914 リーナの差し入れ(二)
「どうしてここに!」
「それは私の言葉だ!」
クオンは自身を取り囲む壁を全力で押しのけ、女性の元へ素早く近寄った。
そして、はっきりと確認する。
リーナだと。
「このようなことをするとは聞いていない!」
「私は責任者です。現場で指示出しをするのは当然ではありませんか。作業について一番よくわかっている者が手本を示す必要もあります」
クオンは言い返せなかった。
確かにリーナは責任者だ。ヴェリオール大公妃の差し入れだけに。
「これは王太子殿下への差し入れではなく、王太子府の者達への差し入れです。ご存じないのでしょうか?」
私は対象外だと言いたいのか?
クオンはむっとした。
「私は王太子府の最高責任者だ。差し入れを希望する権利がある」
「あ……そうですね。すみません」
リーナはクオンへの差し入れを別に用意していた。
それは夫であるクオンへの差し入れであり、王太子府の最高責任者への差し入れではない。
王太子であるクオンが王太子府への差し入れを最高責任者として希望する権利があるのは確かだが、クオンがスープを欲しがるとも、自ら受け取りに来るとも思っていなかった。
だからこそ、自分が現場で指示出しをしても、差し入れの担当者達が素性を明らかにするような言動をしなければ大丈夫だと思っていた。
それは周囲も同じだ。バレなければ大丈夫というリーナの指示に従っている。
どうしよう……。
実を言えば、リーナはかなり動揺していた。
強気な口調と態度で必死に隠していた。
「護衛騎士はどうした?」
やっぱり!
リーナは頭を抱えたくなった。
夫の優秀さと目ざとさに全面降伏を即決する。
「忘れ物をしたので取りに行かせました。急ぐので命令してしまいました。すみません。一回だけです。もうしません」
「そのような命令は許さない。安全確保が優先だろう」
「ここは王太子府の廊下なので警備は万全です。皆がしっかりと周囲を固めてくれていますし」
固めていなかった。
リーナは他の女性達を置いてどんどん先に行き、廊下に並んでいる者達にワゴンが通ることを伝えていた。
その様子をクオンはしっかりと見た。自身の目で。
「今は仕事を優先させてください! 皆、お腹が空いているでしょうし、早く仕事に戻りたいに決まっています。お願いします! 後で土下座でも何でもしますから!」
土下座をする必要はない。妻にそんなことはさせない。自身の過ちを認め、謝る気持ちがあるのもわかる。
クオンは引き下がることにした。
「土下座はしなくていい。だが、後で事情を説明しに来るように」
「わかりました」
リーナはすぐにまた仕事を再開した。
「お待たせしました! スープの追加です! トッピングの追加も後から来ます!」
「お疲れ様でございます!」
「ありがとうございます!」
スープを配布する者達は何事もなかったように対応した。
リーナのことは周囲にわからないようにすることになっていた。
特別な制服を着用したのは後宮の者と王宮の者の服装を統一するためだが、リーナの存在を目立ちにくくするためでもあった。
すでに手遅れだとしても、誰もが知らんぷりを貫き通す。
官僚達も王太子をスルーしている。
本来は全員が膝をついて頭を下げるかひれ伏さなければならない。だというのに、何食わぬ顔で列に並び、スープを飲んでいた。
警備関係者も注意しない。内密の視察のようなものだ。実際は内密ではなくても。
やがて、クオン達の番になった。
「お待たせしました! お仕事お疲れ様です! 熱いので気を付けて下さいね!」
クオンに手渡す役はリーナがわざわざ務めた。
機嫌取りなのは明らかだが、しないよりもずっといいに決まっていた。
「具沢山の野菜スープです! とっても美味しくて栄養も取れます!」
リーナはにっこりと微笑みながら、人だかりになっている場所を示した。
「あそこにトッピングがあります。パセリ、ジンジャー、パン粉が二種類あります」
クオンは予想外のものがあることに驚いた。
「パン粉?」
「パンを削ったものです。食べる前のスプーンでクルトンみたいにすくって入れて下さい。スープに混ぜるとボリュームが出ます」
リーナは自らトッピングコーナーにクオン達を案内した。
「すみません。ちょっと説明しますのでいいですか?」
リーナは王太子のために退くようには言わなかった。
そんなことをすれば、スープを貰うためにわざわざ並んだクオンの気持ちを無下にしてしまう。
そこでトッピングについて説明するという理由をつけた。
「緑がパセリ。香り用ですね。嫌いな人は避けて下さい。黄色がジンジャー。ピリッとした刺激がありますが、体を温める効果があります。そして、生パン粉と乾燥パン粉です」
リーナは野菜たっぷりの具沢山スープに自信を持っていたが、トッピングについても懸命に考えた。
今回は炊き出しとは違い、余り物だけで作る必要はなかった。そこで健康的かつ食べやすく、個人の嗜好で選択できるようにトッピングの種類を増やした。
「パン粉というのはパンを細かく削ったものです。今回はクルトンの代わりに用意しました」
リーナはパンを一口程度の大きさにちぎったものを用意するつもりだった。
実際に作り、悪くないと思った。
ところが、見た目が良くないという意見が出た。
自分でパンをちぎってスープに入れるのはいいが、人がちぎったものを入れたくはないという意見もあった。
そこでパンをサイコロのようにカットしたものを用意した。
大きなサイズのクルトンに近い。問題ないと思ったが、またもや意見が出た。
スプーンで沢山すくえない。欲張るほど、ポロっと落としやすくなる。
パンの白い部分の方を欲しがり、茶色の部分が残るのではないかという懸念もあった。
様々な意見を参考にしながらリーナも懸命に考えた。
その結果がパン粉にするということだった。
スプーンですくって入れやすい。混ぜやすい。ボリューム感も出る。
入れる場所でこぼしても、コロコロと転がってしまうことはない。汚れる範囲が狭ければ、掃除が楽になる。
茶色いパン粉は乾燥パン粉に加工した。より乾燥させて固くすることで、食感を活かしたアクセント用にした。
色の違いによって白が生パン粉、茶色が乾燥パン粉でわかりやすい。
パン粥のようにもなり、激務で疲れた者達にも食べやすいだろうとも考えた。
少しずつ。皆で一緒に。そして完成したのが差し入れのスープとトッピングだった。
試食会でも大好評で、きっとうまくいくと誰もが自信を持っていた。
「絶対に入れないといけないわけではないので、あくまでもお好みで。でも、一度使用したスプーンでは取らないで下さい。衛生面への配慮です。必ず食べる前、まだ使っていないスプーンで取って下さい。入れ過ぎるとマグカップから溢れますので、そうならないように調整して下さい。お薦めはスプーンで二杯以内です。パン粉は混ぜると水分を吸ってふやけることも考えて下さい」
そして、
「今回の差し入れは希望者のみ。本人分として一つのカップしか渡しません。ですが、何度も並んでいただければ、その度に貰うことができます」
「おお!」
「凄い!」
「やった!」
リーナの説明に喜びの声が上がった。
「配布開始時間は六回あります。一回分として用意した分だけは配布所の状況次第で随時追加します。混んでいる所ほど、どんどん追加が来ます。補給所の食缶がなくなると、次の配布時間までは準備中になります」
配布時間は常時ではない。作業に当る者の休憩や昼食時間も必要だからだ。
七時、十時、十三時、十六時、十九時、二十二時に配り始める。
配布開始時間よりも遅く来るほど、配布が中断されて準備中になっている可能性が高い。
「朝の七時から三時間置きです。午前・午後・夜に各二回ずつでもありますね」
「そんなに!」
「三食代わりにできそうだ」
「夜まで……」
「最高だ!」
感嘆の声が上がった。
基本的に差し入れは通常勤務時間内に配る。夕方までということだ。
だが、夜も腹は減る。寒くなる。温かいものが余計に恋しい。
食べ応えのある温かいスープは最高の差し入れだ。
「特別に教えますけれど、午前・午後・夜で配るスープが違います。今は野菜スープですが、午後はトマトのスープ、夜はクリームスープの予定です。ぜひ、違う味を楽しんで下さい」
王太子府の者達の胸はすでにいっぱいになっていた。
王妃のスープは一種類。一回。小さなカップに一杯のみ。
ヴェリオール大公妃のスープは三種類。何回も貰える。大きなカップだ。トッピングもあり、腹の足しになるよう考えられている。しかも、夜まで配る。
部屋まで配りに来てくれないことに不満を感じていた者達は、ヴェリオール大公妃の深い配慮を知って猛反省した。
「最後にお願いがあります。皆様はお疲れですし、空腹を我慢して仕事をすることもあると思います。でも、自分だけがスープを飲めればいいとは思わないで下さい。王太子府の全員が一回でもスープを飲めるように、今お話した情報を上司の方、同僚の方、部下の方に伝えて下さい。ご協力のほど、よろしくお願い致します!」
リーナの説明が終わると、どこからともなく拍手が起こり始めた。
感謝の声、ヴェリオール大公妃を称える声も上がった。
「皆様に喜んでいただけるようにこの後も頑張ります! ご清聴ありがとうございました!」
リーナはぺこりとお辞儀をすると、クオンの方を向いてにっこりと微笑んだ。
「飲み終わったカップは向こうのテーブルへお願いします。お口に合わなければ遠慮なく残して下さい。では、お茶の時間頃にお伺い致します。失礼します」
リーナはもう一度頭を下げた後、きりりとした表情で叫んだ。
「ここはかなり混雑しています。追加を貰いに行きましょう! 別の場所もチェックに行きます!」
リーナはヴェリオール大公妃であることよりも、現場の責任者であることを優先していた。
「はい!」
「わかりました!」
リーナの周囲を女性達がザザッと取り囲んだ。
取り巻き状態。壁だ。
恐らく、最初はこのような状態だった。
だが、廊下を進むにつれて、リーナがどんどん先に行ってしまう。食缶やワゴン等があると、すぐに追いかけたくても追いかけられない。
リーナを守るための努力はしていた。だが、難しい状況だったということだ。
そこへ、ようやく忘れ物、追加のトッピングを入れた容器を抱えた護衛騎士達がやって来た。
「持ってきました!」
「ああっ!」
リーナ付きの護衛騎士達は青ざめた。
トッピングを入れた容器を女性達に渡すと、すぐに片膝をついて頭を下げた。
「申し訳ございません」
「命令でした」
それはわかっている。リーナがすでに伝えていた。
だが、従ってはいけない命令だった。
「離れるべきではなかった。わかっているだろうな?」
クロイゼルの地を這うような低い声に騎士達は動じることなく頷いた。
「ヴェリオール大公妃付きであることを優先しました」
「ヴェリオール大公妃の判断を信じ、女性達に任せました」
クオンは騎士達を無視したまま差し入れのスープを食べていた。
確かに野菜たっぷりで栄養が取れそうだった。
トッピングは入れていないが、スープの温かさが腹に染みる。
皆を想うリーナの気持ちが込められたスープ。
多くの者達が協力し、激務に励む者達を応援している。
クオンが食べ終わった時、リーナはすでに他の場所へ移動してしまっていた。
現場の責任者として指示出しや各所の状況チェックで忙しいのはわかっている。
ずっとクオンのことだけを見ているわけにもいかない。
ヴェリオール大公妃だからこそ、その視線は多くの者達へ向けられている。そうでなければならない。
クオン自身も王太子であるからこそ、わかっている。
クオンは自らカップを返却用のテーブルへ持って行った。
「体だけでなく、心まで温まった。差し入れに感謝する」
返却業務の担当者にそう告げ、クオンは踵を返した。
その行動に誰もが心を動かされ、王太子に対する尊敬の念を深めた。
「戻る」
「オッケー!」
ヘンデルはたっぷりパン粉をトッピングしていたが、すでに食べ終わっていた。
キルヒウスも一気に残りを流し込んで合わせるが、返事はできない。モグモグ中だ。
王太子一行がいなくなると、廊下は騒然としていた。
王太子がわざわざ差し入れを貰いに来たこと、ヴェリオール大公妃が自ら現場指揮をしていることなどが次々と話題に上がった。
様々な意見が飛び交う。
一番多かったのは、喜びの声。
心からの笑顔が溢れかえっていた。
次はリーナが王家の者達へ差し入れを届けるお話になります。
お楽しみに!





