755 休憩を取りながら
屋敷の案内は玄関ホールから始まった。
以前にも客人を案内した経験があるリーナはそつなくこなしていたが、インヴァネス大公妃の体力を考慮し、途中で休憩を挟むことになった。
「ここは本当に広いわね。昔から貴族の屋敷というよりも宮殿のようだと思っていたけれど」
「私も初めてここへ来た時は宮殿のようだと思いました!」
リーナが同意する。
「王都にこれだけの屋敷を持つのはかなりのステータスだとは思うが、維持費が相当かかりそうだ。それこそ宮殿並みではないか?」
「さすがにそれはない」
「僕達の住んでいる東の離宮よりも広いのは間違いありません。庭園も多くあるようですし、付随する公園も含めるとかなりの規模でしょう」
「王宮には到底及ばない」
「エルグラードの王宮にはどこも敵わない」
インヴァネス大公が苦笑した。
「だが、エルグラードの王宮や後宮は相当古い。リーナのための部屋がどの程度整えられているのかについては気になるところだ」
「御心配には及びません。改装が施されています」
答えたのはパスカルだった。
「だが、大掛かりなものではないのだろう? 壁紙を新しくした程度のもので、居心地を良くしたなどというような内容では納得できない。設備が古いのではないか?」
「リーナは側妃として後宮に住むのでしょうけれど、王宮には部屋を貰えないの?」
「後宮だけでなく王宮にもリーナの部屋があります」
後宮の部屋は側妃候補として入宮する前に特別な改装がほどこされている。
王宮の部屋は王太子妃の部屋だった場所を第一王子の私室に変更して改装し、側妃候補になった時点でリーナに使用する権利が与えられている。婚姻後はヴェリオール大公妃の部屋という名称になる予定だ。
また、王宮や後宮は古いものの、水回りなどの設備面では何度も大掛かりな工事によって改良されている。水やお湯が出る場所は限定的な場所だけになるものの、それ以外において不自由さを感じることはほとんどないことがパスカルから説明された。
「つまり、王太子妃の部屋がリーナの部屋になるということね?」
「現在の王宮には王太子妃の部屋がありません。別の女性を王太子妃として迎えることはないという意志表示です」
「リーナが将来的に王太子妃になれる可能性はどうなのだ? 跡継ぎを産めば王太子妃になれるのか?」
「そのような話はさすがに時期尚早です。まずは婚姻することが優先かと」
「側妃にすることで反対する声をできるだけ抑えたいのはわかるわ。でも、リーナは弱い立場ゆえの辛さを味わうのではなくて?」
インヴァネス大公妃は非公式な相手から側妃、正妃になった経歴を持つ。だからこそ、側妃と正妃の差があることを理解し、強い懸念を抱いていた。
「そういったことを考慮し、ヴェリオール大公妃の称号を与えられることになっています。王妃に次ぐ地位にある者を軽視する者は少なくなるかと」
軽視する者は絶対にいない、とは言えない。
リーナは婚姻によって王家の一員に加わる女性だ。婚姻関係を解消すれば貴族に戻る。生まれながらの王族で一生『殿下』と呼ばれる存在ではない。
直系の王族を重要視するからこそ、外から王家へ入って来た配偶者達は明確に区別する。
それがエルグラード貴族における常識であり、レーベルオード伯爵やパスカルもまた王族の配偶者でしかない者=王妃や側妃を区別している。
「ヴェリオール大公妃は跡継ぎの生母になる女性へ許される称号だろう? 跡継ぎを早く産めと言われそうだな」
「そうね。称号を得たことで周囲からの圧力も強くなりそうだわ。子供ができても男子とは限りません。女子かもしれないわ」
説明を受けても、また次の不安や疑問が浮かび上がる。
「王家には長きに渡って王女が誕生していません。女子であっても歓迎されるでしょう。ただ、できるだけ早く次の子供を産んで欲しいと思われることは否定しません」
「女性は子供を産むための道具ではないわ」
「勿論、王太子殿下もその点は理解されています。内密にしていただきたいのですが、王太子殿下は婚姻後すぐに子供を作るのでなく、少し後からにされたいと思われているようです」
「なぜだ?」
インヴァネス大公は顔をしかめた。
王太子の年齢やリーナの立場を確固たるものにすることを考えると、できるだけ早く子供が必要だと考えるはずだった。
「来年になってしまいますが、新婚旅行を予定しています。懐妊すると中止になってしまいます」
「新婚旅行?!」
「行くつもりなの?!」
エルグラードの王太子は仕事中毒で、執務室に引き籠っていることで有名だ。
婚姻したとしても、仕事が優先に決まっている。王太子に仕事をするなと言うわけがない。休みがないのは当然かつ仕方がないことだった。
だというのに、新婚旅行が計画されている。それはつまり、王太子が執務を休む気でいるということになる。
インヴァネス大公夫妻は信じられない気持ちでいっぱいになった。
「王太子殿下はリーナを大切にしたいと思われています。夫婦の時間を確保するためにも、新婚旅行に行きたいと強く思われています」
「王宮敷地内あるいは王都内に留まるようなものか?」
「いいえ。本当に旅行です」
インヴァネス大公夫妻は意外過ぎると思った。
「そうか……まあ、さすがに年末に休むのは難しいだろうな。新年の指針と予算を決めなくてはいけない」
「婚姻自体を来年の春にしてはどうかという意見もあったのですが、どうしても誕生日までに婚姻したいということで、新婚旅行だけは先延ばしになりました」
「あの密約は破棄されたが、念には念を入れておきたいのもあるだろう」
「政治の話はしないで頂戴」
インヴァネス大公妃が鋭い口調で言うと、パスカルとインヴァネス大公は瞬時に口を閉じた。
「新婚旅行はどこに行くの?」
政治の話から引き戻すため、インヴァネス大公妃が尋ねる。
「まだ決まっていません」
答えたのはリーナだった。
「いくつか候補地があるので、ゆっくり検討することになりました。来年になってから決定するようです」
「国内? 国外?」
「それは言えないことになっていて……」
「リーナが困るような質問はやめて下さい。話せるかどうかは僕の方で判断してお答えします。リーナも無理に答えようとしなくていい。わかったね?」
「はい」
次々とインヴァネス大公夫妻は気になっていたことを質問し、パスカルが応えるという流れになる。
リーナはそれを静観しながら、お茶とお菓子をゆっくりと味わい、楽しむことにした。
「一口サイズのシュークリームがとても美味しいですね」
隣の席に座っていたフェリックスがリーナに小声で話しかける。
リーナは早速味を確認することにした。
えっ、これ?!
シュークリームといえば、中にカスタードクリームや生クリームが入っているのが定番だ。
しかし、用意されているシュークリームの中にはそれだけではなく、プリンも入っていた。
美味しいっ!!!
リーナは思わず叫びそうになるのを必死に堪えた。
「姉上もお好きなようですね」
「凄く美味しいです」
姉と弟によるひそひそ話が始まった。
「数を考えると、一人二つまでです。他の菓子もありますが、これがもっと欲しいですね」
リーナは素早く大皿に視線を移し、残っている一口シュークリームの数を数えた。
「二つ? それだと足りませんよね?」
「レーベルオード伯爵はすでに二つ食べています」
「お父様が?」
リーナがレーベルオード伯爵のことをお父様と呼んだことに対してフェリックスは眉を上げたものの、それ以外は平静な様子で答えた。
「レーベルオード伯爵がシュークリームを選ばれたので、僕も食べてみることにしたのです。姉上はこのようなものをよく召し上がっているのでしょうか?」
「初めて食べます」
「前に滞在した時には出ていませんでしたね。正直、シュークリームというよりはこの中に入っているプリンが美味しいと思います。とても濃厚でなめらかですね。クリームと同じように口の中で溶けてしまいました」
「そうですね」
その瞬間、リーナは思い出した。
……もしかすると、お弁当に入っていたプリンかも?
秋の大夜会でリーナはクオンと共に食べた弁当のプリンを思い出した。
でも、あれはウォータール・パーク美術館のお弁当でウォータール・ハウスのものではなかったけれど……レシピが同じとか?
リーナが考えていると、パスカルから声がかかった。
「リーナ」
「えっ? はい! 何か?!」
「考えごと?」
「え、あ、まあ」
「何か気になった?」
「この一口シュークリームがとても美味しかったことではないかと」
フェリックスが会話に加わる。
「プリンが入っているシュークリームを食べたのは初めてです。エルグラードではこのようなものが流行っているのでしょうか? それともレーベルオードの特別な菓子なのでしょうか?」
「後者かな。新しく本邸付きになったパティシエが得意としているものがプリンなんだ」
「優秀な人材を確保されましたね」
「お兄様、このシュークリームに入っているプリンは秋の大夜会のお弁当に入っていたプリンと同じものでしょうか?」
丁度いい機会だと感じたリーナも尋ねた。
「たぶん同じかな」
「あの時のプリンをまた食べたいと思っていました。サンドイッチも凄く美味しかったです」
「それは良かった。また作らせるよ。王太子殿下にもまた機会を見て用意するようにと言われていてね。プリンのサイズも大きくする予定だ」
「それは嬉しい情報です!」
リーナは満面の笑みを浮かべた。





