971 孤児院跡地
馬車から降りたリーナは目前に広がる光景に固まった。
全然、違う……。
孤児院が老朽化を理由に取り壊されたことは知っていた。その跡地にチャリティーハウスが建てられたことも。
それを考えればリーナの記憶通りの風景が残っているわけがない。
だというのに、リーナは戸惑いを感じずにはいられなかった。
自身の記憶の中にあるものが現実世界から消えてしまったことは、リーナが幼い頃に経験した両親との別離と喪失感を思い出させた。
胸の奥がズキズキと痛みだす。
「リーナ様?」
前方を凝視したまま固まったリーナに、ヘンリエッタは声をかけた。
懸念する気持ちが込められているのはリーナにも侍女達にもわかる。
しっかりするのよ! 炊き出しをするために来たんだから!
リーナは自分自身を鼓舞した。
「ここは……裏口の方です!」
リーナはかつての記憶と風景を比較し、今いる場所を把握した。
「孤児院は取り壊されたと聞いていましたが、壁はそのまま残っているようですね。端に門がある方が裏口でした」
リーナは足元の方にも視線を向けて観察した。
「ここは裏庭だったところのはずですが、花どころか雑草さえほとんどありませんね。馬車が出入りしたからでしょうけれど、その前に草刈りもされているようです」
「軍の方で処理したよ」
オスカーが答えた。
「裏の方に野営テントを張るため、根こそぎ引き抜いて地ならしもした」
「でも、テントがないです。馬車ばっかりです」
テントは一つもなく、軍用の箱馬車が整然と並んでいる。
馬はいない。車体のみがある状態だ。
「野営地設営の実地訓練として行った。訓練が終了すればテントは撤去される」
「あの馬車は何ですか?」
「倉庫もあるが、ほとんどが宿舎だ。第三団はあそこで寝泊まりしている」
寒い季節なだけにテントでの野営は辛い。治安も悪い地域ということも考え、馬車を宿舎として活用していた。
簡易かまどや野外用の備品がまとめて置かれている。
「それであんなに!」
「物資は表、人員は裏から入ることになっている。ここは細長い形状の敷地だけに、チャリティーハウスまでは少し歩かないといけない。そろそろ移動を」
「そうですね。これからどんどん作業をしないとですから!」
リーナは力強く頷き、遠くに見えるチャリティーハウスに向かって走り出した。
慌ててヘンリエッタやバーバラ、侍女達、私服の護衛騎士達も続々走り出す。
走れとは言ってない! 急ぐようにとも!
心の中で自身の発言を確認しながら、オスカーもまた素早く走り出した。
「おはようございます!」
チャリティーハウスに着くまでの間、リーナは見かける者達全てに挨拶をした。
王宮や後宮のようないかにも礼儀正しく頭を下げるようなものではない。走りながらの声かけだ。
「おはようございます!」
「おはようございます! すみませんが、登録証を確認させていただきます」
チャリティーハウスに入るには門とは別の検問所がある。
リーナのボランティア登録証を確認した途端、警備の者は驚愕の表情になった。
「……ヴェリオール」
「第一団の責任者です!」
リーナは警備の声に被せるように叫んだ。
リーナの登録証に書かれているのは役職名と名前だけ。ヴェリオール大公妃とは書いていない。
「朝早くからご苦労様です! 調理隊長のタニアさんを見かけませんでしたか?」
第一団の責任者はヴェリオール大公妃。
そのことは警備だけでなくボランティア全員が知っている。
大声で挨拶を振りまきながら走って来た女性がヴェリオール大公妃だったとわかり、付近にいる者達は驚きを隠せなかった。
「……調理隊長なら調理場ではないかと。調理場へ行くには」
「大丈夫です! 場所は把握しています。倉庫の方で見かけませんでしたか?」
調理隊長になったタニアは先に来ている。
最初は倉庫の備品及び食品等の確認や出し入れ作業を行うだろうとリーナは思っていた。
「色々と出し入れしていましたが、もう行ってしまいました。たぶん調理場です」
「わかりました!」
リーナの頭の中にはチャリティーハウス内の見取り図がしっかりと記憶されている。
初めて来た場所ではあったが、迷うことなく調理場へとたどり着くことができた。
「おはようございます! 朝早くからご苦労様です! 調理隊長のタニアさん……いないですね?」
聞いている間にもリーナはタニアの姿を探していた。
調理場ではすでに多くの人員がスープ作りをしていたが、その中にタニアの姿はない。
「調理隊長なら窯部屋です」
リーナの近くにいた者がすぐに答えた。
「行ってみます!」
リーナはすぐさま窯部屋に向かおうとしたが、ふいに立ち止まった。
慌てて同行者達も急停止する。
「調理場で何か問題が起きていませんか? あるなら遠慮なく言って下さい!」
すぐに奥にいた女性が手を挙げた。
スープ班長のブリギッタだ。
「あります! 全然、かまどが足りません!」
スープについては下準備をした材料と調理器具を運び、現地で煮込むことになっていた。
しかし、拠点内にある調理場に設置された施設では、大量の鍋を一気に火にかけるのが難しかった。
「簡易かまどがありますよね?」
「軍の備品だと言われました」
リーナは首をかしげた。
「後宮にあった古い簡易かまどを貰ったはずです。それはどうしたのですか?」
「ありません。見かけたのは全て軍の備品で、第三団が使用しているものだけです」
「裏の方に第三団のものらしい簡易かまどがありましたね。それを使いましょう!」
「え?」
ブリギッタは困惑した。
「勝手に使ってもいいのでしょうか?」
「まとめて置いてありましたが、付近には誰もいませんでした」
それはすぐに使う予定はないということをあらわしている。
時間的にも第三団の朝食はすでに終わっていると思われた。
「空いているのであれば、貸して貰いましょう。ラグネス、使用していいか確認してください」
軍への確認だけに、侍女よりも騎士を伝令に行かせた方がいいだろうとリーナは判断した。
「直ちに。行け!」
「はっ!」
護衛騎士の一人がすぐさま調理場から出ていく。
「備品管理は第二団です。ヘンリエッタ、後宮の簡易かまどが届いていないか確認してください。どこかに紛れていたら、すぐに出して貰って下さい。設置場所は……外ですよね?」
「そこのドアを出た野外スペースに設置して欲しいです」
「わかりました。そのことも伝えて下さい」
「伝令は事前に決めた順番通りです。行きなさい」
「はい!」
ヘンリエッタの指示に従い、侍女が第二団の部屋へ向かう。
「薪も着火材も沢山用意しています。ガンガン使って大丈夫ですから!」
「わかりました」
「他にもありますか?」
「隊長に聞けばわかると思いますが、窯のことで問題があるようです。今はそれだけでしょうか」
「聞いてみます。じゃあ、頑張ってください! スープ班長のブリギッタさんも皆さんも!」
リーナはくるりと踵を返すと窯部屋に向かった。
ズダダダダダと音が出そうな位の勢いで、同行者と共に移動していく。
「なんか……凄かった」
「元気だなあ」
「はつらつって感じ」
「はいはい、手を止めないで! 時間までに大量のスープを作らないといけないのを忘れたの?」
ブリギッタがパンパンパンと手を叩いた。
「焦げついてしまうと味が悪くなるし、鍋を洗うのだって大変なのよ! しっかりと底までかき混ぜなさい!」
「わかりました!」
「すみません!」
次々と鍋をかき混ぜていた者達が答え、手を動かす。
「どんどん煮込まないと、全部が仕上がらないわよ!」
調理準備室でもスープ班の者が寸胴鍋にぶつ切りにされたスープの材料と水を投入する作業をこなしている。
それを火にかけ、煮込まなければスープにならない。
準備室には火にかけられるのを待つ鍋が次々と積み上げられている状態だ。
「私がスープ班長になった以上、昼に間に合うよう全力を尽くして貰うわよ! 皆もそのつもりでいて頂戴!」
リーナが来たことによって調理場に活気が出た。
スープ班は気合を入れ直し、スープ作りの作業を続けた。





