86 リーナのために
クオンが執務室で書類を読んでいると、第二王子が来たとヘンデルが伝えた。
クオンはエゼルバードを部屋に通すように言い、ヘンデルを下がらせた。
「時間をいただき、ありがとうございます」
エゼルバードはにっこりと微笑んだ。
「お忙しかったでしょうか?」
「常に忙しい。手短に済ませろ」
「リーナのことですが、ご存じないのですか?」
「何のことだ?」
「解雇されることです」
予想通りだとクオンは思った。
後宮の縮小化が決まり、人件費を削減することになった。
かなりの人数が解雇される。
このことはクオンの耳にも届いており、解雇者リストの中にリーナの名前があることも知っていた。
「それがどうした?」
クオンは平然とした口調で答えた。
「いいのですか?」
「何がだ?」
「解雇されますが?」
「構わない」
クオンは書類を机の上に置いた。
「リーナのおかげで後宮内の違反に気づいた。そこで階級を上げ、現在担当している仕事を続けられるようにした」
リーナから見れば出世。だが、仕事のために適切な階級にしただけ。
「もう少しぐらい何かしてやった方がいいようにも感じたが、与えすぎるわけにもいかない」
エゼルバードは黙ったまま。じっとクオンを見つめていた。
「私が配慮したせいで無駄に騒ぐ者がいるのはよくない。説明をするほど、余計に何かあると勘繰られる。私は忙しい。そのようなことに付き合ってはいられない」
クオンはエゼルバードを見つめた。
「お前に言ったのは本心だ。リーナに限らず、他の者に対してもよく考えるように。私の大切な弟に何かあっては困る」
「兄上……」
自分のことを心配してくれていると感じたエゼルバードは嬉しくなった。
「お前が動いたのは知っている。配慮してやればいい」
話は終わりだとエゼルバードは思った。
しかし、続きがあった。
「女性は脆い。リーナは若く未熟なせいでより脆いだろう。強き者と同じにしてはいけない」
クオンは注意した。
「弱さを理由に切り捨ててばかりでもいけない。時には堪え、配慮してやれ。それが寛大さだ。お前は寛大で優しい王子だと言われている。国民の信頼と期待を裏切らないようにしろ。私からは以上だ」
クオンはそう言うと、書類をまた読み始めた。
エゼルバードは想定内だと思った。
リーナに関心がないと言いつつ、注文をつける。
国民の信頼と期待を裏切らないようにも言った。
エゼルバードは自分のためにそうするだけの話だが、兄は違う。
自分のためだけでなく、国民のためにもそうしろと言う。
面倒です……。
動機や過程が違っても、結果は同じ。それでいいではないかとエゼルバードは思った。
「配慮するかどうかはロジャー次第です。私は関係ありません」
嘘だった。
エゼルバードがロジャーに命令した。
「そうか。では、ロジャー次第だな」
「よろしいのですか?」
「何がだ?」
「ロジャーです」
「ロジャーはリーナを気に入ったのか? 幸せにするならいい。この話は終わりだ。他になければ下がれ」
「では、そのようにロジャーに伝えます。失礼します」
エゼルバードはすぐに部屋を退出した。
交代するようにヘンデルが部屋に戻った。
「なんだった?」
「リーナのことだった」
「やっぱり!」
ヘンデルはニヤリとした。
「早かったね?」
「エゼルバードは堪え性がない。解雇日まで待つわけない」
「だよね!」
エゼルバードはリーナが解雇予告の通知書を受けてから三週間後に動いた。
クオンたちが動く気配が全くないため、ロジャーに命じて自分の方で身柄を確保した。
もしエゼルバードが動かなければ、クオンはアリシアを派遣し、リーナの借金を代理清算して身柄を確保するつもりだった。
「第二王子が動いてくれたおかげで、何もしなくて済んだね」
「そうだな」
「でも、意外だったなあ。手放しちゃうとはねえ」
クオンはじっくり考えた。
どうすればリーナにとって良いのかを考え、結局は一人の平民としてどこかで平穏に暮らせばいいと考えた。
後宮にいれば、エゼルバードに利用される。
王宮も安全ではない。華やかさの影で人々が足を引っ張り合い、嘘をつき、策略を練っている。
そんな場所にリーナがいても傷つき苦しみ悲しむだけ。危険なことに巻き込まれないようにするためにも解雇でいい。
平民として生きるのが簡単とは言わないが、借金をクオンの方で清算、支度金を与え、真っ当な仕事を世話すればいい。
普通の人生を送れる。その方がリーナらしく生きることができ、幸せになれるだろうとクオンは考えた。
「手放すというのはおかしい。リーナは私のものではない」
リーナが自分よりも第二王子に仕えたいと言ったことを知り、クオンは冷静に決断できた。
「第二王子にはあんまり期待しないけど、ロジャーには少し期待してもいいかな?」
ヘンデルが言った。
「年齢的にもそろそろ相手を選ぶよう実家がうるさいだろうし」
「お前もそうだろう?」
「まあね。クオンが先だよ」
「ロジャーもエゼルバードが先だと考えるかもしれない」
「それはないよ。できる時にしておこうと思っている。ただ、理想的な相手がいないってさ」
ヘンデルとロジャーは王族付きの側近同士、話す機会がそれなりにある。
「ロジャーは気まぐれな第二王子の世話に忙しい。妻に構っている暇はない。それでもいいって女性じゃないとダメだろうね」
クオンは別の書類を取り出すとサインを始めた。
集中して読めないためにやることを変更してみたが、それも長続きはしなかった。
クオンは飴入れに手を伸ばす。
途中で止め、食べるかどうか悩んだあと、結局は飴を食べることにした。
ガリガリと音が響く。
「また噛んでいるよ。悪い癖だな」
クオンは噛むのを止めた。
飴は甘い。酸っぱい。レモン味。
美味しいとは感じなかった。
昔は甘い菓子を食べると幸せな気分になれたが、今はもう感じない。
クオンはふと思った。
リーナもいつか、菓子を大事にしなくなるのだろうか……?
エゼルバードやロジャーに庇護されれば、菓子ぐらいは手に入る。
別の者かも知れない。愛する男性を見つけ、愛し愛され、変わってしまう。
私の知っているリーナはいなくなってしまうのかもしれない……。
純粋に菓子を喜び、大切に食べ、幸せの味がするといったリーナは。
クオンは強い喪失感を覚えた。
だが、どうしようもない。
リーナのためを思って決めたのはクオンだった。