853 夫婦の夕食(一)
十九時。
王太子夫妻の夕食は予定時間通りに始まった。
「とても綺麗だ」
リーナはめかしこんでいた。
だが、クオンはギリギリまで執務をこなしていたため、着替えることなく夕食の席についた。
上着位は替えた方が良かったのかもしれない。
クオンは密かに反省した。
「ありがとうございます。でも、今日だけにしようと思っています」
リーナは早速なぜこのような装いをしているのか説明することにした。
「いつもはこれほどの支度はしません」
晩餐用のドレスには着替えるが、高価な宝飾品をわざわざつけるようなことはしていなかった。
「基本的に夕食は一人ですので、わざわざ着替える意味はない気がしました。ですが、晩餐前に着替えるのが王族や貴族といった高位の者の作法だと教わりましたので、ドレスだけは着替えていました」
正しい。
クオンは忙しいことを言い訳に作法に従っていないだけだった。
「今回もクオン様と夕食ということで、おめかしすることになりました。でも、クオン様は着替えていないようですし、私もやめようかと。侍女達はがっかりするのではないかと言っていましたが、クオン様はどう思いますか?」
「女性はドレスや宝飾品を好み、どのような装いをするかを楽しむものだと思っていた。だが、着替えたくないというのであればそれでいい。特別な予定の時だけ着替えればいいのではないか? 私は謁見や会食といった予定に応じて着替えている」
「では、普段はこれまで通り晩餐用のドレスにするだけでもいいでしょうか?」
「好きにしていい」
クオンはそう言いながら前菜に口をつけた。
リーナとの会話は重要だが、時間は限られている。一時間で夕食を取り終えなければならない。
この後はまた仕事に戻るつもりだった。
リーナも前菜に手をつけると思ったが、リーナは手ではなく口を動かした。
「お忙しいと思うので食べながら聞いて下さい。実は午前と午後にヴェリオール大公妃付きになる者の紹介と挨拶がありました。その際、宰相閣下から二つの勅書を見せられたのです」
「ヘンデルから聞いた。ヴェリオール大公妃付きへの命令権を許可され、後宮統括補佐にもなったようだな?」
「そうなのです! おかげで私は偉い者として命令できるようになりました。後宮の良くないと思う部分を改善したかったので丁度良かったというか、とても嬉しいです!」
リーナはずっと後宮で働いて来た。
後宮では後宮のやり方があるというのはわかっている。
後宮で決められた方法の中には信じられないほど素晴らしいと思えることもあった。
毎日入浴できる。食事も決められた回数が出る。清潔な服を着ることができる。
日常的なことは全て担当の者達に任せるシステムになっているため、自分の任された仕事だけをこなせばいい。集中できる。
だが、疑問に感じることがなかったわけではない。
当時は下の階級であることから規則通りにするか上司の命令に従うしかなかった。
任された仕事については自分なりに工夫したこともあったが、何もしなければ仕事がこなせないからであり、ほんの一部にしか過ぎない。
何かを抜本的に変えることはできなかったが、それができるかもしれない権利を持った。
もっと多くのことを改善すれば、後宮は住みやすく働きやすくなる。多くの者達が喜ぶ。
多額の経費がかかっているとも聞いたため、節約できる部分も探していきたい。
リーナは夢が膨らむように感じた。
「午後、調理場の視察に行きました。炊き出しの材料になりそうな野菜屑がどの位あるのか見ようと思って」
炊き出しが催せるかどうかはまだわからない。だが、準備には時間がかかる。
そこで協力者を募りながら、様々なことを考えたり確認したりしておこうとリーナは思った。
「視察に行く前、後宮から出る食品廃棄物は動物のエサや堆肥に利用されているので、炊き出しの材料にはできないと後宮長から説明されました」
クオンは眉を上げた。
「初耳だ」
「でも、実際に調理場に行くとそれは昔の話で、今は全部業者に依頼して捨てているとか。処分費用もかかっています。その情報が正しいのかどうかを確認して貰うことにしました。単に業者に有料で依頼しているようであれば、ただ捨てるのではなく何かに活用する方法を模索したいと思っています」
リーナは野菜屑を使った炊き出しを考えた。それも再活用の一つだ。
しかし、食品廃棄物は毎日出る。催しは一回だけだ。
毎日炊き出しを催したくても、必要なものはそれだけではない。
一日だけなら無料で馬車や調理器具を借りることができても、毎日は無理だ。
そこで一日二回しかない下働きの食事を三回にしたり、召使の食事をより豊かなものにするといったことにも活用するのはどうかと思った。
昔のように動物のエサや堆肥に活用する方法もある。
とにかく、勿体ないことはしたくない。
食べ物、資源、お金。全て有限だ。無限ではない。
大切に無駄なく有効に使いたい。
「ゴミを燃やすためにはお金がかかります。燃料の費用を業者に委託する処分費用に充てる方が楽というのもわかります。でも、ゴミを再活用するためにお金をかけるという選択があってもいいはずです!」
「すべてが同じ費用で済むかどうかはわからない。ゴミの再活用が最も費用がかかる恐れもある。だが、再活用するだけに、何か別のことで役立っているはずだ。それを加味して考えると、結果的には一番の節約になっているかもしれない」
食品廃棄物を慈善活動等に役立てれば、慈善活動の費用がかかりにくくなる。
後宮だけで考えると費用がかかったままかもしれないが、慈善活動を結びつけることによって総合的には無駄を少なくし、費用を節約することになる。
「他にも驚くような話を聞きました。後宮の納品係が商人からお礼を貰っているようなのです!」
不正問題の話が出た。
「渡している品物が安い金額だと賄賂にならないとか。この件は重要なことだと思ったので、エッジフィール伯爵から宰相閣下に伝えて貰い、調査していただくようお願いしました」
最初に伝えるべきは宰相ではなく自分だとクオンは言いたかった。
だが、言わない。
なぜなら、リーナは後宮統括補佐として視察した。仕事である以上、真っ先に報告するのは夫ではなく上司に報告するのが筋だ。
リーナが直接伝えて来なくても、必ず同行している者達から報告が上がる。
結局は早さの問題だ。
ならば、リーナ自身が判断したことが客観的に見て冷静かつ正しいことを周囲に示すような行動の方がいい。
かつて元平民の孤児や侍女等であった過去への軽視を抑制し、優秀な女性だと評価されることへつながっていく。
リーナのことを王太子に寵愛されて妻になった運のいい女性でしかないと思っている者達を変えていくだろうとクオンは思っている。
「その話は聞いた。今の時点ではまだ内密にする。問題行為かどうかを判定するための調査と証拠が必要だ」
「宰相閣下にお任せすれば大丈夫だと思っています。ただ、今回のことでやはり現場の状況を確認したり、情報を集めたりすることはとても重要なことだと実感しました。新しい情報が伝わっていなければ古い情報で判断してしまいます。現状を正しく把握できていないかもしれません」
「その通りだ。情報の取得に力を入れ、できるだけ最新のものに更新しておくべきだろう。過去のものと比べること、経過に注視することでより正確な状況把握ができ、適切な判断がしやすくなる。私は食事の後、仕事に戻る。メインを運ばせてもいいか?」
「どんどん食事をして下さい。私のことはお構いなく」
「わかった」
クオンがそう言うとすぐに給仕が来て前菜の皿を片付け、肉料理を運んで来た。
「肉料理ですか?」
コース料理では魚料理が出て来るはずだった。その後、肉料理だ。
「普段の夕食はメインを一品にしている。メインは肉が多く、魚はあまり食べない」
魚が少ないのは嗜好の問題ではない。
内陸の国であるエルグラードの食文化を反映しているだけだ。
フルコースに魚料理が加えられるようになったのは、海産物を手に入れるだけの力と富をあらわすためだった。
王家の日常的な食生活では肉料理が多い。
「無理に合わせる必要はない。魚が好きであれば、魚料理を用意させる」
「いいえ。これまでは魚料理と肉料理が出ていたので、同じだと思っていただけです」
婚約者は王家の者ではない。リーナの食事は独自のメニューで、王家の者達と同じではなかった。
「魚料理が出ないなら出ないで問題ありません」
「肉でいいのか?」
「正直に言うと、お肉の方が好きです」
「ローストビーフが好物だったな。毎日用意させることもできるが?」
リーナは首を横に振った。
「いいえ。様々なものをバランスよく食べることが健康的です。それに、時々だからこそ余計に美味しく嬉しくいただけます。毎日食べていると、いつか飽きてしまうかもしれません。美味しいものを美味しいと感じられなくなるのは悲しいです」
「それもそうだな」
クオンはあっという間に肉料理を平らげた。一口が大きいため、みるみるなくなったとも言う。
「でもクオン様、それで足りますか? あっという間になくなっています!」
「早く食べるのが習慣なだけだ」
「そうですか、では続きを」
リーナは話す気満々だった。
「少し食べたらどうだ?」
リーナはまだ前菜だ。さすがにクオンは気になっていた。
「後がつかえている。スープも冷めるだろう」
「冷製スープだと思うので大丈夫です」
良くないと思う給仕の声は届かない。
「本心を言えば、深皿ではなくカップで出してくれると助かります。グイっと飲めるので」
「マナー違反になる」
「そうですね。では、スープはなしで。メインにします。用意に時間がかかると思うので、その間に話します」
「そこまでして話したいのか」
食事中の話題に困らないのはいいが、クオンにとっては意外だった。
「後宮に住む側妃達は私を含め数人います。ですが、後宮の購買部をほぼ利用していないはずです。でも、後宮の購買部には沢山の高級品が揃えられています」
リーナの話は調理場から購買部へ移った。
「実際の利用者は後宮から外出できない者達が多く、給料が安いのに高級品を買わざるを得なくて借金を抱えてしまいます。これは早急に改善しなくてはいけません。なので、方法を考えました。まず、今あるものとは違う購買部を作りたいと思っています」
「王宮の購買部のようなものか?」
一緒に王宮の購買部に行った際、品物の安さにリーナが感激していたことをクオンは思い出した。
「基本的には。でも、より安い品を扱いたいです。なぜなら、後宮にいる者達の多くは借金を抱えているからです。支出を抑えなければ借金を返済できません。溜まる一方です」
「まあ、そうだな」
クオンはデザートを確認しながら頷いた。
「これまでの購買部は借金を作らせるようなものだったので、正反対のものにします。借金の返済を助けるような激安品であるにもかかわらず、品質的には問題がないお買い得品ばかりの購買部にします。そのような購買部があれば利便性を維持しつつ、借金も減るのではないでしょうか?」
クオンは驚いた。
後宮の購買部に高級品が多く、そのせいで後宮の者達が借金を作る要因になっているということは以前報告があった。
後宮の購買部をなくすのが最も早くて簡単なように思えるが、それでは後宮の者達が必要とする日用品を手に入れることができなくなる。
すでにある王宮のような購買部を作ればいいと普通は考えるはずだ。
だが、リーナは違った。
激安品で品質には問題がない得な品ばかりを扱う購買部を考えた。
新しい購買部の必要性を感じているのは単に利便性のためだけではない。
後宮の者達が抱える借金をなくせるよう助けたいと思っているからだ。
勿論、借金がない者にも益がある。
出費を抑えることができ、手取りが残りやすくなるはずだ。
つまり、給料を上げることなく給料が上がったのと同じ効果を狙える。
私には思いつかない……。
まさにリーナが後宮で働いていたからこそ、借金があったからこその発想だとクオンは思った。





