800 婚姻の儀式
クオンはただまっすぐにリーナを見つめていた。
自らが懸命に考え抜いて作らせたウェディングドレスを身にまとったリーナはどこから見ても世界一美しい花嫁であり、神が遣わした聖女のように思える。
誰よりも愛していることを伝え、その美しさを至上のものとして褒め称えたい気持ちが膨れ上がった。
だが、リーナに声をかけることはできない。
儀式は形式通りに神聖さを保ちつつ執り行われるだけでなく、その一言一句までもが重視されるのだ。
ここから先はクオンとリーナで歩く。
聖壇へ向かうだけでなく、輝かしい未来と幸せへ向かって進むということだ。
エスコート役がクオンに替わり、二人の手が触れあった瞬間、その心は喜びで溢れた。
クオン様の元に着いたわ!
この時を待っていた。ようやくだ。
クオンの特別な礼装姿はエルグラード王太子に相応しく豪華なもので、これまでリーナが見て来たクオンの中で最も神々しく気高く美しい姿のように感じられた。
真剣な表情がより高貴な血筋と気品を感じさせる。
信じられないほど素敵過ぎて震えてしまいそう……私がもっと綺麗だったら良かったのに。
リーナはそう思ったが、クオンにとってリーナは誰よりも美しい存在だった。
絶世の美女である必要はない。その心、相手を包み込むような優しさと温かさがリーナを誰よりも美しく魅力的にしているのだ。
二人の歩みは止まらない。
リーナはクオンによって聖壇へと導かれた。
「これより、婚姻の儀式を始めます」
婚姻の儀式を進行役として選ばれた大神官が厳かに宣言した。
まずは王聖堂にいる全ての者達による聖歌斉唱。
これから行われる儀式を見届ける神を崇め、儀式の行われる聖域を浄化して悪しきものを追い払う意味がある。
神官による聖書の朗読と祈祷。
王聖堂に祀られているエルグラード守護神の神官が、婚姻に相応しい内容を聖書から抜粋して朗読する。
愛の素晴らしさと困難にくじけることなく信念を貫く尊さの話が披露され、エルグラードの守護神への祈りがささげられた。
そして、誓約。
神の前で夫婦になることを大神官が尋ね、花婿と花嫁が誓う。
婚姻の経緯や事情によって誓約の言葉は数種類の中から選ぶことができ、細かい部分については本人や両親等の意向によって変更することもできるため、クオンが誓約の言葉をどうするかを決めていた。
「エルグラード王太子でありヴェリオール大公であるクルヴェリオン王子殿下、リーナ・レーベルオードを喜びの時も悲しみの時も、健やかなる時も病める時も、妻として愛し貞節を守ることをエルグラードの守護神にして王家の守護神の御前で誓いますか?」
「誓う」
クオンは迷うことなく答えた。
だが、この言葉は多くの者達にとって驚きの内容だった。
王家の婚姻は必ずしも愛し合う者達によるものとは限らない。また、エルグラード王家の男子は一夫多妻制でもある。
それゆえに、誓いの言葉は妻にするかどうかだけを誓い、愛や貞節を誓うことはない。
だが、クオンはリーナを心から愛し、唯一の妻とすることを決めているからこそ、あえて誓いの言葉に愛と貞節という言葉を取り入れた。
今後、神の御前で誓約したことを破ることはできないという理由をつけ、別の女性との婚姻を望む声を牽制するためでもあった。
「リーナ・レーベルオードはエルグラード王太子でありヴェリオール大公であるクルヴェリオン王子殿下を喜びの時も悲しみの時も、健やかなる時も病める時も、夫として愛し貞節を守ることをエルグラードの守護神にして王家の守護神の御前で誓いますか?」
「誓います」
リーナもまた同じく迷いはない。
クオンのことを愛し、貞節を守る気持ちが変わることはないと確信していた。
そして、この誓いの言葉もまた驚くべきものだった。
通常は夫を敬い、従うという言葉が入る。
妻よりも夫の方があらゆる意味で上になり、妻はどんな時も夫に従順であることを誓うのだ。
だが、その言葉はクオンの意志によって取り除かれた。
クオンはリーナの上に立ちたいとも、妻を完全に服従させたいとも思っていない。
一人の男女として手を取り合い、互いの意志を尊重しながら共に人生を歩いていきたいという想いがあるからこその判断だった。
「神の御前で誓約した二人は夫婦になりました。そのことを示すため、結婚指輪を身につけます。指輪をここへ」
エゼルバードは結婚指輪をリボンで留めたリングピローを神官が差し出した黄金色の盆に置いた。
それが花婿の元へ届けられる。
「こちらがお二人の結婚指輪です。夫から妻への贈り物でもあります。どうぞ」
クオンは指輪を一つ取ると、自らの左薬指につけた。
これはクオンが婚姻を結んで夫になること、妻を持つことを受け入れるという意味がある。
「リーナ、左手を」
リーナは言われた通り、左手をクオンに差し出した。
クオンはその手を取って支えると、薬指に黄金色に輝く指輪をつけた。
「夫であること、妻であること、そして、夫婦であることを大切に。二人に神の祝福があらんことを」
クオンはリーナのウェディングベールを持ち上げた。
口づけの場所は好みの場所でいい。額でも頬でも、ウェディングベールでも。
すでに場所は決めてある。
クオンは迷うことなくリーナの唇に口づけた。
心からの愛をあらわし伝えるために相応しい唯一の場所として。
その感触にリーナの体が震える。
クオンとの口づけは初めてではない。だが、今している口づけが特別なものであることは間違いなかった。
クオンと夫婦になったのだという想いが全身に駆け巡っていく。
クオン様……。
リーナは気づかなかった。誓いの口づけが明らかに長すぎるということに。
一方でクオンは口づけをしながら、この先に何があろうとも決してリーナを離すことはないと心の中で神に誓っていた。
なかなか終わらない口づけに、神官達は内心焦った。
もしかすると王太子はわかっていないのかもしれないという不安に駆られ、儀式を進行する大神官は意を決し口を開いた。
「神は見届けられました」
口づけが終わる。
しかし、リーナから身を離そうとしたクオンはすぐに止まり、もう一度身を寄せると額に優しく口づけた。
いかに妻となった女性を愛しているかがわかりやすい。口づけが長くなった理由もまた。
それほどまでに強く愛する女性との婚姻を王太子が完遂する目前まで来ていること、その瞬間を目の前で見届けるばかりか取り仕切ることができることに、大神官は心からの喜びと栄誉を感じた。
「婚姻誓約書に署名をします。婚姻誓約書をここへ」
婚姻誓約書を持っているのはレイフィールだ。
結婚指輪と同じように、神官が差し出した黄金色の盆に置かれて運ばれる。
また、黄金色の小さな署名台とペンも用意された。
「上に王太子殿下の署名をお願い致します。花嫁は下です」
まずはクオンが署名をする。
続いてリーナの番になる。
いよいよだわ……。
婚姻誓約書への署名は間違ってしまっても構わない。後でもう一度綺麗に清書したものと差し替えればいいだけだ。
但し、明らかな間違いがあり差し替えるべきだと判断されるようなものでなければそのままになる。あまりうまくかけなかったなどの理由は認められない。
リーナ・レーベルオードという名前であれば、これまでに何度も署名をしたことがある。
しかし、リーナの名前は変更されていた。
出生時の名前がリリーナであること、本人がリーナという名前に愛着を感じていることを考慮し、婚姻前に改名手続きが行われた。
リーナ・リリーナ・レーベルオード
それが全名であり、エルグラード王太子クルヴェリオンの妻になる女性の正式な名前になった。
ペンを手にしたリーナはゆっくりと婚姻誓約書へと手を伸ばす。
上にクオンの署名がある。
クルヴェリオン以外の名前もあって長いということはわかるが、読めないほどに崩れている。
偽造を防ぐため、あえて王族は署名をしっかりと書かない。
独特の署名にすることで、本人でなければ書かないようなものにするのだ。
署名を見たリーナは小さな笑みを浮かべた。
クオン様の署名って……最初の方しか読めない!
リーナはきっちりと署名した。
誰もが美しいと感じ、完璧に識別できると思うような筆跡で。
リーナ・リリーナ
この名前と共に、リーナの新しい人生が始まる。
大神官は二人の署名を確かめる。
王太子の署名は最初の方以外はほぼ読めないが、問題はない。
「婚姻誓約書への署名が無事なされました。夫婦となった二人に盛大な拍手を!」
広々とした王聖堂の隅々まで届くようなとてつもない拍手が響き渡る。
その拍手を受けるのは婚姻の儀式を終えた一組の夫婦。
リーナとクオン。
二人の表情には愛と喜びと幸せが満ち溢れていた。





