87 ヴィクトリア
リーナはノースランド公爵家で何不自由のない生活を送っていた。
だが、あまりのもてなしぶりに不安でもあった。
「もしかして、これは有料ですか?」
「無料です」
「生活費が借金になっていませんか?」
「なりません」
「出世払いで生活にかかった費用をお返しするなんてことは」
「ありません!」
後宮の生活水準は高かったが、生活費は有料。日用品を買うと借金になった。
そのような生活を送っていたリーナにとって、より生活水準の高いノースランド公爵家での生活が無料だという事実は驚きでしかなかった。
第二王子の慈悲深さとロジャーの寛大さによって特別に救済されたとリーナは聞いている。
二人に感謝しながら、リーナは貴族の令嬢としてふさわしくなるためのスパルタ教育を受け、着々と成長していた。
約一カ月後。
リーナの部屋に一人の女性がやってきた。
「なかなか可愛らしい子ね?」
「アルフ様にこのことを伝えなさい!」
ヨランダは答える前に侍女への指示を出した。
急いで出ていく侍女を見送ったあと、ヨランダは深々と一礼した。
「おかえりなさいませ。ですが、なぜこちらに? いきなりご入室されるのはマナー違反です」
ヨランダはたしなめるようにそう言ったが、相手の女性は平然としていた。
「名前は?」
「リリーナ・エーメルと申します。失礼ですが、誰でしょうか?」
リーナは女性に尋ねた。
「誰ですって? ヨランダ、教えてあげなさい!」
「はい。どなた様でしょうかと尋ねるべきです」
「そうだけど、違うでしょう!」
「わかっております。こちらはノースランド伯爵令嬢ヴィクトリア様です。ノースランド公爵の孫の一人、ノースランド伯爵の長女、ロジャー様の姉君でございます」
「ロジャー様の姉君!」
リーナは慌ててもう一度深々と一礼した。
「お会いできて光栄です」
「アルフに伝令を出したということは、アルフの客? 上級の客間を使用させているということは、まさかと思うけれど恋人なの? 将来について考えているということ?」
リーナは助けを求めるような視線をヨランダに向けた。
淑女たるもの、尋ねられたからといって軽々しく応えてはいけない。慎重に対応すべきと教わっていた。
そして、わからない時や困った時は失言を避けるためにも、わかりそうな者に頼っていいとも聞いていた。
「リリーナ様は淑女としての礼儀作法を身につけるべく、行儀見習いとして滞在中です」
貴族の令嬢は家や学校で淑女教育を受ける。
しかし、裕福な者や高位の家に行儀見習いに行き、社会勉強や花嫁修業をするという旧来の方法も根強く支持されている。
ノースランド公爵家では、マナー講習や教育実習としての行儀見習いを受け入れていた。
「ただの行儀見習い? 花嫁修業? 婚約者はいるの?」
「ただの行儀見習いです」
リーナは誤解されないようにと思って答えた。
「正直に答えなさい。ロジャーかアルフの妻や恋人の座を狙っているの?」
ロジャーやアルフの妻や恋人の座を狙い、ノースランド公爵家での行儀見習いを希望する女性もいた。
「狙っていません」
「あの二人と結婚してもろくな人生にならないわよ。仕事ばかりだしね。子どもを産めば安泰なんて思ったら大間違い。女性に対してお金をかけない主義なのよ。贅沢なんてできないわ。綺麗な牢獄で一生寂しく過ごすことになるわ」
「牢獄も一生寂しく過ごすのも嫌です」
「だったら、あの二人の妻にはならないことね。わかったかしら?」
「はい!」
「ドレスを用意して。王立歌劇場に行くわよ」
リーナとヨランダは驚いた。
「王立歌劇場?」
「オペラでございますか?」
「そうよ。付き添いが必要で来たの」
ヴィクトリアは父親のノースランド伯爵と喧嘩して家出をしている。
実家に戻るのは用事がある時だけだった。
「姉上!」
慌てて駆け付けたアルフが勢いよくドアを開けた。
「なぜここにいる!」
「新しい行儀見習いが来たというから、警告しにきたのよ」
「余計なことをしなくていい! 長居しない」
「本当にそうかしら?」
「就職先が決定するまでの間だけだ」
「どこに就職するの?」
「知らない」
「ロジャーに聞くわよ? アルフがちゃんと面倒を見ていないせいだと思うでしょうね」
アルフは面倒だと感じた。
「王宮の求人に応募するらしい」
「侍女?」
「見習いからだろう。詳しくは知らない」
再就職先について何も教えられていなかったリーナは驚いた。
「縁故採用? 一般募集なら相当勉強しておかないと。順調なの?」
「知らない」
「ヨランダ、大丈夫なの?」
「できるだけのことは教え込むつもりです」
「そう。でも、王宮に就職する気なら大丈夫そうね。早くドレスを用意して」
「何をするつもりだ?」
アルフが尋ねた。
「王立歌劇場よ。オペラ鑑賞は教養と感性を磨けるからいいでしょう?」
「勝手なことをするとロジャーに怒られる。やめた方がいい」
「アデルが体調不良で代わりが必要なのよ。アルフが一緒に行ってくれる?」
「断る」
「じゃあ、リリーナを連れていくわ」
「オペラ用のドレスがありません。社交を想定した衣装は必要ないとのことで用意がありません」
ヨランダが答えた。
「私のいらないドレスをあげるわ。昔のドレスが残っているはずよ。アクセサリーは貸してあげるわ。夜までに準備しないとだから急いで!」
「……はい」
ヨランダはしぶしぶといった表情で答えた。
アルフはこのことをロジャーに報告するため、すぐに部屋を出ていった。
オペラ鑑賞用のドレス選びが始まった。
「ドレスが大きいわね」
ヴィクトリアは女性にしては長身。
細身のリーナにとってヴィクトリアのドレスは丈も幅も大きかった。
「私は小さい頃から身長が高かったのよね」
身長に合わせると、ヴィクトリアが未成年の頃のドレスになってしまう。
それだけにデザインが子供っぽくなってしまうのが難点だった。
「よくこんなレースとリボンだらけのドレスを購入したわね。本当にお母様は自分の趣味しか考えていないわ!」
「ヴィクトリア様は何を着てもお似合いだと思われているのです」
ヴィクトリアは可愛いフリルやリボンがふんだんについたドレスを着たリーナに視線を移した。
「絶対に目立つわね。付き添いにしては派手だわ」
「落ち着いたデザインの方がいいとは思うのですが、ヴィクトリア様の昔の衣装はこのようなものばかりです」
「お母様のせいね」
「私のせいですって?」
突然の声。
ヴィクトリアの表情が引きつった。
ヨランダは瞬時に無表情になって背筋を伸ばす。
ドアの側にノースランド伯爵夫人がいた。





