792 誕生の日
時刻はすでに土曜日。
クオンはベッドの天蓋を見つめていた。
今日は三十歳の誕生日。
三十年前、クオンはこの世に生まれるための準備をしていた。
そして三十年後の同じ時間、クオンは愛する者を妻にするための準備をする。
「おはようございます」
起床時間になると筆頭侍従のコリンが姿をあらわした。
「お目覚めでしたか。あまりよく眠れなかったのでしょうか?」
「寝つきは相変わらずよくなかった。だが、短時間でも深く眠ることができた」
「それは良かったです。今日はとても重要な日ですので。少し早めではありますが、お誕生日を心よりお祝い申し上げます」
「正確にはまだだ。三十歳になるのは正午だ」
クオンは正午に生まれたため、最も強き太陽の加護を受けていると言われていた。
「結婚式は午前中に終わります。二十代ギリギリでかけこみですね」
「その前にも儀式がある。遅延するわけにはいかない」
「どのような状況であろうと国王陛下と王妃様の起床は遅延させず、すぐに支度をさせるようそれぞれの筆頭に伝えておきました」
クオンは起き上がるとコリンの用意した紅茶を受け取った。
「今日は良い天気になるそうです。風もほとんどないとか。ですが、この時間はさすがに冷えます。儀礼服の下は厚手のものにされた方がいいかもしれません」
「温かすぎると眠気が出る。いつものでいい」
「かしこまりました」
クオンは用意された儀礼服に着替え始めた。
「ラビリスはどうした?」
「朝食を用意しています」
「そうか」
クオンは頷いた。
「今日は多くの儀礼服を着用する。衣装に一番うるさい者がいないのは変な気分だ」
「一番うるさいのはエゼルバード様です。ラビリスは後程姿をあらわすかと」
「朝食の用意を放り出してでも確認に駆けつけそうだ」
「朝食の用意は万全です。おはようございます」
ラビリスが姿をあらわした。
「少し早くなりますが、御生誕の日を迎えられ、三十歳になりますことを心よりお祝い申し上げます」
「まだ二十九歳だ」
「昼食会の時に申し上げることはできませんので」
「朝食前に着用しても大丈夫か?」
クオンはすでに朝にある国王への謁見式用の衣装を着用していた。
「その衣装は大丈夫です」
「見覚えのあるデザインだ。結婚式の時に着用する衣装だったような気がする」
「そちらは見栄え不足で不採用になりました。結婚式に着用する衣装はもっと豪華です」
「……見栄えが良くない衣装で謁見するのか?」
ラビリスが納得したことにクオンは違和感を覚えた。
「エゼルバード様の非常に偏った感覚での判断ですので」
見栄え不足だという判断をしたのはラビリスではなくエゼルバードだった。
普段から派手な衣装を好むエゼルバードが駄目出しをするのは容易に想像できる。
「朝の謁見には王家の方々と宰相及び貴族の代表者達しかいません。食事をこぼしてシミつきになってしまったとしても誰も何も言わないでしょう」
「そのような心配は無用だ」
着替えが終わると部屋を移動し、朝食を取る。
時間があるため、急いで食べる必要はない。
クオンは久しぶりにまともな朝食にありつけると思った。
「おはようございます」
朝食を食べていると、パスカルが姿をあらわした。
「早いな。何かあったのか?」
「まずはご挨拶を。王太子殿下が誕生の日を迎えられますことを心よりお祝い申し上げます」
「まだ二十九歳だ」
「お届け物がございます」
パスカルはポケットからハンカチを取り出した。
「包装はしていないのですが、妹から王太子殿下への贈り物です」
クオンは意外過ぎて驚いた。
「リーナから?」
「結婚式の日は王太子殿下の誕生日です。贈り物を用意しなければと思ったらしく、就寝前の時間を使って少しずつ刺繍をしたようです。妻になる前に、婚約者として贈り物をしたいため、朝に届けて欲しいということでした」
「直接会ったのか?」
「いいえ。後宮の侍女から受け取りました」
「持ってこい」
クオンは侍従を通さず、直接受け取ることにした。
先にナプキンで手を拭いて綺麗にした後、パスカルから白いハンカチを受け取った。
「白い刺繍か」
クオンのイニシャルが刺繍されている。白いハンカチに白い糸の刺繍を使っているのが変わっていた。普通は生地と同じ色を避け、目立つ色を使用する。
「返したところにも刺繍があります。イニシャルは白ですが、バラは」
「緑だな」
クオンはすでにハンカチをひっくり返し、イニシャルが刺繍された場所と対角線上にある場所の刺繍を確認していた。
クオンの色が緑であることから、緑色のバラにしたのだと思われた。
そうなると、白と緑の刺繍糸があったことになる。
通常は白い糸でバラを、イニシャルの部分を緑の糸にするのではないかとクオンは思った。
リーナの持つ独特な感性がわかる。
「緑のバラの花言葉を知っているか?」
「希望を持ち得る。穏やか」
リーナらしい花言葉だとクオンは思った。
「一輪のバラは」
「一目惚れだろう? だが、一目惚れではなかったと思うが」
初めて会った時、リーナは自分を怖がっていたとクオンは記憶している。
「あなたしかいない、という意味もあります」
クオンは必死に堪えた。嬉しさでにやけるのを。
だが、全身から溢れ出る喜びを抑えることはできなかった。
「喜んでいただけたようで何よりです」
パスカルは王太子がどう思っているのかをしっかりと見抜いていた。
「本日は様々な予定があり、着替えも多くあります。殿下に直接お渡しできる機会が限られているかもしれないと感じ、このような時間ではありますが伺った次第です。お許しを」
「問題ない。確かに受け取った。とても嬉しい。礼は直接リーナに伝える」
「ではこれで」
パスカルは深々と一礼すると退出した。
「朝一番にこのような素晴らしい贈り物が届くとは。王太子殿下は世界一の幸せ者ですね」
給仕をしながらコリンが微笑んだ。
「そうだな。まさか、誕生日祝いを用意してくれているとは思ってもみなかった」
クオンはリーナと結婚できることが最高の誕生日プレゼントだと思っていた。
だが、それだけではなかった。
愛する者から特別な贈り物が届いた。
「早く会って礼を伝えたい」
「結婚式まで会えません」
「わかっている」
花嫁とは結婚式までは会えない。そういうしきたりなのだ。
馬車による移動時間もしっかりとした時差が設けられている。
「リーナはまだ寝ているはずだ。ぐっすりと眠ることができているといいが」
「朝食を食べて下さい。エゼルバード様が来てしまいます」
クオンはコリンに言われた通り、朝食をまた食べ始める。
「しっかり食べておいて下さい。この後、昼食会まで食事はできません。水は用意致しますが」
「茶は出ないのか?」
「衣装にシミがつくと困ります。水ならこぼしても濡れるだけですので」
「お湯でもいいのか?」
「お湯は危険物です。火傷をすると困るので水だけです」
クオンはミルクティーの入ったカップを手に取った。
その後まもなく、エゼルバードが姿をあらわした。
ロングコートを着用している。
「おはようございます」
「おはよう。体調は大丈夫か? 無理をする必要はないが」
「最近は多忙につき、早起きを心がけています。兄上こそ体調はいかがでしょうか?」
「問題ない。朝食は食べたのか?」
「チョコレートケーキを食べました」
非常にエゼルバードらしい朝食だった。
「ラビリス、外はかなり寒いのでコートを用意しておきなさい」
「ご用意しております」
「では行くか」
クオンは席を立った。
ラビリスがコートを持って来る。
それを見たエゼルバードは眉をひそめた。
「随分地味ですね」
「庭に行くだけですので」
「花嫁への特別な贈り物を用意しに行くのですよ? 相応しい装いでなければいけません」
「目立たない装いの方が警備面の都合もよろしいかと」
「護衛騎士がいれば誰だかわかります」
「時間が遅くなる。行くぞ」
クオンはエゼルバードと護衛騎士達を連れて庭園へと向かった。





