95 幕間(一)
列が進み、パスカルとリーナが注文する番になった。
「シャンパンと水を」
「六十です」
パスカルが取り出したのはギール札。
六十ギールだから六千ギニー? 高い!
リーナが後宮で働いていた頃の日給に近い額が、二杯の飲み物だけでなくなった。
ギール札が貴族の使うお金だと言われている理由をリーナは理解した。
「どうぞ」
パスカルは邪魔にならないような場所に移動すると、持っていたグラスをリーナに差し出した。
「ありがとうございます」
「今夜、幸運にも出会えたことに乾杯しましょう」
幸運……。
パスカルが優しい眼差しで見つめている。
緊張していたリーナの心にようやく安心感が訪れた。
乾杯をすませたあと、二人はグラスを傾けた。
水は水かも……普通に。
リーナはそう思った。
不味いわけではないが、特別美味しいわけもなかった。
「勉強のためにお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「どんなことでしょうか?」
「カウンターには価格表だけでなくメニュー表さえありませんでした。困りませんか?」
「係の者に言えばメニュー表を見ることができます。種類が少ないので、すぐに覚えられるでしょう」
「価格もメニューに載っているのでしょうか?」
「載っています」
「お水はいくらなのでしょうか?」
「十ギールです」
ただの水なのに千ギニー!
信じられないとリーナは思った。
「高いのですね」
「王立歌劇場で最も低い価格です」
まったく違う世界みたい……。
リーナはすごいところに来てしまったと感じた。
「オペラはいかがですか? 視界が悪いようであれば、椅子の位置を調整できます」
「大丈夫です。前にいる人の間から見えました」
「話の方はいかがですか?」
「悲劇だと聞いていましたが、今は悲しくないです」
「どういった話なのかを知っているのようですね」
「ヴィクトリア様やノースランド伯爵夫人が教えてくださいました」
「そうですか」
パスカルはシャンパンを飲み干した。
目立たない場所に移動したとはいえ、王太子の側近であるパスカルのことを知っている者はそれなりに多い。
第二王子の関係者であるノースランドの名前が出るのは、あまりいいことではなかった。
時計を見るとそれなりに時間が経っていたため、パスカルはボックスへ戻ることにした。
「少し早めですが戻りましょう。ギリギリの時間は混みます」
「はい」
ボックスに戻ると、そこにはクオンとクロイゼルしかいなかった。
「ケヴィンは?」
「伝令に行っている。混んでいたか?」
クロイゼルが尋ねてきた。
「かなりの混雑です。悲劇の間にも大理石の間にも入れません。バーで飲み物を飲んですぐに戻りましたが、この時間です」
「今夜は相当な定員オーバーらしい。報告が来た」
「そうでしょうね」
王立歌劇場に入ることができるのは、席のチケットがある者だけ。
全席が年間指定席で定員は決まっているはずだというのに、週末や王族が来る日だけは補助席や立ち見席が追加で販売される。
そのせいで定員が膨れ上がるのが常だった。
「王族が来る日の定員オーバーはよくないという意見が出されたはずでは?」
「まったく改善されていない」
年間指定席を買えなかった者にとって、補助席や立ち見席の追加は嬉しい。
王族が来る日はできるだけ多く追加してほしい。
そのような貴族の意見が王族の安全を確保したい警備の意見よりも重視されていた。
「護衛を増やすことにした。ケヴィンはそれを伝えに行っている」
「小部屋に人を入れるのですか?」
護衛騎士が増えれば、リーナのことを知る者も増える。
パスカルは懸念した。
「周辺に配置するだけで部屋には来ない。私服だからな」
「私服? 非番で来場している者に協力を仰ぐのですか?」
「第一王子騎士団の者が制服で多くいると、王太子殿下がお忍びで来ていることがわかってしまう。私服で配置して立見席の客のように見せかけている。通達を出せば五番ボックスの周辺に集まる」
「なるほど」
「私服だけに装備が薄い。盾代わりの小手を私服の者は装備できない」
「私が体を盾にしてでもお守りします」
「パスカルは剣役だ。双剣を使えばいい」
王宮地区内の施設で武器を携帯できる許可を持つ者は少なく、警備関係者でないと許可が出にくい。
しかし、暗殺者に襲撃されたことがあるパスカルは常時武器を携帯できる許可を持っていた。
「ご令嬢が暇そうにしている」
クロイゼルに指摘され、パスカルはハッとした。
「申し訳ありません。つまらない話を聞かせてしまいました」
「お気になさらず。今夜はとても混雑していますので、警備が大変そうです」
リーナは理解を示すように微笑んだ。
「もう少しクロイゼルと話をしたいので、最前列からの眺めを確かめてください。会場がよく見えます」
「はい」
リーナは小部屋からボックスに移動した。
最前列にいた者は戻っていない。三階だけに、座席のある会場中を見渡すことができた。
あれが王族席……。
会場の中央にあるロイヤルボックスの中に、金色に輝く椅子が設置されていた。
舞台の端に近い席にも特別な装飾があるボックス席がある。
貴族はこういう場所で過ごしているのね……。
リーナは貴族になった。勉強もしている。
だが、自分は本当に貴族なのか、貴族として生きていけるのかという不安があった。
頑張れば大丈夫!
リーナは現在の状況を受け入れ、前を向こうと思った。
突然、鐘が鳴った。
リーナは慌ててパスカルの元に戻った。
「この鐘はなんでしょうか?」
「上演五分前の鐘です。基本的には時計でわかるのですが、休憩時間が延長になる場合もあります。その場合は鐘が鳴るかどうかで五分前かどうかがわかります」
「最前列の方々が戻られていません。大丈夫でしょうか?」
「レストランは一階なので移動に時間がかかります。時間ギリギリになりやすいので、注意が必要です」
ボックスの最前列は目立ちやすいため、空席はよくない。
休憩時間が終わるギリギリになっても前の席が空いている場合、詰めて座ってもいいことをパスカルは説明した。
「五分前の時に詰めてはいけません。ギリギリになってから詰めるかどうかを決めます」
すると、小部屋のドアが開いた。
キルヒウスたちが戻って来た。
「あまりに酷い」
クオンに黙礼したあと、キルヒウスは不機嫌な表情で席に戻った。
「食事も酷かったな」
隣の席に座ったアンディも不機嫌だった。
「もっとも格式が高い歌劇場の威信にかかわるのでは?」
そう言ったのはシーアスで、パスカルの方に顔を向けた。
「今夜はレストランの席も追加されていたのです」
「レストランも? 初耳です」
パスカルは驚いた。
「私も聞いたことがありません。初めての試みだったのかもしれませんが、大失敗でしょう」
「ただでさえ狭い席が余計に狭くなった」
「移動しにくかった」
王太子の側近を務める三人組は不満を隠そうともしなかった。
「鐘が鳴った瞬間、大移動です。あれに巻き込まれては、ひとたまりもありません」
「食事に失望したのが、かえってよかった」
「早めに退席して正解だった」
「王太子殿下の警備を増やした方がいい」
「すでにクロイゼルが手配をかけました」
パスカルが答えたあと、また鐘が鳴った。
早く席に戻れという注意の鐘だった。
「全然戻れていない。王族が列席しているというのに不味いだろう」
「補助席の者は正規の席が埋まらなければ座れない。最悪だな」
「補助席や立見が多いせいで、指定席の者が通路を通りにくいせいです」
しばらくすると、ゆっくりと鐘が鳴った。
王族が席に戻る合図で、全員が起立してエゼルバードを出迎えた。