9 高貴な身分の者
リーナの早朝勤務が始まった。
その内容は二階にある控えの間に付属するトイレを掃除すること。
本来、これは下働きの仕事ではない。なぜなら、下働きは二階以上に立ち入ることができないからだ。
つまり、トイレ掃除であっても召使いか上級召使いの仕事だった。
後宮を管理する官僚である後宮監理官は人件費が増えるのを防ぎたい。
そこで召使いや上級召使いに退職者が出ても同じ階級の者ではなく、給料の安い下働きを新規採用するように指示していた。
下働きの中から経験を積み、優秀だと思える者を召使いや上級召使いに出世させればいい。最初から給料の高い新人を雇う必要はないと考えた。
それ以外にも、昇格を厳しくした。
昇格すれば昇級だ。人件費がかかってしまうため、昇格させたくない。
おかげで召使いや上級召使いの全体数は減り続け、現場への負担が増していた。
この状況に対応し、侍女長は召使いや上級召使いがしたがらない仕事の一部を下働きにさせることにした。
リーナは掃除部長が直々に指導しているせいで従順かつ勤勉だ。
年齢も若く借金も多い。後宮で長く勤務するしかない。
だからこそ、選ばれた。
借金があるからこそ大抜擢されるというやや皮肉な結果になった。
早朝勤務が増えたリーナは大変だと感じたが、実際に始めて見るとそれほどでもなかった。
最初の方こそ三時に起きていたが、だんだんと遅い時間でも問題ないことがわかった。
四時過ぎに起床して身支度も掃除も手早く済ませ、控えの間の窓から朝の風景を少しだけ楽しんだ後、許可されている時間内に地下に戻るという生活を送っていた。
そして、給料日。
リーナの給与は固定給十五万ギニーに能力給の一万ギニーが追加され、合計十六万ギニーになっていた。
早朝勤務が評価されたのだ。
早起きしなければならないが、仕事自体は簡単だった。
人の嫌がる仕事かもしれないが、だからこそ任された。
見方を変えればできるだろうと信用され、チャンスが貰えたということだ。
どんな仕事でも、一生懸命頑張れば評価される。
地上に行けることも、朝の風景を楽しむ時間が取れるのも嬉しい。
給与も上がるのであれば、良い事尽くしだとリーナは感じていた。
約一カ月間、リーナは真面目に仕事に励んだ。
仕事をきっちりこなしており、早く終わり過ぎて余裕があることも正直に報告した。
すると、別の控えの間に付属するトイレ掃除もするよう指示された。
更に一カ月後、二カ所でも時間が余っていることを報告すると、またもや追加になった。
リーナは合計三カ所のトイレを早朝の内に掃除することになった。
同僚達は余計な報告をしたせいで仕事が増えた、リーナは損をしていると思った。
だが、リーナ自身はそう思わなかった。
それだけ信頼されている。仕事を沢山こなせる証拠だと喜んでいた。
早朝勤務を順調にこなしていたリーナだったが、ついに問題が起きた。
巡回警備の時間が変更になり、早朝勤務の際に出くわしたのだ。
「下働きのくせに何をしている?」
「仕事で……」
「こんな時間に? 一人で?」
「籠しか持っていない。おかしい」
下働きは二階に立ち入ることができない。
籠以外に仕事道具らしいものを持っていない。
警備はリーナを規則違反者だと思った。
「所属と名前は?」
「掃除部のリーナです」
リーナは正直に答えたが、ますます警備は怪しんだ。
「掃除道具を持っていない」
「仕事だと言ったな? どこを掃除している?」
「守秘義務があって……言えません」
仕事については部外者に教えてはいけないことになっている。
警備は掃除部の者ではない。清掃部の者でもない。部外者だとリーナは思った。
仕事内容を言わなかったせいで、リーナは捕縛されてしまった。
警備室に連行されたリーナは取り調べでも仕事について話さなかった。
「掃除部と言ったな? 上司は誰だ? 掃除部長か?」
「侍女のメリーネ様です」
「侍女?」
掃除部には召使いしかない。
より上の階級である侍女が上司として管轄しているのだろうと考え、警備は清掃部のメリーネを呼び出した。
メリーネが特別な仕事をしていることを説明したため、リーナはすぐに釈放された。
だが、早朝に呼び出されたメリーネは不機嫌極まりなかった。
「リーナ」
「申し訳ありませんでした!」
リーナは深々と頭を下げたが、メリーネの表情は冷たく厳しかった。
「部外者に仕事内容を話さないことは重要です。ですが、不審者や違反者と間違われている時は説明しても構いません。すぐに説明すれば私が呼ばれることもなかったはずです」
「はい。本当に申し訳ございません」
「二度とこのようなことがないようにしなさい! いいですね?」
「はい! 本当に申し訳ございませんでした!」
リーナが深く反省していることはわかる。
問題を起こしたが、真面目過ぎただけでもある。
メリーネは今回に限っては仕方がないと思うことにした。
そして、ふと気づく。
「これまでに警備に会ったことは?」
「ないです」
「初めて?」
「はい」
「他の者は?」
リーナは首をかしげた。
「他の者ですか?」
「不審者です」
「ありません!」
リーナは驚きながら答えた。
「これからは警備の者と会いやすくなるかもしれません」
警備は重要な部屋の周辺に不審者や違反者がいないかを確認するために巡回している。
常に同じ時間に同じ場所を巡回すると、警備がいない時間を見計らって不審者が侵入する恐れがある。
そこで警備は定期的に巡回時間や場所を変更する。
「不審な者に出くわす可能性もゼロではありません。一人で仕事をしている以上、身の安全には十分に気をつけなくてはなりません」
「……はい」
リーナは怖くなった。
「後宮の警備は万全のはずです。外部からの侵入者がいなくても、違反者がいるかもしれません。怪しい者を見つけた場合は警備に通報しなさい」
後宮に務めている者は制服でどの階級かがわかる。
二階に出入りできる資格がある制服ではない者は怪しい。
資格がありそうな場合でも、違反者の可能性がある。
「侍女が何らかの違反をしていそうだということであれば、真っ先に私へ知らせるのです。知らない相手であれば、所属や名前を確認しなさい。いいですね?」
「わかりました」
リーナはしっかりと頷いた。
リーナは気を引き締め、きびきびと早朝勤務をこなした。
警備にあっても不審者がいても違反者がいてもどうすればいいかはわかっている。
だが、そうではない場合はどうするのかがわからなかった。
「あ……」
リーナは動揺した。
新しい問題が発生してしまった。
リーナが掃除するために控えの間に入ると、そこには人がいた。
男性だ。身なりが整っている。高貴な身分の者であるように思えた。
制服ではない。私服だ。警備でもない。
男性はソファに横たわって休んでいたが、リーナがノックもせずに部屋に入って来たため、すぐに起き上がるとすぐに剣を抜いた。
「何者だ?」
リーナが下働きであることは制服を見ればすぐにわかるはずだった。
しかし、下働きが入れない部屋だ。
早朝、ノックもしないで突然入って来たこともあって、部屋の中にいた男性は明らかに警戒していた。
剣を見たリーナは驚きの余り叫ぶこともできず、その場に硬直した。
ドキドキと心臓が大きな音を立てている。
近づいてくる男性を見れば見るほど怖かった。
金の髪は怒りのオーラを纏っているように感じた。
銀色の瞳から放たれた鋭い視線がリーナを突き刺している。
容姿が整っているだけに余計に怖い。長身でもある。かなりの威圧感だ。
「も、申し訳ありません! 人がいるとは思わなくて」
リーナは恐怖に震えつつもなんとか言葉を口にした。
「名前は?」
「リーナです!」
「下働きだな? なぜ、ここに来た?」
「掃除に来ました!」
男性は眉をひそめた。
「掃除だと?」
「はい! そこのドアの先にあるトイレです!」
銀の瞳に睨まれながら、リーナは必死で説明した。
「ここの部屋は別の者が掃除をしますが、トイレだけは私が担当です! 侍女長に特別な許可を与えられており、早朝三時から六時までの間に掃除しなければなりません。上司の侍女であるメリーネ様に確認を取っていただければわかります!」
「掃除道具を持っていない。怪しい」
「掃除道具はトイレの中の戸棚にあります! 専用の掃除道具を使うので、持ち歩いて移動しなくてもいいのです!」
男性は考え込む。
「お前の弁明が正しいことを証明するため、掃除道具がどこにあるか教えろ。少しでも怪しい素振りを見せれば、不審者として扱う」
「はい!」
リーナは怯えつつも、トイレへつながるドアを開けた。
そして、いつも通り掃除道具を入れるにしてはあまりに豪華過ぎる戸棚から掃除道具を取り出した。
「これです! この戸棚に掃除道具があります! 隣の戸棚には備品であるタオルやトイレットペーパーが収納されています!」
リーナは必死な表情で道具を見せた。
「仕事をしろ。しばらく監視する」
「はい!」
リーナは掃除を開始した。
疑われてしまうのは仕方がない。
それよりも、時間内に掃除を済まさなければならない。
警備やメリーネを呼ばれることなく、掃除をしてもいいと言われたのはとてもありがたかった。
リーナは慣れた手つきで掃除を開始した。
トイレはほとんど使われていないため、一見すると非常に綺麗だ。
しかし、手抜きはできない。
誰も見ていなくてもきっちり仕事をすることが重要であり、信用につながるとマーサに教えられていた。
それを守ってきたからこそ、早朝の特別な仕事も任されることになった。
「終わりました! 次の場所に向かわなければなりません。移動してもよろしいでしょうか?」
「ここだけではないのか?」
「はい!」
「二カ所か?」
「ここも含めて三カ所です。一時間以内に一カ所の計算です。六時までに三カ所の掃除を終え、地下に戻らなければなりません!」
リーナの説明に納得したのか、ドアの側に立ち塞がっていた男性が移動する。
「次の場所に行け」
「ありがとうございます!」
リーナは深々と一礼すると、次の場所に向かった。