825 初夜の儀式
入浴後のリーナはすっかり目が覚めていた。
「凄く豪華なバスローブですね」
「儀式用の特別なローブです。バスローブではありません」
寒い場合に備えて厚手の生地でできたガウンも用意されていたが、リーナは着用しなかった。
部屋はいつもより温められている。
衣装部屋へとつながるドアと居間へとつながるドアも開けたままだが、寒くはない。
「寝台の中央でお待ち下さい」
リーナは部屋履きを脱いでベッドの上に上がった。
その後は特にすることもない。
リーナは侍女長のレイチェルと話すことにした。
「衣装部屋のドアは閉めていいのでは?」
「王太子殿下は衣装部屋の方からお見えになられます。居間へ続くドアは侍女が下がる際に閉めます」
「クオン様は衣装部屋の方から来るのですか?」
「はい。これからは今まで使用していた廊下や部屋を通らずに王太子殿下とリーナ様の部屋を行き来できるようになります」
通常は廊下から騎士や侍女達がいる控えの間や居間を通って寝室に入る。
しかし、夫婦になると互いの衣装部屋をつなぐ私的な廊下が利用できるようになることが説明された。
「見てみたいです」
「今夜はお控えください。王太子殿下を寝室で待つことになっております。廊下で鉢合わせをするわけにも、慌てて戻るのを見られるわけにもいきません」
「はい」
リーナは頷いたものの、頭の中は私的な廊下への興味でいっぱいになってしまった。
「どんな廊下ですか? 狭いのですか? 灯りは? 絨毯は敷いてあるのでしょうか?」
「……約二人分の幅です。灯りはありません。床は大理石で絨毯も敷いてあります」
「だとしたら、ドアを閉めた途端真っ暗になってしまいますよね?」
「衣装部屋が明るければ、廊下も多少は明るくなります。透かし彫りのドアですので」
「透かし彫りのドア? 衣装部屋にありましたか?」
リーナは衣装部屋に入ったことが何度もある。
透かし彫りのドアを見た覚えはなかった。
「壁に備え付けられた大きな鏡があるのをご存じのはずです。ドアがあるのはあの後ろです。これまではドアを利用できないように、非常に大きな鏡で覆っていました」
「あそこでしたか!」
衣装部屋の壁には非常に大きな鏡が備え付けてある。
全身を見ることができるようなものだが、幅だけでなく高さもあった。
いくら長身でもあれほど高くある必要はないとリーナは思っていたが、ドアを覆っていたせいであることが判明した。
「でも、あれは壁に備え付けられていますよね? 取り外す工事をしたのですか?」
「工事は必要ありません。鏡の後ろには複数の突起があります。それを透かし彫りのドアにはめ込み、廊下側から外れないように棒をつけます。そうすると、いかにも壁に備え付けているかのような鏡に見えます」
「すごいですね! それなら工事をしなくても大丈夫ですね!」
ドアの位置は分かった。
リーナの興味はまたしても廊下に戻る。
「どの位の長さがある廊下ですか? まっすぐなのですか?」
「直進です。数歩分しかありません」
王太子の寝室の隣にある衣装部屋とリーナの寝室の隣にある衣装部屋は隣り合っている。
通常はドアをくぐれば移動できる。廊下はない。
だが、衣装部屋には壁の中に埋め込まれた造り付けのクローゼットがある。
そのせいで壁の厚さが分厚くなり、隣同士であっても行き来するには双方のクローゼットを合わせた長さのある場所、つまりは廊下を通る必要があった。
「クローゼット二つ分の奥行きしかない廊下です」
「クオン様なら一瞬で通り抜けてしまいそうです」
「リーナ様でもあっという間です」
「明日確認します! それからその廊下ですけれど」
時間つぶしの会話が続いた。
「王太子殿下がお見えになられます」
ついに先触れが届いた。
侍女達も緊張したが、リーナはそれ以上に緊張した。
クオンが姿をあらわす。
どのような姿で来るのかを全く想像していなかったリーナだが、見た目はゆったりとしたローブとガウンを着用していた。
部屋履きは布素材で、衣装と同じような刺繍が施され、宝石までついていた。
クオンがブーツ以外の靴を履いているのを初めて見たかも……。
リーナがそう思っているうちに。クオンはリーナの側へ来た。
侍従のコリンとラビリス、護衛騎士のクロイゼルとアンフェルが同行している。
コリンは金と銀の杯が乗った盆を手にしていた。
……特別な飲み物を飲むので儀式というのかも?
リーナが考えている間にもクオンはベッドの端に腰かけた。
だが、何も言わない。リーナと目を合わせようともしなかった。
その間に同行した護衛騎士、クロイゼルとアンフェルがリーナの寝室だけでなく、寝室からつながる洗面室や浴室等まで安全かどうかを確認した。
「王太子殿下、確認が終わりました。問題ありません」
クロイゼルが報告すると、クオンは控えている侍女達に顔を向けた。
「私が退出するまで寝室と衣装部屋は王太子の部屋の一部と見なされる」
どこまでが王太子の部屋でヴェリオール大公妃の部屋かは基本的に割り振りが決まっており、その割り振りに合わせて人員や担当が配置されている。
ヴェリオール大公妃の寝室はヴェリオール大公妃の部屋であるため、部屋の主はヴェリオール大公妃。
一時的に国王や王太子が来たとしても、部屋の主はヴェリオール大公妃のままで変わりない。
しかし、夫である王太子が泊ることを宣言した場合、ヴェリオール大公妃の寝室は王太子の寝室になる。
正確に言えば王太子の寝室の奥にあることから奥の寝室という名称になり、王太子が滞在している間はヴェリオール大公妃の寝室ではなくなる。
その場合、奥の寝室の担当は侍従になる。侍女は補助的な担当者になる。
そうなるとヴェリオール大公妃付きの侍女は勝手に入室できないというのがルールだった。
「入室するには私か侍従の許可が必要だ。わかったな?」
「かしこまりました」
レイチェルが答える。
「侍女は下がれ。鍵を閉める」
侍女長以下控えていた侍女達は一礼すると居間に続くドアから退出し、侍従が内鍵をかけた。
寝室にいるのはリーナ以外男性ばかりになった。
「リーナ、ここへ」
「はい!」
ベッドの上に座っていたリーナはいそいそとクオンの側へ移動した。
「これは儀式の前に飲むものだ。私の金の杯はワインだが、お前の銀の杯はブドウジュースだ。一気に全部飲むように」
「わかりました」
コリンが恭しく盆を差し出す。
リーナとクオンはそれぞれの杯を手に取った。
「夫婦の証として」
二つの杯を軽く合わせた後、それぞれ中身を一気に飲み干した。
「お前達も下がれ」
「御意」
コリンとラビリスが一礼すると、衣装部屋につながるドアの方から退出し、続いてアンフェル、最後にクロイゼルが退出した。
「リーナ」
「はい!」
いよいよ二人きりである。
リーナの胸はドキドキして止まらない。
「少し話をする」
いきなりではないことにリーナは少しほっとした。
クオンは靴を脱ぐとベッドの上へ上がった。
「今日は朝から大変だった。疲れただろう。だが、教えておかなければならないことがある。眠くないか?」
「眠いですけれど、大丈夫です」
クオンは真剣な表情でリーナをまっすぐに見つめた。
「私たちは婚姻した。側妃のお前を正式な妻ではないと言う者がいるかもしれないが、それは間違いだ」
エルグラード法では一夫一妻制。婚姻している状態で別の者と婚姻した場合、二度目の婚姻は無効になる。
しかし、王族法では一夫多妻制。婚姻している状態で別の女性と婚姻しても有効になる。子どもも婚外子にならない。
クオンの妻はリーナしかいないため、エルグラード法においても王族法においても正式にクオンの妻である状態。
また、ヴェリオール大公妃は側妃において最高位の称号になる。
国王の側妃たちを年長者として敬う必要はあるが、リーナは王家において王妃に次ぐ序列第二位の女性になることが説明された。
「私の正式な妻として胸を張って欲しい。そして、側妃は公の場から距離を置きやすいのもあり、勉強や子どもと過ごす時間を多くできる利点もあることも知っておいてほしい」「はい」
「今一度言わせて欲しい。心から愛している。私の妻になったからといって、無理に自分を変える必要はない。自分らしくありのままでいてほしい。そして、私をただ一人の男性として愛してくれる女性でいてくれればいい。それが私の望みだ」
クオンは優しく甘く微笑んだ。
「ようやくだ。望みが叶った。幸せだ。この幸せをお前と分け合い、二人で幸せになりたい」
二人の唇が重なった。
いかに愛しているかを伝えるかのように、その口づけは深く強かった。
次回からは第八章で、翌日のお話になります。
またよろしくお願い致します!





