926 許しを乞う
宰相室を出たリーナは驚いていた。
補佐官室は騎士達でいっぱいだ。心配そうな表情のヘンデルもいた。
「俺の権限で緘口令を出した」
「私の命令でいい。行くぞ」
リーナは廊下に出た途端、足が動かなくなった。
「どうした?」
「もしかして……私のせいですか?」
廊下には補佐官室以上の騎士達がいた。
完全に宰相室を包囲しているかのように思えるほどの人数だ。
ラインハルトとパスカルもいた。
「気にするな。私が招集した者達だ。まずは移動する。皆、持ち場に戻れ」
「はっ!」
とはいえ、護衛騎士の持ち場は王族の護衛だ。本部や宿舎へ戻る方向も同じだった。
クオンとリーナを囲む者達以外は後ろからゾロゾロと後をついて来る。
騎士達を伴っての大行列になった。
おかげで廊下を通る者達は驚きながら端に寄って頭を下げた。
「ヘンデル、今日は終わりにする」
「わかった」
クオンはリーナをヴェリオール大公妃の間に連れて行くと、夕食の準備をするように指示した。
「居間で食べる。入浴している間に用意しろ」
「かしこまりました」
クオンはリーナをバスルームに連れて行った。
リーナだけで入浴するように言うと、クオンは王太子の部屋のバスルームへと行ってしまった。
クオン様……怒っていそう……。
シャワーを浴びながらリーナはため息をついた。
大勢の人々の役に立ちたい。守りたい。頑張ろうと思った。
だが、冷静さを失った。怒りが込み上げた。
こんなに頑張っているのに。なぜ、協力するのではなくのけ者にするのか。無視するのか。
許せないと思った。なんとしてでも通達経路を変更させなければと思った。
だが、宰相は無理だと言った。
そして、クオンが来たことにより、なぜ駄目なのかがわかった。
リーナを本当の後宮統括補佐にしたわけではない。
後宮はなくす。それを邪魔するようなことをして欲しくない。
だが、問題にならない程度であれば、身の回りのことについての決定権を与えるために自由にさせておく。
ついでに不正行為を見つけてくれるのであれば丁度いいと思っている。
不正行為を見つけるのは後宮を正しく導くためではなく、不正行為を理由に解雇することができるからだ。
また、リーナを正式な通達経路に入れてしまうと、後宮で問題があった際にリーナの責任を問われかねない。
本当の後宮統括補佐ではないのに、責任に問われるようなことがあっては困る。そこで正式な通達経路には入れないでおく。責任を問える立場ではないことにしやすい。
わかる。わかってしまう。
リーナは悲しくなった。そして、苦しくもなった。
自分はクオンの妻。ヴェリオール大公妃。だからこそ守られる。守らないわけにはいかないのだ。
そして、リーナが何か問題を起こせば、それはクオンに影響する。
今回のことも。
クオンは執務を中断して宰相室に来た。放ってはおけないと判断したのだ。
そして、宰相室から戻った後も一緒にいるつもりだ。食事のためではない。リーナと話すためだと思われた。
私……クオン様の邪魔をしてしまった……。
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
迷惑をかけたくないのに、迷惑をかけてしまった自分を責めるしかない。
「リーナ様、お時間が過ぎています。お手伝いが必要ではありませんか?」
侍女が声をかけてきた。
侍女達にも心配させている。迷惑をかけている。大勢の騎士達にも。
結果的には後宮の者達のためにもならなかった。
宰相も補佐官達も大事な仕事を邪魔され、怒っているに違いない。
リーナはどうしようもなく自分を駄目だと思った。
馬鹿だ。愚かだ。とにかく、全然なっていない。とても立派なヴェリオール大公妃になどなれない。クオンの妻にも相応しくない。
次々と頭に浮かぶ非難の言葉。自己嫌悪。
こぼれ落ちる涙は次々とシャワーで流れていくものの、自分も心もずぶ濡れのままだ。
「……大丈夫です」
侍女に伝えたのはこれ以上心配をかけたくないという気持ちだった。
本当は大丈夫ではない。全然。
「王太子殿下はすでにお戻りです。入浴と着替えを済まされています」
早過ぎ……。
リーナはシャワーを止めると目元を拭い、急いで髪を洗い始めた。
入浴が終わったリーナはバスローブしか用意されていないことに気づいた。
「ドレスは?」
「必要ないそうです。寝間着とガウンを用意しているところです」
侍女はリーナの髪を拭いて梳かした。十分に乾かす時間はない。
着替えたリーナが居間に行くと、テーブルの上にはすでに夕食が用意されており、寝間着の上にガウンを羽織ったクオンがソファに座っていた。
「下がれ」
侍女達は一礼すると部屋を退出する。
クオンはソファから立ち上がるとリーナを自分の隣の席にエスコートした。
「夕食にしよう。かなり怒っていた。力を使えば必ず腹が減る。人間とはそういうものだ」
リーナはまたしても情けなくなった。
クオンの言葉は正解だ。
お腹が空いていた。テーブルの上にある夕食を見て、美味しそうだと思った。
「クオン様はなんでもお見通しですね。私にはわからないこともちゃんと知っています」
「全てではない。だが、私にしか見えないものもあるだろう。気にするな。一人一人見えるものやわかるものは違う。だが、私にもお前にも見えるものやわかるものもある。久しぶりに二人で夕食を取れるのは嬉しい。まともな食事を取れる」
リーナは眉をしかめた。
「忙しくてもお食事はして下さい。倒れてしまいます」
「取ってはいた。だが、軽食ばかりで味わう時間もなかった」
テーブルの上にあるのは食堂で取る食事と同じではない。ソファに座っていても食べやすいようにアレンジされたものだった。
「まずは食事をしよう。話はそれからだ」
「はい」
リーナは同意した。
食事が終わった後、クオンはリーナに言った。
「実は頼みたいことがある」
「何でしょうか?」
「酒を注いで欲しい。リーナの注いだ酒を飲んでみたい」
食事中はすでに用意されていた水を飲んだ。
食後のお茶は用意されていない。お茶のワゴンもないため、侍女達を呼ぶべきかもしれないとリーナは思っていた。
「わかりました」
リーナはすぐに立ち上がると、ワインボトルが乗っているワゴンの所へ行った。
ワインクーラーの中にワインボトルが入っている。
すでに開封されているため、グラスに注ぐだけで良かった。
「どうぞ」
リーナはワインを注いだグラスを手に持ち、クオンに直接渡した。
クオンは何も言わずにグラスをじっと見つめている。
リーナは心配になった。
「もしかして……おかしいところがありますか?」
ワインボトルの開け方、注ぎ方は王族付き侍女になった時に教えて貰った。
とはいえ、実際に侍女としてワインを開けたり注いだりする仕事をこなしたことはない。
お茶を淹れるのと同じように何度も練習したわけではないため、リーナは不安だった。
「王太子として命令する。これからは茶や酒を注ぐようなことをしてはいけない。運んでもいけない。飲食物の取扱いは全て他の者に任せるのだ。お前自身がする場合は、必ず私の許可を取れ。わかったな?」
リーナは眉をひそめた。
「わかりました。でも、王太子として命令するようなことなのでしょうか? 普通に言ってくれればいい気がします」
「私が王太子として命令するというのは、その重さを認識させるためだ。自身にも相手にも。だが、お前にはなかなかわかりにくいかもしれない」
「わかっています。クオン様は軽々しく命令するとは言いません。でも、お酒を注ぐかどうかについては理由がわかりません。侍女のようなことをしてはいけないということでしょうか?」
「間違いではない」
クオンはそう言うとグラスを揺らし、ワインの香りを確かめた。
「だが、全てでもない」
クオンはグラスに口をつけた。だが、すぐに飲むことはない。ゆっくりと少しずつ確かめながら飲んだ。
リーナはその様子を隣に座ってじっと見つめていた。
だからこそ、気づいた。
「もしかして、毒ですか?」
「そうだ。これに入っているわけではない」
リーナが酒を注いではいけない理由の方だ。
「愛する妻が持って来た飲み物は嬉しい。安全だと思い、一気に飲むかもしれない。その中に毒が入っていれば、取り返しのつかないことになる可能性もある」
誰が毒を入れたのかが調べられる。
淹れた者、運んだ者が疑われる。妻が疑われるということだ。
他の者が事前にこっそり毒を混入し、それを知らない妻が運んだだけかもしれない。それでも毒が入った飲食物に触れた者、かかわった者として疑われてしまう。
だからこそ、身分の高い者達は決して自分で飲食物を扱わない。すべて使用人等に任せる。
自身の潔白を証明するためであり、身を守るためでもある。
「本当はこのようなことをわざわざ口にしたくはなかった。だが、私はエルグラードで父上の次に命を狙われている存在だ。宰相が言っただろう? ヴェリオール大公妃という女性の存在は極めて価値がある。頭の回る者達は、その存在を消すよりも利用した方がいいと考える」
クオンはグラスをもう一度ゆっくりと傾け、ワインを飲んだ。
「愛する妻が注いでくれたワインさえも無条件で気を許すことができない。安全かどうかを確認してから飲まなければならない。それが自身の命を守るだけでなく妻を守ることにもなり、エルグラードという国の統治者を守ることにもつながる。私は本当に重いものを背負っている」
クオンは全てのワインを飲み干すと、グラスをテーブルに置いた。
そして、リーナを優しく抱きしめた。
「お前は何も悪くない。力を与えた者が悪い。私だ。弱い者を守りたい。正しいことをしたい。人として心に想うことをしようとしただけだ。その力があると思った。ヴェリオール大公妃であれば」
力がなければ、自分にはできないことがわかる。はっきりと。
今のリーナは違う。力がある。どのようなことでもできそうなほどの力が。
「お前の持つ力は特別だが、万能ではない。できそうでできないことが多くある。そのせいで苦しませ、悲しませ、傷つけてしまうだろう。私はそれを食い止めることができない。守ることもできない。許しを乞うしかない」
クオンはリーナを抱きしめる腕に力を込めた。
守りたい。守れない。
それでも離さない。どこまでも一緒に連れて行く。
そう決めた。
その結果だ。
「すまない。私が背負っているものを、お前にも背負わせてしまった」
リーナは驚いていた。
自分のしたことについて、クオンに厳しく叱責されることも覚悟していた。
だが、クオンはリーナを叱責しなかった。それどころか、謝った。
自分のせいだと。
そうじゃない。でも……。
リーナは特別な力を得た。そして、リーナを利用しようとする者達がいる。それがはっきりとした。
ただの平凡な何の力のない女性ではなく、王家の一員であるヴェリオール大公妃になってしまったからだ。
リーナをヴェリオール大公妃にしたのはクオンだった。
クオンは愛する女性と結婚したかった。妻にしたかった。ただ、それだけだというのに、その妻は狙われ利用される。
自身の力が及びそうで及ばないことを知る。良いことや正しいことであってもできないことがある。
王家の者にとっても、現実は甘くない。厳しい。
そして、リーナの行動はクオンの足を引っ張るだけではない。王家やエルグラードの足を引っ張ることにもつながる。
クオンを苦しめ、悲しませる。愛するがゆえに。
リーナはどうしていいのかわからなかった。
言葉が見つからない気がした。だが、一つだけ見つかった。
「ごめんなさい」
心の中にあるすべての感情をうまく言い表すことはできない。
それでも、謝りたいという気持ちだけははっきりとしていた。
「疲れた。ずっと考えてばかりだ。今は休みたい。お前と共に」
クオンはリーナに口づけた。
ワインの香りが漂う。
クオンはリーナを抱き上げると、寝室まで運んだ。
「愛している」
リーナはクオンの気持ちがわかった。
同じだと思った。
二人の唇が重なった。求めるものも。
それは互いの存在。愛だった。
次は翌日のお話になります。
またよろしくお願い致します!





