852 思わぬ事態
ヴェリオール大公妃の間から退出した宰相は多忙な予定をこなしていた。
昼食は国王と国王首席補佐官のエドマンドの三人で昼食を取りながら話し合い、午後からは国王の側近会議。
続いて宰相府の会議。
王族会議の内容を受け、国王やその側近達と話し合ったことを宰相府として検討し、夕方から行われる大臣会議に備える必要があった。
宰相の側近は指示に応じて調査及び報告書と資料作成、大臣会議で配布する書類も用意しなければならない。
月曜日は王宮の官僚全てが多忙極まりない状態になるのは事前にわかっていたことだけに、それぞれができる限りの下準備はしていた。
それでも予定を次々こなすのが精いっぱいで、時間がかかることについては後回し。すでに残業は確定だ。
懸念材料は多くある。だが、いつものことだ。問題がない時などない。
これまでに数えきれない難題と仕事をこなしてきた宰相だけに、会議をこなしながら頭の中で様々なことを考え続けていた。
だが、突然ノックの音が響く。
ドアを開けたのはエッジフィール伯爵グレゴリーだった。
「会議中失礼致します。宰相閣下に緊急の報告があります」
「入れ」
宰相は入室の許可を出した。
グレゴリーは元宰相府の官僚で、その優秀さを買われ国王府に転属した。
現在は国王府の官僚であるものの、宰相の部下の一人といってもいい。
「何だ?」
「後宮で問題が起きました」
宰相はため息をついた。
午後、ヴェリオール大公妃は後宮に移動し、正式な挨拶を受ける予定になっている。
グレゴリーはそれに同行していた。
つまり、ここに来たということはその際に問題が起きたということだ。
早速過ぎる!
宰相は心の中で唸った。
「こちらを」
グレゴリーがメモを見せた。
それを読んだ宰相は驚愕の表情になり、思わず立ち上がった。
「緊急用件が発生した! 国王に謁見する!」
首席補佐官とヴェリオール大公妃付きになった側近トール男爵が同行を命じられた。
王家に関わる重大事件だと察した宰相の側近達は即座に緊急事態に対処するためにすべきいくつかのことを頭の中で思い浮かべる。
宰相はグレゴリー達を引き連れ、国王の元に向かった。
謁見はすぐにできた。
宰相の行く手を阻む者はいない。護衛騎士達も完全に黙認だ。
しかし、部屋には先客がいた。
王太子だ。第二王子までいる。その側近達も。
「遅かったな」
クオンから声をかけられた宰相は思わず自分の元へ来たグレゴリーを見た。
「緊急事態と判断し、まずはレーベルオード子爵に話しました」
グレゴリーは同じくヴェリオール大公妃付きの側近で友人でもあるパスカルに話した。
パスカルは王太子兼第四王子の側近でもある。
当然、王太子に伝わる。その側近にも。
元々、側近で同行していたのはグレゴリーだけだが、側近補佐達が同行していた。
その者達が手分けして伝えれば、国王府、王太子府、王子府、宰相府に素早く伝わる。
だが、側近補佐が報告するのは上司であるトール男爵であって宰相ではない。
宰相への緊急用件ではないからこそ、会議中に伝えることができなかった。
結果として、遅れを取ってしまったのだ。
「後宮の件で来たのだろう?」
「そうだ。不正と思われることが発覚した。現時点では情報だけで、詳細については調査が必要だということだった」
ヴェリオール大公妃に同行していた後宮長等の役職者及び後宮の警備については任意の事情聴取をするため王宮に来ていることもメモに記入されていた。
「今回は後宮だけのことではない。商人が関わっている。一人ではなく複数の商人に対しても同じような嫌疑がかかるだろう。そうなれば、後宮を揺るがす大事件になるかもしれない」
宰相は頷いた。
そして、後宮を揺るがす大事件になった場合は、この件を理由に後宮を閉鎖できるかもしれないと考えてもいた。
「もし王宮でも同じようなことが行われているのであれば、エルグラード史に残るような汚職事件になるかもしれない」
王宮もだと?!
宰相の明晰な頭脳はその瞬間に動き出す。
王太子の指摘通りになれば、王宮は大惨事。間違いなく国政に影響が出る。
王家への大ダメージになるばかりか、国民の支持にも影響が出るかもしれない。
どこまで情報を公開するかにもよるが、国内外の反応や経済・外交等への影響、ありとあらゆることに注視しなくてはならない。
宰相自身も責任を問われる可能性が極めて高い。
後宮を閉鎖することで国政の予算が増えるなどと考えている場合ではなかった。
「優秀な宰相を失いたくはない。私も婚姻したばかりの妻が不祥事に巻き込まれ、大いに悲しませるようなことにはしたくはない。何よりも、王宮と後宮を所有しているのは国王だ。国王の威信を傷つけてはならない。わかるな?」
「無論だ」
「まずは内密に調査する。不正であれば今度こそ厳重に処罰するが、この件を理由に後宮の閉鎖はしない。無用な飛び火を防ぐためにはやむを得ない。だが、王宮においても同じような不正行為がないかどうかの内部調査はする」
王太子は後宮における権限がない。だが、この件は後宮内だけで済むとは限らない。
国政、王家や国の威信にかかわることを考慮すれば、当然のごとく口を出してくる。
後宮を邪魔に思っている王太子であっても内密の調査を指示するということは、それだけ強く警戒している証拠でもある。
現時点における慎重な対応については、宰相も適切だと思った。
むやみに公表すれば大混乱を招くだけでなく、関係者が証拠隠滅に動く。情報が足りない。不正であることを完全に証明する証拠が必要だ。
「宰相が指揮を取れ。但し、この件が発覚したのはリーナのおかげだ。不正が事実であれば、後宮統括補佐として早速功績を立てたことになる。褒賞ものだ。給与も考慮しなければならない」
「給与はない。試用期間だ」
「炊き出しの件で手を打つのはどうだ? 聞いたのだろう?」
宰相の表情が動いた。
王太子が炊き出しの件で取引を提案するとは思ってもみなかった。
この時期であれば、予算のことを交渉材料にする。
「公務にはできない」
すぐには飛びつかない。
「個人主催だ。費用は私が出す」
「婚姻したばかりだ。早急過ぎる。賛成できない。後宮に問題が起きた以上、大人しくしているべきだ」
「匿名での主催でもいいと言っている。少し位は融通を利かせろ。リーナが炊き出しの材料を検討するために視察したからこそわかったことだ」
その情報は初耳だった。
「リーナを慕う者達による情報提供でもある。手柄を横取りする気か?」
「ヴェリオール大公妃は後宮の者達に慕われているのか?」
「昔の職場だ。知り合いがいる。今後も有益な情報を提供してくれる可能性は高い」
宰相は反論できなかった。
今でこそリーナはヴェリオール大公妃だが、元平民の孤児として下働きから召使になり、侍女見習い、王族付き侍女になった。
その時々に交流した者達から、様々な情報を得られる可能性は高い。
「何の相談もなくリーナを後宮統括補佐に任命したことについては父上に抗議した。だが、適任かもしれない。任命早々これほど重大な情報を入手してくるとは思わなかった。炊き出し位構わないではないか」
王太子の言い分は最もだと思いながらも、宰相はすぐに思いとどまる。
王太子は妻を寵愛している。この件がなくても同じように炊き出し位構わないと言って来るに決まっていた。
突然湧いて出た交渉材料を逃さないとばかりに活用し、この件に乗じて賛同を得ようとしているだけでもある。
「ヴェリオール大公妃には多くの注目が集まっている。慎重に検討すべきだ」
「リーナはずっと従う者だった。自分のしたいことができるような立場でもなければ環境でもなかった。だが、これからは違う。自分のしたいことをしていけるようになる。リーナが最初に選んだことは王太子の妻としての贅沢な生活を享受することではなく、貧しい人々への支援だった」
冬という季節だからこそ、リーナは自身の経験を元に貧しい人々が困窮する時期に炊き出しを催したいと考えた。
「匿名でもいいということは、自らの名声を高めるためではなく、純粋に慈善活動をしたいことをあらわしている。その気持ちを無下にしたくない。出鼻をくじくようなことをすれば、今後の公務だけでなく全ての活動において悪影響が出る可能性がある」
「炊き出しを許可しておけば、案を練るために大人しくしているのでは?」
エゼルバードの発言は王太子の肩を持つものだ。
確かにどのような催しにするかといったことを考えなくてはならない。
開催時期も近いことから、余計な行動を抑止する効果が期待できる。
「予算を含め、王太子が責任を持つのだな?」
「当然だ」
「わかった。では、炊き出しの件については匿名であれば問題視しない」
「ついでに寄付をしてくれないか?」
宰相は目を見張った。
「王太子が出すと言ったではないか!」
「費用は出す。だが、寄付は受け付ける。リーナはラブに相談するだろう。だが、ラブも自由な金は少ない。父親として小遣いを渡してやったらどうだ? 兄は何もしないのか?」
クオンがセブンに声をかけた。
その場にいた者達は驚愕するしかない。
王太子が自分の側近にしたいと思って相当な期待をかけていたにもかかわらず、すぐに王太子府を去ったセブンに腹を立てていたのは全員が知っている。
王太子がセブンを許すことは一生ないかもしれないと思われていた。
だが、ついに変化が訪れた。万年雪が溶け始めたかのような衝撃だ。
「小遣いとして一万。寄付は別に一万出す」
セブンは淡々とした口調で答えた。
「誰が最高額かを競い合うのは醜いので、上限を一万に設定することになりました。側近だけでなく友人達にも順次伝えるので、かなりの額が集まるでしょう」
エゼルバードの側近や友人達は裕福だ。金払いがいい者達ばかりともいう。
一万ギールはそれこそはした金だ。
「まさかエルグラードの宰相が一万も出せないなどということはないでしょうね? 聖夜の結婚費用は大してかからないではありませんか」
昨日話したばかりのことがすでに伝わっている。
情報源がセブンであることは間違いなかった。
「わかった。小遣いとして一万、寄付で一万出す」
「息子と同額というのは父親としてどうなのでしょうね?」
「宰相の給料を増やしてやったらどうだ?」
「ラーグは謙虚だ。宰相としての給与を上げることに反対する。できるだけ統治予算に回して欲しいと言うため、宰相の機密費を上げている」
謙虚ではない。狡猾だ。
クオンとエゼルバードを始め、側近達もそう思った。
だが、それを指摘する場面ではない。
「私は非常に忙しい。すぐに戻って会議を再開しなければならない。十九時から二十時は夕食だ。その間は招集に応じない」
リーナとの夕食時間を邪魔するなということだ。
「この件の監査はエゼルバードに任せる。報告は忘れるな」
「わかりました」
「王太子府における担当は王子府も関わることを考えてパスカルにする」
「御意」
「父上、今度ばかりはしっかりと調査させろ」
「わかっている」
「それから寄付についてだが、直接リーナに伝えるか渡して欲しい。必ず喜ぶだけでなく、大いに勇気づけられるだろう」
国王の表情がパッと明るくなった。
リーナと会う予定をいれなければと考えたのは言うまでもない。
「行くぞ」
クオンはそう言うとヘンデルやキルヒウスを始めとする他の側近達を連れて部屋を出て行った。
王太子府における会議を再開させるためだが、後宮で発生した問題に対する指揮、監査、王太子府の対応役についてはしっかりと決定、通達している。
妻への手土産も忘れない。
炊き出しの許可はリーナを大いに喜ばせる。
上限付きの寄付を募っているのは活動資金を集めるためではない。多くの人々がリーナを支援していると感じさせ、勇気づけるためだ。
クオンは優秀な王太子だが、妻を笑顔にすることも忘れない良き夫であることもまた証明されることになった。





