912 パスカルとラブ(三)
まさかっ!
ラブは瞬時に固まった。
怖い。怖い。怖い。だが、知りたい。どうなるのか。どうなってしまうのか。
ラブは下を向き、ぎゅっと目をつぶった。
無理だった。しっかりと目を開けたまま、どうなるのかを見届けることなどできない。
パスカルの手がラブの頬に触れた。
ひぃぃぃぃーーーーっ!
心の中でラブは絶叫した。
だが、悪くはない。相手はパスカル。リーナの兄だ。
私、本当にリーナ様の妹になっちゃうかも!
瞬時にそう思ってしまうラブの頭の中には無意識の余裕があった。
だからこそ、すぐにわかる。おかしい。予想通りのことが起きない。
ラブは恐る恐る目を開き、パスカルを見上げた。
パスカルはラブを見つめていた。
その表情は先ほどとは違う。
困っている。どこか寂しそうだった。色気が漂っている。
まるで切ない恋に身を焦がす王子様だ。
相当な美形耐性がついているラブであっても、その表情を見た瞬間に目が離せなくなった。
胸がドキドキするだけでなく、勝手にキュンキュン鳴っている。
大騒音。大合唱。とにかく凄い。
「ラブ」
名前を呼ばれただけで、ラブは全身がしびれていくような気がした。
恐怖以上の期待が溢れ出して止まらない。
「自分の意志でここへ来た。そうだね?」
パスカルはラブを優しく抱きしめ直した。
そして、耳元で囁く。
「嬉しいよ。僕に捧げてくれるなんて」
ラブは腰が抜けそうだった。
力が入らない。動けない。
少しでも動けば、その場に崩れてしまいそうだった。
声が出ないどころか、このまま呼吸が止まってしまうのではないかとさえ思った。
「怖がらなくていい。優しくする」
パスカルはラブを抱き上げた。
お……お姫様抱っこおおおおおーーーっ!
ラブの表情は瞬時に輝いた。
その反応は子供と同じだ。貞操の危機を感じる表情ではない。
パスカルは微笑んだ。
優しく温かく穏やか。
そして、見守るように。
「そろそろ大人の女性としての自覚を持たないといけない。流れとしては、このままベッドに連れていかれる。自分から部屋に来ただけに同意の上、望んだことにされてしまう。男性の部屋、特に寝室に行くということがいかに危険かわかるね?」
時間切れだ。ネタバレとも。
「……はい」
ラブは素直に返事をした。
完敗だ。さすがパスカルだと思うしかない。
勉強になった。非常に。大人の階段を登った気がした。
パスカルはラブを居間に運んだ。
ラブはソファの上に降ろされると思ったが、パスカルは迷わずドアの方へと向かった。
「どこ行くの?」
「秘密」
「え?」
パスカルはドアを開け、廊下に出た。
ラブはお姫様抱っこのままである。
「ちょっ、不味いでしょ!」
「任せておけばいいよ」
パスカルはラブを抱えたままスタスタと歩いていく。
「もしかして、このまま王子府へ連行?」
「いや。特別な場所だよ」
パスカルが向かったのは検問所だった。
「ゼファード侯爵令嬢がめまいを起こした。医務室に連れて行って欲しい」
「はっ!」
「わかりました!」
ラブはようやく気づいた。
これはお姫様抱っこを利用した部屋からの強制退去だ。
お姫様抱っこは女性の憧れ。しかも、パスカルがしてくれる。普通は嫌がらない。むしろ、自慢できると喜ぶ。大人しくそのまま運ばれる。
どこへ行くのかは教えない。警備の所だとわかれば嫌がり、抵抗されてしまう。相手の興味を引くように、あるいは期待を煽るようにしておく。
そして、結局は警備の所に行く。別の所に行くために通ったわけではない。身柄を引き渡しに来ただけだ。
警備にはめまいを起こしたという説明をする。それならお姫様抱っこで運んでもおかしくない。
自分は忙しいため、医務室へ運ぶのは警備に任せる。この対応もおかしくない。警備もすんなり了承する。
ラブ自身、なぜお姫様抱っこされていたのかを警備にうまく説明できない。パスカルの説明通りだったことにするしかない。
くっ、私としたことが……まんまと部屋から連れ出されたわ!
だが、用件は終わっている。五分経った。文句は言えない。
ラブは降ろされた。
立とうとするが、先ほどの余韻からかよろけてしまう。
「あ」
すぐにパスカルがラブを支えた。
「無理をしなくていい。抱えて貰えばいいよ」
警備に運んで貰うということだ。
それは絶対に嫌!
ラブの気持ちはすぐに表情に出た。言葉にも。
「触らないで! 未婚なのよ! お兄様を呼んでよ!」
すでにパスカルに運ばれているにもかかわらず、深窓の令嬢のような言葉が出た。
だが、警備も心得ている。
嫌がる女性を無理やり抱えて運ぶわけにはいかない。
「担架で運びます」
しかし、その必要はなかった。
猛前と廊下を走って来るロジャーとパスカル付きの騎士の姿が見えた。
「このじゃじゃ馬が! パスカルに迷惑をかけるな!」
「げっ」
ロジャーの怒りの形相を見たラブは思わずパスカルの腕にしがみついた。
パスカルの手が伸び、ラブの手の上に優しく添えられた。
が、
「皺になってしまう」
服に皺がつくことを理由にして手を離すように伝える常套句。
突き放すようで、よそよそしい。
ゼファード侯爵令嬢と言っていたし……いつも通りになったってことよね。
ラブが手の力を抜いた途端、ロジャーによってあっさりと引き剥がされた。
「回収する」
「セブンは?」
「いない」
「ゼファード侯爵令嬢はめまいを起して足がふらついている」
「わかった」
ロジャーはためらうことなく一気にラブを担ぎ上げた。
その扱いはお姫様ではない。荷物だ。
「仕事の邪魔をして、ただで済むと思うなよ! セブンが戻ったら強制送還だ! 外出禁止を覚悟しておけ!」
「嫌よ! 助けて! 誰か! リーナ様ああああ!」
「うるさい! 黙れ!」
ロジャーは容赦しなかった。
ラブの尻を叩く。
「ちょっ、レディーになんてことするのよ! エッチ!」
「淑女はこのような迷惑をかけない! 自分の足で歩けないお前は子供以下だ!」
「乱暴だわ! 横暴よ! 暴力反対!」
「お前の言動は恥ずかしいを通り越して見苦しい!」
「まだリーナ様に会ってないのよ!」
「ヴェリオール大公妃も忙しいに決まっている! 迷惑だ!」
「リーナ様を補充しないと死んじゃうーーー!」
「自業自得だ!」
ラブはギャーギャーと文句を叫び続けたまま、ロジャーに連れ去られた。
どう見ても子供と大人だった。
「さすがだね。扱い慣れている」
パスカルは苦笑した。
「そうですね……」
全速力でロジャーを連れて戻って来た騎士は、ようやく安堵と脱力の息をついた。





