88 ノースランド伯爵夫人
「ご挨拶を。ノースランド伯爵夫人です」
ヨランダが小声でそう言われ、リーナはハッとした。
「リリーナ・エーメルと申します。お会いできて光栄です!」
「ロジャーが短期の客を連れて来ると言っていたけど、この子ね。年齢は?」
「十九歳です」
「ロジャーとは親しいの?」
「恩人です」
「どんな恩人なの?」
リーナはヨランダを見つめた。
「お仕事関係のご縁ではないかと。詳しくは存じません」
「どういう縁なの?」
リーナはもう一度ヨランダを見つめるが、すぐに目をそらされてしまった。
それは助けられないということ。
「……成人したので自立しようと思いました。祖父がロジャー様と話し合い、こちらで礼儀作法について勉強することになりました。私もその程度しか聞いていません」
「そう。ところでヴィクトリア、なぜ倉庫を開けてドレスを運ばせているのかしら? 見たところ、リリーナに着せているようだけど」
「アデルが体調不良なの。だから、リリーナをオペラの付き添いにするわ。勉強になるでしょう?」
「私が衣装を選んであげるわ」
衣装選びが大好きなノースランド伯爵夫人はにっこりと微笑んだ。
「……そう言うと思ったわ。でも、急がないとサイズ直しができなくなるわ。付き添いだから控えめなドレスにしたいのに、私の古いドレスは派手なのよ。お母様のせいでね!」
「別に派手でもいいでしょう? 今夜だけだもの。誰かに紹介するの?」
「ボックス席を譲ってもらったから挨拶はするけれど、社交はしないわ。さっさと帰ってくるつもりよ」
「王立歌劇場?」
「そうよ。アデルのコネでとった席だから、絶対に行かないと。空席はダメだって言われたから、行儀見習いを一人連れて行こうと思って来たのよ」
「演目は?」
「悲劇よ。お母様は嫌いでしょう?」
「どの悲劇?」
「トルカの愛」
「最悪だわ!」
ノースランド伯爵夫人はゾッとした。
オペラは好きだが、悲劇は嫌いだった。
「そう言うと思ったからこそ、声をかけなかったのよ」
「ドレスを選ぶことについては問題ないわ。黒ね」
「悲劇だから黒という発想はやめて」
「だったら青にしましょう。涙の色よ」
青のドレスが次々と運び込まれたが、ノースランド伯爵夫人はダメ出しした。
「青はやめるわ。白にしましょう。花嫁姿で死んでしまうのを忘れていたわ」
着せ替え作業によって、ヴィクトリアもヨランダも侍女たちもすでに疲れを感じていた。
ただ一人、着せ替え人形と化しているリーナを除いては。
「花嫁姿で死んでしまうのですか?」
「そうよ。リリーナはトルカの愛を観たことはないの?」
「ないです」
「とても可哀想な話なのよ。わざわざおめかしして外出したのに、オペラを観て悲しくなるなんて嫌だわ。でも、ヴィクトリアは悲劇が好きなの。ハッピーエンドや喜劇の方が楽しい気分になれるのに」
ノースランド伯爵夫人は残念だと言わんばかりの口調でそう言った。
「リリーナも悲劇が好きなの?」
「知らないお話なので興味があります。でも、花嫁姿で死んでしまうのは可哀想です。どうして死んでしまうのでしょうか?」
「恋人と引き裂かれて、嫌いな相手と結婚するのが嫌だからよ」
「そうでしたか。でも、死ぬのはやめた方がいいと思います。生きていれば別の解決方法が見つかるかもしれません」
「可哀想な気分になって物語を味わうのがいいのよ。嫌いな相手と政略結婚したけれど、夫が金持ちで何不自由なく暮らした、なんてつまらないもの」
ヴィクトリアはそう思ったが、母親の意見は違った。
「あら、別につまらなくなんかないわよ? 夫のお金を使って贅沢に何不自由なく暮らせばいいでしょう?」
「それだと純愛にならないでしょう?」
「現実なんてそんなものよ」
「これはオペラなの! 現実らしくある必要はないのよ!」
「それより、白いドレスはまだ?」
侍女たちは一斉に白いドレスの用意に取り掛かった。