で片付けも始まった。
冬は暗くなるのが早い。明るい内にできるだけ片付けてしまいたいこともあって、必要のないものは迅速にチャリティーハウスや輸送用の馬車へと運び込まれていく。
「あまり利用されていない食事スペースは小さくしますね!」
「パンを持ち帰る人が多いので、食事スペースは片付けていきます!」
片付ける様子を列に並ぶ者達は見ている。
炊き出しは終わりだと感じ、それが焦りにつながってしまいかねない。
だからこそ、食事スペースを片付けるのは食事を食べる者や休憩する者がほとんどいないからだという理由をはっきり伝える。
説明があれば不安になりにくい。安心につながるだろうという配慮だ。
やがて、食事スペースは完全になくなり、配布所も一つに統合された。
「ありがとうございました!」
「お疲れ様でした!」
「来てくれて嬉しかったです!」
「これからも頑張ってください!」
配布隊の者達は配布物を渡しながら、明るく元気に声をかけ続けた。
笑顔と感謝と励ましを届けたい。明日への希望につながるよう祈ってもいた。
「バイバイ」
母親と手をつなぐ小さな子供が手を振った。
「バイバイ!」
「気を付けてね!」
「来てくれてありがとうね!」
「転ばないようにね!」
「ママとはぐれちゃ駄目だよ!」
配布隊の者達は一生懸命子供に手を振った。
その光景を人々は微笑ましく感じた。
炊き出しに来た者を軽視することなく、丁寧に優しく温かい言葉と励ましをくれる者達ばかりだとも。
「ありがとう」
「助かった」
「最高の炊き出しだったわ」
「今までの人生で一番の炊き出しだ」
「忘れないよ。ずっと」
配布品を貰った人々もまたお礼を、本音を、賛辞を、感じたことを率直に伝えた。
「どうか元気で」
「神の祝福があらんことを」
炊き出しをきっかけに集まった多くの人々は心からの言葉を伝え合いながら、それぞれの帰るべき場所へと向かい、別れていった。
「頑張ったな」
リーナが王宮に戻ると、クオンが馬車の降り口で待っていた。
帰って来た……。
そう思った瞬間、リーナはクオンに抱きしめられた。
嬉しい。ホッとしながら、その胸に寄りかかる。
「ただいま帰りました。ずっとここで待っていたのですか?」
すっかり暗くなっている。寒さも増している。
そんな中でクオンが自分の帰りを待っていてくれたのは嬉しいが、それ以上に心配だった。体が冷えてしまう。
「数分程度だ」
「風邪を引いたら大変ですよ。次からは外ではなく建物の中で待っていて下さい。お邪魔でなければ、お部屋へ挨拶しに行きますから」
「わかった」
二人は帰り道の状況を話しながらヴェリオール大公妃の間へ向かった。
「もっと話していたいが、夕食の楽しみにしておこう。執務に戻る」
「はい。また後で」
クオンはリーナの額に口づけると、護衛と共に執務室の方へと向かっていった。
「おかえりなさいませ。お疲れ様でございました」
侍女長のレイチェル以下侍女達が一斉に頭を下げて挨拶をした。
「ご入浴とお着替えをお勧めしますが、少し休まれてからにされますか?」
「いいえ。先に済ませてしまわないと動けなくなりそうです」
「かしこまりました」
リーナは手早く入浴を済ませると夕食用のドレスに着替えた。
「不在中に何かありましたか?」
「リーナ様のお部屋を磨き上げました。今年度の大掃除は完了です」
「ああ、それでいつもよりピカピカ度が高かったのですね」
レイチェルの眉が上がった。
「どの辺りのピカピカ度についてでしょうか?」
かつてリーナは掃除担当として働いていた。
しかも、後宮の掃除部長や元王太子付き侍女で掃除のスペシャリストであるメイベルの指導を受けている。
しっかりと掃除していない所を見つけたものの、侍女達のために言わなかったのではないかとレイチェルは疑った。
「……全体的に。ソファの木枠も艶々です。丁寧に磨いた後に艶出しを塗っていますよね。いつもは手早く済ませないといけないので軽く拭く程度でしょうし」
ヴェリオール大公妃の間には最高級の家具が集められている。
ほとんどは金色の枠だが、リーナが落ち着けるようにと居間のソファは木目になっていた。
そのせいで艶出しを塗った効果がわかりやすかったのだろうとレイチェルは思った。
「私がいつも使っているところは掃除がしにくいですよね。予定に合わせて綺麗にしてくれてありがとう。皆のおかげで清潔に気持ちよく過ごせます」
「勿体ないお言葉です」
リーナの身の回りを完璧に整えるのが侍女の仕事だ。
礼を言う必要はないが、言われれば侍女達も嬉しい。
「やっぱりここが落ち着けます。ずっと私には勿体ない部屋だと思っていましたが、いつの間にか帰る場所になっていたことに改めて気づかされました」
リーナはレイチェルと侍女達を順番に見つめた。
「皆の姿を見ることでも安心できます。本当にありがとう。これからもよろしくお願いします」
「本当に勿体ないお言葉です。これからも誠心誠意お仕え致します」
答えたのはレイチェルだが、侍女達も同じ気持ちだった。
最高に素晴らしい女性を王太子は選んでくれたと思うとともに、リーナに仕えることが誇らしかった。
「お茶を用意させます」
「アールグレイが飲みたいです」
普段は侍女達が用意する様々なお茶を楽しんでいるが、とても疲れた今はアールグレイの紅茶が飲みたいと感じた。
「かしこまりました」
硬い表情が多いレイチェルは心からの笑みを浮かべた。
リーナは自分から身の回りについての要望を出すことが少ない。
侍女達を信頼し任せているのは知っているが、時にはどう思うのか、どうしたいのかが知りたい。様々な要望を出して欲しい。
だからこそ、何も聞かなくてもリーナから飲みたいお茶を伝えてくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。
「あ、ミルクティーでお願いします」
「勿論でございます」
「じゃあ、ちょっとだけ……許して下さいね」
リーナはそう言うとクッションを整え、靴を脱いでソファに寝そべった。
「お茶が来ても寝ていたら起こして下さい」
「せっかくですので、足のマッサージを致しましょうか?」
「嬉しいですけれど、余計にぐっすり寝てしまいそうです」
「大丈夫です。夕食の時間になったら必ず起こします」
「お任せします」
侍女達はお茶とマッサージ用品を急いで用意した。
だが、リーナは目を閉じてしまって動かない。名前を呼んでも反応しなかった。
すでにぐっすりというよりも、ぐったりかもしれない。
レイチェルは見守るような表情でリーナに毛布をかけた。
極めて厳格な侍女長として知られているレイチェルは、リーナと接することによって段々と優しさや温かさを感じさせる表情をするようになった。
「クッションを」
「はい!」
万が一リーナがソファから落ちてしまった時に備え、侍女達は床の上にふかふかのクッションを敷き詰めることにした。
とはいえ、リーナは器用に寝返りをうつ。ソファから落ちたことは一度もない。
勝手な憶測ではあるが、狭く小さなベッドで寝るのが当たり前だったからこそ、体がその感覚を覚えているのかもしれない。
それでも、リーナが怪我をしないよう最善を尽くしたいと侍女達は思っていた。
「レイチェル様、申し上げたいことがあるのですが?」
侍女は恐る恐る発言した。
「何ですか?」
「クッションを床の上に置いてしまうと、後で洗わなければならないクッションカバーが多く出てしまいます。そこで毛布を一枚敷いてその上にクッションを置くのはどうでしょうか?」
洗い物が毛布一枚だけになる。クッションカバーを全部取り外してつけかえ、汚れたカバーをクリーニングに出す必要はない。
ヴェリオール大公妃付きだけでなく洗濯部の労力も減り、別の仕事への対応がしやすくなるのではないかと侍女の一人は考えた。
「そのようにしてみましょう。洗濯部の意見を確認してから本採用にするかどうかを決めます」
「ありがとうございます!」
意見を出した侍女は嬉しそうに喜んだ。
「皆も聞いていましたね? 改善案はいつでも歓迎です。些細なことであっても構いません」
以前は違った。
伝統的かつ厳格なルールの遵守が重視され、改善案は歓迎されなかった。
些細なことであれば、大して変わりがないと切り捨てられた。
「古い方法を順守するだけでは駄目なこともあります。リーナ様のように新しい方法や工夫を取り入れながら仕事を改善していきましょう」
「はい!」
侍女達はすぐに毛布を用意して床に敷き、その上にクッションを置き始めた。
変わっていく。良い方向に。
それはリーナがもたらした流れであることを、侍女達は確信していた。





