917 承認印
十二月十二日。
王宮中に歓声と拍手が響き渡った。
冬籠りの終了である。
多くの者達は翌日休む。
とにかく寝る。たっぷり食べる。過ごし方は人それぞれだが、疲れ切った心と体を休めることが何よりも重要だ。
とはいえ、休めない者はいる。休む気がない者も。
宰相はそのどちらにも当てはまる人物だ。
王家予算と統治予算の管轄変更はエルグラードの政治史に残る。それほどのことをするための苦労は言葉で言い尽くせない。
だというのに宰相としての仕事もあれば、後宮統括としての仕事もある。
後宮内で発覚した問題の調査は冬籠り期間に終わらせ、高給取りを一気に懲戒解雇、重罪の者は容赦なく牢へと送り込む気でいた。
だが、その予定は変更された。
いかに優秀な者達であっても、冬籠りの期間に与えられた仕事を完遂することができなかった。
しかも、まだまだ仕事は山積みの状態だ。
宰相からの叱責を覚悟しつつ、期間延長を懇願することを選んだ。
宰相は冷徹だが、できないものはできないとわかってもいる。
予定通りに事が進まず、変更しなければならなくなることにも慣れていた。
だが、宰相を今最も驚かせているのは目の前にいる女性。
ヴェリオール大公妃リーナだった。
「後宮統括の印が欲しいだと?」
「お忙しいと思うので、私が押すだけです」
宰相は多くの者達を震え上がらせてきた鋭い視線をリーナに向けた。
「馬鹿なことを言うな。与えるわけがない」
「では、早く印を押してください!」
リーナは持って来た書類の束をぐいっと差し出した。
「いつまでたっても承認印が貰えません! 困ります!」
「忙しい」
「わかっています。だからこそ、後宮統括補佐の私がいるのです。冬籠りの期間は王宮の仕事で忙しいからこそ、後宮の仕事は私の方でしたというだけではありませんか!」
リーナに最終決定権はない。あくまでも補佐だからだ。
国王か後宮統括である宰相の許可がいる。
そして、国王は宰相の承認がないと難しいと言う。
宰相の承認と印を貰わなければならない。
「書類を置いていけ」
「嫌です。これと同じ書類がどこかに埋もれているはずです!」
リーナは書類を提出させていた。だが、全然戻って来ない。
冬籠りの期間は仕方がないと思った。
だが、終わった。書類は戻っていない。
そこで再度書類を作り、自らが持って宰相に会いに来た。
「絶対に今すぐもらいます。でないと、いつ戻って来るのかわかりません。来年だったらそれこそ遅過ぎます!」
「内容を確認しなければ承認できない。当たり前だろう」
「だったら今すぐ確認してください! お願いします! 確認してくれるまで帰りません! ずっとずっとここにいます!」
リーナは怒っている。ずっと承認を待っていた。だが、貰えない。限界だ。
そこでヴェリオール大公妃という立場を利用して面会を強行した。
従順で大人しいというのはすでに過去のことらしい。調査に誤りがあったのか? それともヴェリオール大公妃になったせいで変わったのか?
宰相は最短で片付ける方法を取ることにした。
「今確認する。よこせ」
「お願いします!」
リーナは喜びの表情になると、書類の束を宰相に差し出した。
しぶしぶ書類を読み始めた宰相だったが、すぐに真剣な表情になった。
その様子を見たリーナは手ごたえを感じた。
きっと、興味を持ってくれる!
リーナはなぜ書類が戻って来ないのか考えた。
冬籠りで忙しい。それはわかる。だが、他にも何か理由があるかもしれない。
そこで、内務省に勤めているレーベルオード伯爵へ冬籠りの差し入れを届ける際に助言を求めた。
多忙な宰相に書類を見てもらうにはどうすればいいかという相談だ。
レーベルオード伯爵の助言を活かすため、リーナは宰相室へ来た。
「ヴェリオール大公妃、問題が起きた場合は警備調査室の方で対処する。わざわざ許可を貰いに来なくても、すでに許可は出ているのだ」
「でも、何もしていません。忙しくてそれどころではないというのです」
宰相の表情が険しくなった。
「警備調査室はそのためにあるはずだ。調査が最優先に決まっている。大体、他の仕事などないだろう」
「そうなっていません」
「何をしている?」
「手紙の仕分けです」
警備調査室には後宮中から手紙が山のように届く。その内容を確認する作業に手間取ってしまい、肝心な調査に力を入れることができない。
「人員不足です」
「補充するしかないか……」
だが、優秀かつ信用のおける者でなければならない。
宰相府から派遣するといっても、宰相府も多忙な時期だ。人員が減るのは困る。
「私の方で人員を補充しておきました」
「なんだと?」
「手紙を分ける作業は簡単ですので、手伝いを募集したのです。すぐに集まりました」
「侍女達か?」
「次の書類にあるのですが、秘書室を作りました。私の仕事を手伝ってくれる者達を他の部から異動させました」
「どの部だ?」
「清掃部と掃除部です」
宰相は驚くしかない。
「全然関係ない部署ではないか!」
「でも、一番都合がいいのです」
宰相はすぐに思いついた。
後宮は一部の場所が閉鎖になった。掃除する場所が少なくなった。
清掃部や掃除部の仕事が減った。そこで、別の仕事をさせることにした。
自分が所属していた部だけに、信用おける者達を選びやすくもある。
「清掃部や掃除部は後宮の様々な場所に行って掃除や管理業務を行います。つまり、どこに何があるかよくわかっています。伝令や調査業務をさせることもできます」
「なるほど」
「後宮で何かしらの問題が出たとして、発見する可能性が高いのは掃除部や清掃部の者なのです。おかしいと思えば関連部署に通達するので」
そして、そのまま関連部署に問題かどうかの確認、対処等の仕事が受け継がれる。
不正があってもこの時点で内部処理され、隠されてしまう。
そうならないように、秘書室や警備調査室へ報告させる。
「知り合いがいるというだけで、何かあった場合に伝えやすくなります。私が所属していた所なので、部長のことも知っています」
「ふむ」
「ちなみに、清掃部長を秘書室長にしました」
「兼任か?」
「今は。ですが、部長職を後任に引き継いだ後、自身は秘書室に専念したいと言われました。上位部の未来は明るくないので、有望なところに異動したいそうです」
抜け目がない人物のようだと宰相は判断した。
「元上司の者か?」
「そうです」
「使いにくいのではないか?」
「気にしません。メリーネも遠慮しなくていいと言っています。召使いだった私の言葉にも耳を傾けてくれた者なので、任せてみたいのです。きっと、相手の身分や階級ではなく、状況に応じた冷静な判断をしてくれます」
「良心的だと言いたいわけだな?」
「優秀だと言いたいのです。コネとゴマすりではなく、実力で部長まで上り詰めたと聞いたので」
宰相は決断した。
「使ってみればいいだろう」
駄目なら駄目で他の人物にすればいい。リーナに責任を取らせる方法もある。貸し借りにもできる。
「人事の書類は三つ目か?」
「印が欲しいのは全部です。先に書類に目を通してください。最後の方ほど簡単な内容になっています。私が印を押せばいいようなものばかりです」
「これと同じものを置いていけ。そうすれば、印を押してもいい。但し、後で取り消す可能性はある」
リーナは一瞬喜んだが、すぐに抑えた。
危うく返事をしてしまうところだったが、返事をしてはいけないことに気づいたのだ。
同じものは手元にない。新たに作成するには時間がかかる。それまでは印を押して貰えない。結局、何も状況は変わらない。
リーナの目的は今すぐ持って来た書類に承認印を押して貰うことだ。
条件付きで印を貰えるという約束が欲しいわけではない。
「すでにこれと同じ書類を提出済みです。閣下の手元にないなら、補佐官に探させてください。その書類は承認印を押すための書類で、ここに置いていくものではありません」
「補佐官達も忙しい」
「後宮の重要書類です。紛失されては困ります。厳重注意では済みません。責任を取るとすれば、閣下です。後宮統括ですし、書類を受け取った宰相府の長として二倍の責任は確定です。それとも、補佐官に責任を押し付けるのでしょうか? 王宮の者が後宮の重要書類をなくしたということであれば、かなりの問題になるような気がします。外部でのことですから」
黙って書類の仕分け作業をしていた宰相補佐官達は緊張した。
「有能な者を処分に追い込むべきではありません。書類を探せば済むことです」
「探しておけ」
「はい」
宰相補佐官の一人が答えた。
「早く印を押してください。絶対に変な書類はありません。どれも必要なものばかりです!」
「変な書類があれば、作成者であるヴェリオール大公妃の責任になる。わかっているか?」
「わかっています」
「今の言葉をしっかりと覚えておけ」
宰相は書類に目を通していく。
印は押さない。赤いペンでところどころに線を引いていた。
間違い? おかしいところがあったの? でも、印が欲しい……。
リーナは不安に思いつつも、宰相の言葉を待った。
宰相は半分ほど見ると、顔を上げてリーナを見た。
「時間はまだあるか?」
「全部見ていただけるまで待ちます」
「印を押すための時間だ」
「あります! 今すぐ押していただけるなら!」
リーナは叫んだ。
「まだ半分ほどだが、全て承認する。私の代わりに印を押せ。補佐なら当然の仕事だ。あのサイドテーブルが押印台になっている。使っていい」
「はい! 押させていただきます!」
リーナは書類の束と共に後宮統括の印を宰相から受け取った。
宰相がもう半分を読んでいる間に、リーナはひたすら印を押す作業を開始した。
だが、すぐに終わる。簡単だ。
コンコンコン。
宰相が指で机を叩いた。
すぐに宰相補佐官が反応した。
「はい」
「丸を持って来い」
「はい」
すぐに宰相補佐官はテーブルの上にある山の一部を宰相の所へ届けた。
「ヴェリオール大公妃、こっちに来い」
リーナはすぐに宰相の所へ行った。
「何か?」
「暇だろう。この書類に宰相印を押せ。時間つぶしになる」
「わかりました」
リーナは宰相から宰相印と書類束を貰った。
サイドテーブルでひたすら印を押し始める。
さすが閣下……ヴェリオール大公妃であっても容赦ない。使える者は使う。
リーナはちゃっかり手伝いをさせられた。後宮統括ではなく宰相の。
だが、持って来た書類全てに承認印を貰うことができた。自分で押したとも言う。
目標を達成したわ! ちゃんとできた! 私の力で!
リーナは廊下に出た後、思いっきり万歳をした。
お仕事は冬籠りの差し入れと並行して着々と進行中です。
またよろしくお願い致します!





