746 歩き続ける
「彼女は私達の希望です」
アートはそう言った後、リーナに出会った時のことをパスカルに話し始めた。
働き口を探し求めてリーナが職業斡旋所に来た時、アートは転職したばかりの新人で職務に慣れていなかった。
職業斡旋所には就職先や人員募集の情報が数多く集まるものの、孤児に紹介できるような職は極めて少ない。
女性だとほとんどが花街関係で、まともとは言いにくい条件や内容のものばかりになってしまう。
王都の外れ、底辺の場所ではそれが当たり前であり、現実だった。
職を紹介しても、応募者が採用されなければ自分の成績は上がらない。採用されてもすぐに辞めてしまえば同じだ。
むしろ、合わない者を紹介した責任が生じ、担当者の成績が下がる。何度も繰り返し、職業斡旋所の評価を下げてしまうとクビになる。
誰も採用されにくい孤児の就職相談に乗りたくなかった。結局は、孤児に紹介するようなものはないと言って追い払うしかない。
そこで、新人のアートが担当を任された。嫌な役目を押し付けられたのだ。
アートはそのことに気付かず、普通に対応した。
まずはリーナの個人情報や希望する仕事などを確認し、扱っている募集の中から応募できそうなものを探す。
未成年というだけで多くが対象外になってしまう中、ようやく見つけたのが後宮の人員募集だった。
基本的に国や王家が行う人員募集は条件が厳しくない。むしろ、非常にゆるい。
但し、それは誰でも採用されるということと同じではない。
あくまでも国や王家が自国民であることを重視し、募集する際に身分等で著しく差別していないと示すためだった。
だからこそ、王都の外れであっても募集の情報が伝わってくる。
応募できたとしても、結局は採用予定数を遥かに上回る応募者数になるため、書類や面接で厳しく審査される。
何らかの優劣、身分等で条件が良く、能力が秀でていそうだと判断された者が合格するだけだ。
常識的に考えれば、孤児というだけで蔑視され不採用になる。
そもそも、面接場所である王宮までは遠いどころの距離ではない。
孤児が馬車や馬に乗って行けるわけがない。徒歩で行くにはあまりにも遠すぎる。辿り着けるわけがない。
そんなことは応募する前からわかるため、誰も応募しない。紹介することさえない。全て意味がないことだと判断され、ないものとして扱われるのだ。
書類を作っている途中で、アートはそのことに気付いた。
「……すみません」
アートは正直に応募しても不採用になる確率が極めて高そうなこと、面接を受ける場所があまりにも遠く、そこへ行くこと自体困難だとリーナに伝えた。
普通の者であればその時点で諦める。だが、リーナは諦めなかった。
「ですが、面接をしている時間内に行かないとですし」
「夜明けとともに出発します! 絶対に時間内に辿り着けるよう一生懸命歩くので大丈夫です!」
大丈夫などと思えるわけがない。
しかし、アートはリーナの必死さに負けた。
作成した応募書類と共に自分の持つ乗合馬車のチケットを一枚渡すことにした。
「……これを使って下さい。多少は歩かなくて済みますし、早く移動できると思います。面接時間に間に合う可能性が少しだけ増えると思います」
乗合馬車のチケットがあっても、王宮まで乗っているわけではない。一地区程度で、ないよりましというだけだった。
リーナのためというよりは、不採用に決まっている募集を紹介してその気にさせてしまったアート自身の心苦しさを軽くするための行為だった。
「乗合馬車のチケットを手にしたのは生まれて初めてです! ありがとうございます!」
リーナは嬉しそうに礼を述べた。
その瞬間、アートはまたもや失敗したと感じた。
乗合馬車のチケットはお金と同じだ。利口な者であれば面接に行かず、チケットを換金する。あるいはパンなどと物々交換する。
もしかすると、誰かにチケットを奪われるかもしれない。少女が犯罪に巻き込まれてしまう可能性も思いついた。
あるいはこのことが他の孤児や貧しい者達に伝わり、乗合馬車のチケット欲しさに職業斡旋所に来る可能性もある。勿論、迷惑でしかない。
「チケットのことは秘密にして下さい。孤児院の者にも言わないように。誰かに盗まれたり、取り上げられたりすると困るでしょうし……」
「わかりました。もし採用されたら、お給料でチケット代をお返しします!」
アートは不可能だと思いながらもなんとか微笑みを作り、励ましの言葉で見送った。
翌日、アートは自らの予想が大きく外れたことを知ることになる。
リーナは本当に夜明けと共に孤児院を出発し、王宮を目指した。
早朝だったせいで乗合馬車が見つからず、まずはひたすら歩くことになった。
何時間も歩き続け、空腹と足の重さでフラフラになってきたところで、ようやく乗合馬車に乗ることができた。
その際、王宮に行って面接を受けることを話すと、御者も同乗の客も誰もが驚いた。
どうせ採用されないと馬鹿にする者もいたが、簡単に諦めないことはいいことだと褒める者、頑張れと声をかけてくれる者もいた。
善意によって使用したはずのチケットは返却されたばかりか、より高額な長距離用のチケットと交換して貰えた。
おかげでリーナは別の地区の乗合馬車に乗り、足を休ませながらかなりの距離を移動することができた。
また、乗り合い馬車で一緒だった客から、王宮への道を聞く際はただ道を教えて欲しいと尋ねるのではなく、『女性でも安全な近道』を教えて欲しいと尋ねるようにという助言も受けた。
普通に尋ねれば大通りに沿った道順を教えられる。覚えやすく説明しやすいからだが、遠回りになることも少なくない。足に負担をかけるばかりだ。
とはいえ、ただの近道では物騒な場所もある。それを心配してくれたからこその助言だった。
リーナは出会った人々の良心的な言葉に励まされ助言に従いながら、残る距離を気力で歩き続け、面接を行っている時間内に王宮に到着することができた。
「面接官も驚いてました。いくら応募できるとはいっても、王都の外れから王宮まで面接を受けに来るような者は絶対にいない。初めてのことだろうって」
「……そうですね。しかも、採用されました。奇跡としかいいようがありません」
アートは信じられないという思いでリーナがどうやって王宮まで行ったのか、面接はどうだったのかなどの報告を聞いていた。
すでに営業時間は終わっているが、リーナに早く帰るように促す者は一人としていない。
リーナが起こした奇跡、掴んだ幸運話を聞きたくて仕方がなかった。
「ところで、帰りはどうしたのですか?」
アートが渡した乗合馬車のチケットは一枚。帰りは歩くしかないはずだった。
疲れも溜まっているだけに、日帰りできるはずがないと考えるのが普通だ。
ところが、リーナは職業斡旋所の営業時間が終わる直前に戻ってきた。
「親切な方が助言してくれました」
リーナは歩いて帰る気だった。それしかないと思ってもいた。
しかし、面接官の一人が無事帰ることができるのかを懸念し、後宮に出入りする商人の荷馬車に乗せて貰えるよう頼めばいいと助言した。
その際、後宮に採用されたことを伝えるようにとも。
商人は後宮や王宮で働く者とのつながりを欲しがる。下働きとして採用された者へのちょっとした親切が将来役立つかもしれないと考え、荷馬車に乗せてくれるだろうと考えての助言だった。
リーナは面接官の助言に従うことで、後宮に出入りする商人の荷馬車に乗せて貰えることになった。
商人は平民が多く住む地区にある大きな警備隊の詰め所までリーナを送ってくれた。
そして、後宮の下働きの面接を受けに行って採用されたものの帰り道がわからない、と伝えるよう助言して去った。
リーナは恐る恐る警備隊の詰め所へと入り、商人に教えられた通りに話した。
警備隊の者は未成年の少女があまりにも遠くの地区から来ていることを知り驚いた。
後宮の採用通知を確認することでリーナの話に嘘はないと感じ、馬に乗って見回りに行く者に途中まで送るよう頼んでくれた。
頼まれた者は未成年で後宮に採用された少女を下手な場所には降ろせないと感じ、馬を走らせ、職業斡旋所の近くまで送ってくれたことが判明した。
「幸運でしたね」
「はい! 次はもっとよく考えて王宮に向かいます!」
リーナは採用されたがゆえに、もう一度王宮に向かわなくてはならない。
但し、最初と同じ方法を選択する必要はない。
リーナは王宮までどうやっていけばいいのかを学んでいた。
歩かなければならないが、商人などの荷馬車に乗せて貰えるように頼んでみる。
警備隊の者に道を聞けば、送って貰える可能性もある。
女性でも安全そうな近道を通ることで、足への負担を少なくすることができる。
様々に工夫することで、ずっと楽に行けるかもしれないことを知った。
「三日以内に行けばいいということなので、できるだけ早くまた出発します。そうすれば、一晩どこかで過ごしても、次の日には王宮まで行けると思います」
「途中で一晩を明かすつもりですか?!」
「大丈夫です。警備隊の本部の近くは明るくて警備の方々がいます。後宮の採用通知があれば、きっと追い払われません。皆これを見ると親切にしてくれます。本当に凄いです! 私、後宮で頑張って働きます! アートさん、そして職業斡旋所の皆さん、本当にありがとうございました!」
リーナは満面の笑みを浮かべながら孤児院へと帰っていった。
「後宮に採用されたのは大幸運でした。ですが、単に運が良かったという話ではありません。多くの者達がゼロに等しいと思うほどのわずかな希望を、彼女は断固として捨てませんでした。そして、どれほどの困難があろうとも諦めず、王宮を目指して歩き続けました。その覚悟と強さが出会う人々の心を揺さぶり、結果として採用されたのだと思います。この大幸運は紛れもなく彼女自身の努力で得たものです!」
アートはその時のことを思い出す度胸が熱くなり、感動で心が震えてしまう。
例え孤児であっても、努力すれば道が開ける。
諦めずに前へと一歩踏み出す勇気を持つ。
その後は目指す場所まで、全力を尽くして歩き続ける。
それで叶うことがある。
新しい未来が切り開かれるかもしれない。
わずかな可能性しかなくても、それはゼロや不可能と同じではない。
むしろ、わずかであっても可能性があるということだ。
そして、そのわずかな可能性に賭け、幸運を掴み取る者が存在する。
アートはそれをリーナが証明したと思った。
孤児院の少女が後宮の人員募集に応募し、採用されたという話は一気に広まった。
誰もが驚き、夢のような話だと思った。希望を抱かずにはいられない。
孤児だけでなく貧しい女性達が職業斡旋所に殺到し、自分も応募したいと申し出た。
だが、説明を受けた女性達はすぐに表情を曇らせ、肩を落としてうなだれた。
自分には無理だ。王宮まで歩いて行けるわけがない。そう思ったのだ。
アートはできるだけのことをしたいと感じ、一人だけで来た女性には乗合馬車のチケットを一枚渡すようにした。
このチケットを貰ったことは秘密にして欲しい。希望を捨てず、面接を受けてみて欲しいと言いながら。
チケットを渡された女性達は喜んだ。しかし、その後は姿を見せなかった。
面接を受けた後の報告と書類提出もない。不採用であっても報告と書類提出を怠れば、次の職を紹介して貰えない。
乗合馬車のチケットを受け取った女性達は面接で採用されなかったのではなく、王宮に向かわなかったのだろうと思われた。
たった一枚の乗合馬車のチケットだけでは到底辿り着けない。残った道のりを徒歩で向かうのは不可能だ。面接に行くのはやめ、手元にあるチケットをわずかな金や食料などと交換した方がいいと判断した。恐らくは。
その方が現実的で、小さくとも確実に得をすると大勢の者達が思う。アートも。
だが、それは今の状況を抜け出せるかもしれないというわずかな可能性を自ら否定し、希望を捨てたのと同じだった。
どこからか交通費、あるいは乗合馬車のチケットが貰える募集があると聞いたといって訪れる者があらわれるようになり、アートや他の者達はそんな募集はないという説明に追われることになった。
「彼女はどこにでもいるような子だと思いました。貧しくて、何もできない平凡な少女だと。でも、違いました。凄い少女だったのです。ここから王宮まで、夜明けと共に出発して歩いて向かおうとは誰も考えません。実行もしません。諦めます。なのに、彼女は諦めることなく、本当にそれをやり遂げたのです!」
アートはそう言ったものの、すぐに苦しそうな表情になった。
「残念ですが、このような場所に住む者達は、明日美味しいパンが貰えるかもしれないと信じて全力を尽くすよりも、目の前にある不味いパンを楽に得たいと思ってしまいます。それほど貧しく、飢えているのです。ですが、彼女の起こした奇跡ともいうべき出来事には大きな意味がありました。孤児でも努力すれば、幸せになる道を自ら切り開けるのだということを、大勢の者達が知るきっかけになりました。世界には希望も慈悲もないと思う者、神の存在を信じない者の心を揺さぶり、変えたかもしれません。少なくとも、この職業斡旋所は変わりました」
孤児だからという理由で相談者を追い返すようなことはしないことになった。
後宮の人員募集に孤児の少女を応募させ、見事就職させたということが、この職業斡旋所における最も輝かしい功績になったからだった。
このことがきっかけで、職業斡旋所の者達のやる気が増した。良心も。
アートが中心になって話し合い、国や公共関係の募集条件が緩いことを活用する方針になった。駄目元であっても、わずかな可能性を捨てないように励まし、応募を推奨するようにしたのだ。
応募書類にも可能な限り、担当者が感じた嘘偽りない印象、忍耐強く真面目でやる気があるというような良い部分があれば記入するようにもした。
おかげで警備隊や伝令業、清掃業などの国や公共関連の採用者が増えている。それもまた職業斡旋所の功績になり、評判を上げることにつながっていた。
変化の波は少しずつではあるものの広がっている。
持ち込まれる募集依頼は増える一方だ。
一度採用者を出すと、また同じところから募集の依頼が来るようになるのが大きかった。
職業斡旋所の業務が増えたことから、より条件のいいものを優先に紹介するということを募集先に伝え、応募条件を緩和させたり、雇用内容を向上させたりするように努めてもいる。
「ここは王都の底辺です。貧しい者や失業者が一人もいなくなることはないでしょう。だからこそ、彼女の成功が語り継がれていきます。底辺のような人生であっても、希望を捨てなければいつかチャンスが来るかもしれない。自分の努力次第で道は開け、幸運も掴めると。そう思って頑張っている者達もいます。私もその一人です」
アートはチケット代の返却を望まなかった。
「受け取る資格はありません。彼女のためではなく自らのため、偽善で渡したようなものです。それにこういってはなんですが、彼女のおかげで出世しました。私の方こそ、恩を返さなければいけません」
「受け取って下さい。遅くなってしまいましたが、約束を守らせて欲しいのです。真面目で誠実な彼女の気持ちだと思ってくれませんか?」
「……そう、ですね。約束を守ることは大切です。彼女の気持ちを無下にしないためにも、やはり受け取らせていただきます」
「金額は?」
「百ギニーです」
パスカルは眉をひそめた。
たった一ギール。貴族にとっては最少額といってもいい。
「それで乗合馬車に乗れるのですか?」
「ここは王都の外れですよ? 貴方が住む世界とは違います」
パスカルは平民が着用するような質素な身なりをしていたが、アートから見ればできるだけ質素な身なりをしようとした、自分達とは違う世界の者としか思えなかった。
「これを」
アートはパスカルから受け取った一ギール札をじっと見つめた。
しわくちゃになって印刷が擦り切れそうなギニー札ではない。
推測は確信に変わった。
「これは一生大切に取っておきます。思い出として」
「では、これで」
「待って下さい! 彼女は今どうしているのでしょうか? 今頃になってお金を返すというのもなんだか気になると言いますか……その、幸せ、なのでしょうか?」
「幸せです。彼女は今も努力をし続け、次々と幸運を呼び寄せています。自分だけではなく、周囲の者達までも幸せにしています」
アートは心底安堵したような表情になった。
「そうですか……本当に良かった。私も幸せな気持ちです。これからも希望を信じ、できることをしていきたいと思います。どうか、彼女によろしくお伝え下さい」
パスカルは何も言わずにその場を立ち去った。
その心中は穏やかではない。
王都の外れから王宮まで行く。ほぼ歩きで。
あまりにも単純ではあるものの、それを成し遂げることがいかに困難かということに気づけなかったことを悔やんでいた。
一刻も早く戻り、許しを請うべくリーナを抱きしめたい!
パスカルはひたすらに帰り道を急ぐ。
猛スピードで馬を走らせるほどに、王宮までいかに遠いのかを実感するしかなかった。





