758 出立の水曜日
楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。
リーナはそのことを実感した。
土曜日からの数日間、ウォータール・ハウスで過ごした日々は、リーナにとって前回の滞在以上に感慨深いものになった。
その理由は明白で、家族全員が揃い共に過ごすことができたからだった。
レーベルオード伯爵家とインヴァネス大公家が揃うことへの懸念が全くなかったわけではなかったものの、全員が『大きな家族』として配慮し合うことで問題は起きなかった。
また、休日をどのように過ごすのかについても困ることはなかった。
会話を楽しむのは勿論のこと、音楽室では家族による演奏会が開かれ、ギャラリーではカードやチェスを使ったゲーム大会が催された。
ダンスパーティー、茶葉やチョコレートの種類を当てる味見会などもあり、まさに家族全員が一緒に過ごす時間を様々な形で満喫した。
リーナだけでなく家族の全員が、これまでの人生に味わったことがないような時間を楽しみ、一生忘れない思い出を心の中にしっかりと刻み込んだ。
「それでは……王宮に戻ります」
リーナは見送りに来たインヴァネス大公夫妻、そしてフェリックスに告げた。
「土曜日に会えるのを楽しみにしている」
「体調に気を付けてね」
「姉上!」
フェリックスが勢いよく抱き着く。
本当に子供は得だと言わんばかりの視線が数多く注がれたが、フェリックスは臆することなく堂々と瞳を潤ませた。
「とても寂しいです。王宮に会いに行ってもいいでしょうか?」
「勿論です。但し、先触れを出して問題ないかを確認しておく方がいいと思います。どのような予定が入っているのかわからないので」
「そうですね。姉上も何かと忙しいと思うので、先に面会の希望を伝えて確認します」
「リーナ、私も抱きしめたいの。いいかしら?」
「勿論です」
インヴァネス大公妃、続いてインヴァネス大公との抱擁を交わす。
「リーナ」
レーベルオード伯爵が名前を呼んだ。
「今行きます。ではこれで」
馬車にレーベルオード伯爵が乗り込んだ後、パスカルに支えられながらリーナは馬車の階段を前にして止まった。
今一度振り返り、見送りの者達を見つめる。
「私はレーベルオード伯爵家の一員であることを誇りに思います。ここで過ごした日々を決して忘れません。本当にありがとう。皆もどうか元気で!」
それは見送りのために勢揃いしたレーベルオード伯爵家に仕える者達への言葉だった。
「リーナ様!」
「お嬢様は我々の誇りです!」
「行ってらっしゃいませ!」
「どうかお気をつけて!」
「お幸せに!」
次々と叫び声が上がり、涙と拍手が溢れ、大きく手が振られた。
その瞬間、リーナの胸の中には強い喜びと寂しさが込み上げた。
王宮へ戻るといっても、レーベルオード伯爵とパスカルも同じ馬車に乗る。実の両親と弟にも結婚式の時に会える。そのせいか、一旦離れるだけのような気持ちでいた。
しかし、屋敷を背にして立ち並ぶ大勢のレーベルオードに仕える者達とは今が別れの時なのだということを強く認識させられた。
「……皆も幸せになって下さい! 偉大なる女神の加護と祝福がありますように!」
リーナは涙をこらえながら精いっぱいの声を張り上げ、手を振った。
それに応える歓声と拍手を受けながら、リーナは馬車に乗り込んだ。
最後に乗り込んだパスカルがドアを閉めるが、リーナを呼ぶ声と拍手は止むことなく聞こえて来る。
「リーナ、これを」
すぐにパスカルがハンカチを差し出すが、リーナは首を横に振った。
「大丈夫です。自分のハンカチがありますから」
そう言ってリーナがハンカチをポケットから取り出すと、馬車がゆっくりと動き出した。
リーナの視線はすぐにドアへと向けられた。見送る者達との別れを惜しむように。
「希望すれば一時的に屋敷へと戻ることもできなくはない。二度と戻れないわけではないのだ。気に病むな」
「はい」
「驚いたよ。レーベルオードの者達は常に冷静沈着であろうと心掛けている。見送るとしてもあんな風に叫んだり泣いたりするのはかなり珍しい、というか一度も見たことがない。初めてだ」
「それだけリーナが皆に受け入れられ、強く慕われている証だ」
「リーナのおかげでレーベルオードの者は皆幸せだよ。勿論、僕と父上も」
「私も幸せです。レーベルオードの者ですから」
「そうだね」
「その通りだ」
三人は微笑みながら頷き合った。
「リーナは幸せを運ぶ者でもある。今度は王宮に幸せを届けよう。王太子殿下がリーナの帰りを待ちわびているはずだよ」
「王宮に戻ったら、すぐにお会いできるでしょうか?」
パスカルは時計を見た。
「どうかな。夕方からどうしても外せない予定があるからね。会えたとしても少しだけかもしれない」
「そうですか」
リーナは肩を落とす。
しかし、レーベルオード伯爵もパスカルも馬車を急がせようとはしなかった。
「ところで、リーナに聞きたいことがある。いいかな?」
「何でしょうか?」
「さっき、偉大なる女神の加護と祝福がありますようにと言っていたけれど、リーナはどの女神を信仰しているのかな?」
「……おかしかったですか?」
「そうじゃない。ただ、リーナが強く信仰している神がいるなら知っておきたいと思っただけだよ。エルグラードは信仰の自由を許しているけれど、中には注意が必要な神を信仰している場合もある。一般的に広く信仰されている神なら大丈夫だよ」
「……あまり深く考えていなかったといいますか、お母様がそう言っていたので、一般的にそう言うものだと思いました」
「なるほど。母上が何の神を信仰しているか知っているのかな?」
「いいえ、知りません。軽率でした。すみません」
リーナは速攻で謝罪した。そして、軽々しく神に関わる発言をしたことを後悔した。
「謝る必要はないよ。ただ、リーナは王太子殿下の妻になる。だから、ちょっとした言葉が注目を浴びてしまうし、話題にもなってしまう。影響も大きい。きっと僕が聞かなくても、またそういった発言をすればどの神を信仰しているのか聞かれると思う。だから、どの神を信仰するのかよく考えておくか、全般的という意味で神にしておく方がいいかもしれない」
「そうですね。気を付けます」
「ちなみに母上が信仰している女神は結婚と出産を司るユーノ、あるいは虹の女神イーリスか花の女神フローラあたりだと思うよ。イーリスはミレニアスでも広く信仰されていて、ミレニアス王家の守護神ともいわれている」
「そうなのですね」
「ユーノは数多くの女神を束ねているともいわれるから、全ての女神の加護が欲しい場合にも信仰するかな。ただ、女神の加護と言ってしまうと男神の加護はないことになる。全般的な神の加護ということであれば、神と言った方がいい」
「そうですね。本当にすみません」
リーナは肩を落とした。
そこでようやくレーベルオード伯爵が口を挟んだ。
「お前は皆の幸せを願ったのだろう? 幸運を司るのは女神だ。女神の加護と祝福を願うのはおかしくない。とても自然だ」
言葉は更に続く。
「もう一つ。お前は偉大なる女神という言い方をした。これはただの女神ではなく、様々な力を持つ優秀な女神ということだ。ユーノのように多くの神々を束ね、従える女神のことかもしれない。どのように解釈するのかは個人差があるが、決して間違っているわけではない」
「ありがとうございます。お父様は本当に優しいです。娘になれたことがとても嬉しくて誇らしいです」
父上を優しいと言ってくれるリーナの方が優しい。
パスカルは心の中で呟いた。
「せっかくだ。王宮に向かう間に神の話をする」
「お父様が?!」
リーナは驚いた。
「レーベルオード伯爵領には古き時代から祀っている神や神殿がある。領主として疎かにはできないことから、知識として学んでいる」
「なるほど」
レーベルオード伯爵による説明が始まった。
移動時間を利用した勉強であり、馬車内の空気を重々しくしないための配慮でもあった。





