791 覚悟を決めて
金曜の夜。リーナは後宮にいた。
「リーナ様、無理はされませぬように」
ヘンリエッタが優しく気遣うように声をかけた。
「大丈夫です。もう少しですから。できれば、待っていてくれませんか?」
「わかりました」
早めに就寝支度をしたものの、リーナはすぐに寝る気はない。
一時的に帰宅した際にレーベルオード伯爵家から持ってきた刺繍セットを用意し、ハンカチに刺繍を始めた。
ほとんどの部分は終わっているため、もうすぐ仕上がる。
リーナは何がなんでも今日中に仕上げるつもりだった。
一針ずつ、慎重に布に通しては引いていく。
できた!
嬉しさが溢れる。しかし、まだ気は抜けない。
結び目が上手く隠されているかどうかを確認し、更にもう一度全体を確認する。
大丈夫そうに見えるけど……。
リーナはヘンリエッタを呼んだ。
「いいですか?」
「何なりと」
「完成したのですが、おかしいところがないか確認して下さい。絶対に本当のことを教えて下さい。今ならまだやり直す時間があります」
ヘンリエッタはリーナから手渡されたハンカチをしっかりと検分した。
「……刺繍は問題ないと思うのですが」
「それは他に問題があるということですか?!」
リーナは真剣な表情で尋ねた。
「これは王太子殿下への贈り物では?」
「そうです」
「刺繍枠は取るとして……このままではシワシワですし、下書き部分もほとんど隠れてしまっているとはいえ残っている状態です。一度綺麗に洗濯すべきでは?」
リーナは自分が大切なことを見落としていたことに気付いた。
婚姻日までに刺繍を仕上げることばかりを考えていたため、洗濯するために必要な時間を考えていなかった。
昨日の時点で気づいていれば、就寝時間を遅くしてでも仕上げるか、早起きして仕上げるという手もあった。お茶の時間を刺繍時間にしても良かったと今更ながらに思い浮かぶ。
「時間が……」
リーナは侍女として働いていただけに、洗濯物がどのように扱われるのかを知っていた。
クリーニングカウンターはまだ開いている。
しかし、洗濯業務は夕方で終わってしまうため、今の時点で洗濯物を出しても翌日分にまわされてしまう。すぐに洗濯されることはない。
朝一番に洗うとしても、乾くまでに時間がかかる。仕上がるのは午後になると推測した。
「明日の朝に渡そうと思っていたのに……」
「朝ですか?」
ヘンリエッタは眉をひそめた。
「ご説明があったと思うのですが、王太子殿下に会えるのは王聖堂です。しきたりがありまして、結婚式の前に会うことはできません」
王宮の部屋はクオンの部屋のすぐ側だ。結婚式の当日、聖堂に着く前に王宮で顔を合わせてしまう可能性がある。
そこで、リーナは午後になってから後宮に移動し、独身最後の夜を過ごすことになった。
「わかっています。でも、結婚する前に渡したかったのです。私はこれまでに色々なものを贈っていただきましたけれど、クオン様には何もお返しできていないというか……せめて、誕生日プレゼントとしてハンカチを渡そうと思って。お兄様か伝令に託せばいいですよね?」
「婚姻の贈り物ではなく誕生日の贈り物でしたか」
寝る前の時間を使い、リーナがハンカチにイニシャルと緑のバラの花を刺繍していることをヘンリエッタは知っていた。
刺繍の柄を考えれば、王太子への贈り物に間違いない。
土曜日までに仕上げるつもりだとは思っていた。
午前中は結婚式があり、その後は国王主催の昼食会がある。
しきたりによって結婚式の当日は聖堂で初めて花婿と花嫁が会うようにしなければならないこともあり、贈り物を渡すのは午後になるだろうと思っていた。
王太子の誕生した時間は正午であることから、それ以降に渡すのが普通であるようにも思える。
但し、それだと未婚の状態ではない。結婚式が終わった後になるため、夫婦になっている。
「結婚して最初の贈り物ということでいいのでは? 直接お渡しできます」
「これから先、妻として贈り物をする機会は何度もありますけれど、婚約者として贈り物を渡せるのは最後だと思って……でも、仕方がないです。この時間から洗濯して欲しいとは言えません」
「いいえ。きっと大丈夫です。緊急だと伝えれば洗濯して貰えると思います」
リーナは首を横に振った。
「駄目です。洗濯部は朝が早いので、夜間の残業はしません。一度受けてしまったことがきっかけで、夜間の洗濯が常習化しないように徹底しているんです。そこで、私が洗います」
私?! それはつまり……リーナ様が?!
ヘンリエッタは自分の耳がおかしくなったのではないかと感じた。
王太子の婚約者が自ら洗濯をするなどありえない。
「洗濯用の石鹸を持って来てくれますか? それと、朝一番にアイロンを使用したいので、洗濯部に行きます。先にそのことを伝えておいて下さい」
聞き間違いではなかった。リーナは自分で洗濯する気だった。
ヘンリエッタは返事ができなかった。
洗濯部が夜間の洗濯をしないと知っているのであれば、普通は諦める。
朝一番の洗濯物にまわし、仕上がったらすぐに届けるようにという指示を出す。午後には確実に届くため、昼食会の後で渡すことにする。
侍女に洗濯させる方法もある。何がなんでも朝までに仕上がるように命令すればいい。
ところが、リーナの選んだ方法は自分で洗うというものだった。
今から洗えば、部屋干しになったとしても朝には乾く。薄いハンカチなら余裕だ。朝、洗濯部に行ってアイロンを使用すればいい。当初考えていた通りの時間に仕上がると考えたのだ。
「……取りあえず、洗濯部に頼んでみてはどうでしょうか? 無理だということであれば、私達の方で洗濯しますので」
リーナはじっとヘンリエッタを見つめた。
「正直に言ってもいいですか?」
ヘンリエッタは一瞬ドキッとしながらも頷いた。
「勿論です。何でもおっしゃってください」
「ヘンリエッタは洗濯の仕方を知っているのですか?」
洗濯の仕方?
ヘンリエッタはなぜ、そんなことを聞かれるのかわからないと感じた。
洗濯の仕方は知っている。石鹸でこすって汚れを落とし、水でゆすいで綺麗に洗い流す。その後はよく絞って水気を取り、風通しがいいところに干せばいい。
「知っています。石鹸で洗って干すだけです。その程度のことは知っています」
「何回洗濯したことがありますか?」
「えっ?!」
ヘンリエッタはすぐに答えられなかった。数えたことなどない。
そもそも、リーナが考えている洗濯がどのようなものであるかがあいまいだ。様々な種類の洗濯物がある。
服ということであれば一度もないが、ハンカチを水で洗ったことは複数回ある。
「……専門の者でなければ駄目だということでしょうか?」
「私は後宮で働いていました。だから、知っているんです。ヘンリエッタは後宮の生活において洗濯を一切しないはずです」
後宮の侍女は上位に相応しい仕事しかしない。管理や接客が主な仕事になる。
水仕事は一切しない。そういった仕事は全て召使いが担当する。
「侍女の中には貴族出自ということもあり、人生で一度も洗濯をしたことがない者がいることも知っています。でも、私は洗濯の仕方を知っていますし、経験もあります」
リーナは孤児院で様々な仕事をしてきた。勿論、洗濯も。
後宮に就職したばかりの頃は掃除部に所属していたが、同室の者は全員が掃除部だったわけではない。
食堂や浴場、業務時間にも別の部署の者達に会う。その際に、ちょっとした会話として様々な知識を得ていた。
「ただ洗って干すだけでは駄目です。特に、刺繍のある洗濯物は気を付けないといけません」
洗い方が悪いと刺繍された部分を駄目にしてしまう。ほつれたり切れたり歪んだりする原因になる。
汚れが酷くない場合は石鹸や布同士を強くこする必要はない。
高級な素材のものほど注意が必要で、石鹸を直接あてるのではなく泡を作って優しくあてるようにして洗う。
色物は最初に洗う時が一番色落ちしやすいために注意しなければならない。
「これは贈り物です。しかも、初めて洗います。色落ちもしやすく、縮みやすいかもしれません。洗濯の時に問題が起きてしまったら困ります。だから、洗濯についてしっかりとわかっている者が担当するべきだと思います」
ヘンリエッタは反論できなかった。
一般常識としての洗濯方法については何となく知っている。しかし、専門の知識があるわけでもなければ、自信を持って洗濯できるほどの経験もない。
洗濯するのは自分のハンカチではない。王太子への贈り物になるハンカチだ。
しっかりとした知識のない者がただのハンカチだとあなどって洗濯し、問題が起きてしまうようなことがあれば、取り返しがつかないことになってしまう。
「だからこそ、私が洗濯します。例え洗うのに失敗しても、自己責任で済みます。洗濯用の石鹸さえ用意してくれれば……あっ、高級素材用のものがあったはずです。液体の石鹸で色落ちしにくいとか。それを洗濯部から少しだけ貰ってきてくれませんか? 上位は洗浄部ですが、伝えてもわからないと言われるはずです。なので、洗濯部に直接行けばいいと思います」
リーナは自分よりもずっと洗濯のことや洗濯部のことについて知っているのだとヘンリエッタは実感した。
ヘンリエッタは高級素材用の液体石鹸があることを知らなかった。洗浄部に伝えて洗濯部から取り寄せればいいと思っていたが、それは間違いだったのだ。
「わかりました。洗濯部の方へ直接取りに行かせます」
「洗濯部の部室は閉まっていますが、カウンターにいる者は洗濯部です。その者に聞くか洗濯部長に言えば手に入ると思います。急いで貰えますか?」
「わかりました」
ヘンリエッタはすぐに待機している侍女に伝えようと思ったが、事情をよく知っている自分が行く方がいいと感じた。
そのため、リーナの側に控えるのは別の者にさせ、ヘンリエッタは贈り物のハンカチを持ってカウンターに行き、洗うのに適した洗剤を貰ってくることになった。
かなりの時間が経った。
リーナはだんだんと不安になった。
そして、ようやくヘンリエッタが戻って来た。
「遅くなってしまってしまい申し訳ありません」
ヘンリエッタは急いで戻って来たことがわかるように、やや息を弾ませていた。
「ご報告申し上げます。洗濯部長に事情をご説明したところ、絶対に失敗が許されない洗濯物だからこそ、専門の者にお任せ下さいとのことです。ハンカチは洗濯部が責任を持って預かり、翌朝のご起床時までに仕上げてお届けするとのことです」
「起床時間までに?!」
「すぐに洗って干し、朝一番にアイロンをかければ間に合うとのことです」
洗濯部長は他にも様々なことをヘンリエッタに説明した。
洗剤は毒物、アイロンは危険物の扱いになるため厳重に保管されている。
指定されている場所以外での使用は禁じられているため、リーナが欲しいといっても部屋に持っていくことはできない。
また、リーナは身分が高すぎるため、洗濯部に来られるのは困る。
リーナがアイロンをかける際に火傷などをしてしまったら、大問題どころではない。
リーナ付きの侍女達や洗濯部全員の命に関わる恐ろしい事態になるのは必至なだけに、洗濯部長は絶対に無理だと主張して固辞した。
結局、洗濯部が請け負うと言っている。任せればいいだけだ。
リーナの言った通り、洗濯部は夜間の洗濯をしないことにしている。だが、過去に一度もしたことがないわけではない。
常習化しないように徹底して拒否することになっているが、緊急事態は別だった。
「それから……洗濯部長はリーナ様のことをご存知でした。かつて、掃除部の者として働いていた頃のリーナ様を」
掃除部長であるマーサがリーナを指導していたため、洗濯部長は召使いだったリーナのことを知っていた。
「リーナ様が王太子殿下の寵愛を受け、後宮に戻られたことは召使いの者達も知っています。非常に驚き、騒ぎになったと」
かつては自分達と同じ職場で働いていた者が突然王太子に寵愛され、側妃になるとわかれば驚くに決まっていた。
「リーナ様はかつて辛い時期を過ごされたことがあったと伺いました。勤勉さゆえに嫉妬され、つまはじきにしようと画策した者達がいたと」
リーナは胸が痛くなり、うつむいた。
「ですが今、洗濯部や掃除部に残っている者達は、リーナ様が王太子殿下の目に留まったことを心から喜び、祝福しているそうです」
本来であれば、平民の孤児であるリーナが王太子の目に留まることは一生ないはずだった。
だが、リーナは目に留まった。
絶世の美女だからではない。有名な学校を卒業しているような賢い女性だからでもない。
真面目で誠実だからだ。一生懸命働いているからだ。それが報われたのだ。
リーナ自身を知っている者達だからこそ、そう思った。
そして、リーナがエルグラード最高ともいえる幸運と幸せを掴んだことは、後宮で働き続ける者達に夢や希望を感じさせるには十分な出来事だった。
「リーナ様に仕える覚悟もできているため、これからは王太子殿下の側妃としてご命令下さいとのことです」
「命令……」
「そうです。私も洗濯部長の話を聞き、深く反省した次第です。リーナ様、どうか遠慮されることなくご命令下さい。皆、リーナ様のご命令を待っています。そのためにここで働いています。仕事をお与え下さい。それが側妃であるリーナ様の務めではないでしょうか?」
リーナ自身が召使いだったからこそ、王太子の側妃という立場がいかに強いものであるかを知っている。
だからこそ、理解できる。洗濯部長やヘンリエッタの言葉が。
覚悟を決めないといけない。私は……側妃になるのだから。
リーナは大きく息を吸って吐いた。
「そうですね。私もしっかり務めを果たさないといけません。これからは王太子殿下の側妃として命令します。それは皆を信頼して任せるということです。そうですよね?」
「その通りです。お任せいただければ、信頼されていると感じます。期待に応えるために励もうと思います。皆、喜ぶのです」
リーナはしっかりと頷いた。
「わかりました。大事なことを最後にしっかりと確認できました。ありがとう、ヘンリエッタ。洗濯部長にも感謝していると伝えて下さい」
「かしこまりました。ところで、ハンカチの方ですが、仕上がったものはすぐにレーベルオード子爵にお届けしてもよろしいでしょうか?」
王太子は朝から国王への謁見がある。
「結婚式前にハンカチを渡すのであれば、できるだけ早くレーベルオード子爵に依頼された方がいいと思われます」
「では、そうして下さい。王太子殿下に誕生日の贈り物として渡して欲しいと伝えて貰えますか?」
「お任せ下さい。ではリーナ様、本日はもうお休みください。しっかりと睡眠時間をとるのも務めのうちですので」
「寝るのも務めだなんて……楽過ぎて申し訳ないです」
「そんなことはありません。リーナ様がご就寝されれば、私達の業務も本日は終了です」
「すみません! 残業になっていますね!」
リーナは慌てて寝室へ移動した。
すでに寝る支度は済ませているだけに、ガウンを脱いでベッドに潜り込む。
ヘンリエッタはそんなリーナを見て微笑んでいた。
リーナが慌てる必要はない。侍女が残業になっても関係ない。だというのに、リーナは急いだ。残業させては悪いと感じたから。侍女達を気遣ったからだ。
優しく思いやりに溢れたリーナに仕えることを、ヘンリエッタは嬉しく誇らしく感じていた。これほど素晴らしい主人はいないとも。
ヘンリエッタはリーナの脱いだガウンや毛布を丁寧に整え、部屋履きを揃え終わると声をかける。
「おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
どうか良い夢を。
ヘンリエッタは心から願いながら、一礼した後に寝室を退出した。





