740 マリッジブルー
パスカルは書類に目を通していた。
その表情はどこか物憂げで、幾度となくため息が出ている。
「ちゃんと見てる?」
ヘンデルは心配するように尋ねた。
「見ています」
「気に入らないところがあった?」
「いいえ」
「俺には本当のことを言っても平気だよ。クオンには内緒にする。レーベルオードにとっても凄く大事なことだし、できる限り希望を取り入れるってことになっているから」
王族の婚姻にはしきたりがある。
それにリーナやレーベルオードが合わせるのは当たり前。
王太子と側妃の結婚式は国家行事ではなく私的行事になるため、招待者は身内をはじめとした少数だけになるはずだった。
しかし、式の予定が延期されたことで準備期間ができたことから、参列者の数が膨れ上がった。
調整と変更を何度も繰り返した結果、国家行事のような規模で行われることになった。
「俺としてはミレニアス関係者の席が気になる」
エルグラードとミレニアスの国交が悪化したことを受け、九月に行われるはずだった挙式にはミレニアスの関係者を披露宴にさえ招待しなかった。
しかし、十一月に延期されたあと、国交関係に改善が見られた。
それはミレニアス王の気持ちや態度が変わったというよりも、王弟であるインヴァネス大公が二国間の国境における緊張緩和を目指して積極的に動き、それに呼応する者が続々とあらわれたからに他ならない。
両国の話し合いによる解決の模索を再開することになり、それに配慮する形でミレニアスの関係者を招待することが決まった。
とはいえ、リーナの両親が式に参列できるように取り計らうという裏の理由も含まれていた。
「ここで大丈夫?」
「はい」
「ブライズメイドもいい?」
「はい」
「ヴァーンズワース伯爵夫妻とダウンリー男爵一家は本当に招待しなくて平気?」
可能な限り距離を置いている祖父母のヴァーンズワース伯爵夫妻と婚約無効で赤の他人になったダウンリー男爵家の二人については、レーベルオードではないことを明確にするため招待していない。
「ジリアンだけも呼んだら?」
「父の子どもだという噂を助長させたくないので、絶対に呼びません」
ジリアンの父親はレーベルオード伯爵の親友だった先代のダウンリー男爵。
しかし、その妻であるアマンダとレーベルオード伯爵が婚約したことから、ジリアンの本当の父親はレーベルオード伯爵ではないかという噂が広まった。
そのためにパスカルはジリアンとあえて距離を取り、兄弟ではないことを何かにつけて強調するようにしなければならなかった。
「他には……」
ヘンデルもまたざっと書類に目を通した。
「クオンの友人達は高位の者達が多い。他国の王族もかなりいる。親族関係者で礼儀作法に問題がありそうな者は招待しないはずだけど、変更はない?」
「ありません」
「朝から晩まで予定尽くしだけど、何かある?」
「今のところ特には」
次々とヘンデルが尋ねるが、パスカルは全て同じような口調で答えた。
「むしろ、パスカルに問題があるような気がしてきた」
ヘンデルはじっとパスカルを見つめた。
「もしかして、マリッジブルー?」
「私が婚姻するわけではありません」
マリッジブルーは結婚を控えるカップルがなりやすい症状のこと。
このまま結婚していいのか、相手とうまくいくか、幸せになれるのか、家族と離れ離れになってしまうのは寂しいなどと考えてしまい、それが強い不安や迷い、憂鬱、無力感、恐怖、嫌悪、拒否感、苛立ちなどにつながる。
最悪の場合は相手と破局してしまう場合もあるが、パスカルは結婚する当事者ではない。
しかし、妹であるリーナが結婚するのは王太子。忠誠の対象であり、直属の上司でもある。全てにおいて強い影響を受けるのはわかりきったことだった。
自分だけでなく深く愛する妹、父親、レーベルオードの命運全てがかかっているからこその不安、緊張、葛藤があってもおかしくはない。
「リーナちゃんを嫁に出したくないって思ってない?」
「そう思うのは父親ではないかと。養女の話は先々のことも考えての処置でしたので、心配は無用です」
「じゃあ、クオンに奪われたくないとか。大事な妹だしね?」
「エルグラードの全ては次期国王である王太子殿下のもの。奪うもなにもありません」
優等生過ぎる答えだなあ。
ヘンデルは心の中でぼやいた。
「でも、なんか嫌だって思っているよね?」
「勝手な決めつけです」
「パスカルは今、自分がどんな表情をしているかわかっている?」
「普通です」
「いや、全然。今のパスカルを見たら女性が蕩けるか失神するような感じだよ? 色気が滲み出ているような感じというか」
「気のせいです」
「悩みなら聞くよ? これでも上司だし、先輩だし、付き合いも長いし」
「そのような気遣いは無用です」
「じゃあ、なんでそんなに元気がないわけ?」
パスカルは黙ったままだ。
「もしかして、リーナちゃんのことで問題がある? 試験を受けに行った時、本当に何もなかった?」
「素性は隠し通せています。詮索しようとする者が出てくるのもわかっていましたので、対応はしてあります」
「じゃあ、やっぱりマリッジブルーじゃん? 自覚ないだけっていうか」
パスカルは面倒だと感じ、切り札を使うことにした。
「ここだけの話ですが、屋敷についての懸念事項があります」
「ウォータール・ハウス?」
「インヴァネス大公一家の訪問が宿泊に変更されました」
「えっ、そうなんだ?」
ヘンデルは初耳だった。
「許可取った?」
「王太子殿下の許可は取りました。国王府から話があったのです」
「国王府から?」
ヘンデルは眉をひそめた。
「なんで王太子府を通さないわけ?」
「外務だからです」
「王太子も外務をするってことになったじゃん!」
「王太子殿下はミレニアスに訪問した際、向こうの対応にかなりご立腹でした。ですので、インヴァネス大公は王太子殿下を通さなかったと聞いています」
「そんなの嘘に決まっているでしょ? 政治的かつ外交的圧力じゃん!」
「インヴァネス大公は現在両国の友好関係を修復するにはかかせない重要人物です。冷遇はできません。確実に了承させるためだと思います」
ヘンデルは舌打ちした。
「ミレニアスとの関係が悪化しなければ、大公子は春からエルグラードの大学院に留学するつもりでいます。それについて話し合うにもいい機会だということになりました。大公子は留学中、私と一緒に住むことを希望しているのです」
「あー、なるる」
インヴァネス大公が積極的に二国間の関係を修復しようとしているのは娘のためだけではなく、エルグラードへの留学を希望している息子フェリックスのためでもあることをヘンデルは察した。
「弟のこと、忘れてた」
「大公子は年齢の割に交友関係が広いので、絶対に一人だけで留学するはずがありません。同じ大学院ではなくても、それ以外の学校への留学者も増えるでしょう。ローワガルンの大公子も恐らく一緒です。同居は何かと面倒なことになる恐れがあるので、レーベルオード伯爵家としては遠慮したいところなのですが、現在の二国間の関係を考慮すると断りにくい状況です」
「そうだろうなあ。戦争になりそうな雰囲気なら断りやすいというか、むしろ留学なんかしないだろうしね?」
「他にもあります。王都は婚姻に合わせての厳戒警備体制に入りました」
王太子の婚姻日は広く知られている。当日及び前後の警備体制が強化されるのは当然のことだが、自国民だけでなく他国からも大量の人々が王都に押し寄せている。
そこで王都にある城壁では検問を行い、不審者や危険人物等が紛れ込まないようにする対応が取られていた。
「ウォータール地区でも厳しく取り締まっているのですが、問題を起こす者達が多く出ています。ウォータール警備隊から対処してもきりがないという報告が上がりました」
ヘンデルは眉を上げた。
「ウォータール地区で? 防城壁があるから検問や出入制限もしやすいよね?」
「王太子殿下に嫁ぐのはレーベルオード伯爵令嬢です。レーベルオード伯爵家の本邸がどこにあるかご存知ですか?」
「ウォータール地区だね」
ヘンデルは理解した。
ウォータール地区は元々有名だが、王太子に嫁ぐ女性がレーベルオード伯爵家の令嬢ということで、それこそ国内外から王都に集まった人々がウォータール地区に押しかけている。
そのことについては予想できたものの、想定をはるかに上回る状況になっているということだった。
「王都警備隊は? 協力してくれるはずだよね?」
「今は王都全てが厳戒態勢ですので、どこも人員不足です。ウォータール地区や周辺への配置は多くしている状況ですが、これ以上は無理だと言われてしまいました」
「なんかあれだね。厳重に取り締まっても絶対にいなくならないミレニアスからの密入国者みたいな?」
「密入国者は厳しく処罰することができます。ですが、ウォータール地区への出入りや滞在延長は重罪に問えません。王宮地区とは違います」
「注意と強制退去、罰金かなあ」
「色々と忙しいので、そろそろ失礼したいのですが」
「わかった」
いくつかの話を打ち明けることでヘンデルを満足させつつ、関心を別の方向へ向けようとしたパスカルの作戦は成功した。
打ち合わせは終了になり、パスカルは部屋を退出しようとした。
「待った!」
「まだ何か?」
「熱、あるでしょ?」
パスカルは眉を上げた。
「熱ですか?」
「なんかぼーっとしているのは、忙し過ぎて体調が悪いんじゃないの?」
「大丈夫です」
「絶対熱があるんだよ! 計った?」
「いいえ」
「じゃ、計って。これは命令にしようかなあ? 迷うなあ」
ヘンデルは机の引き出しをごそごそし始める。
体温計を探しているようだったが、なかなか見つからない。
命令かどうか曖昧な状態であるため、パスカルは立ち去ることができなかった。
「……ここにあった気がしたけど」
前は戸棚にしまっていましたが。
パスカルの心の呟きは聞こえなかったものの、視線が動いたことにヘンデルは気づいた。
「戸棚かな?」
「時間がありませんので」
「ダメ。過労で倒れたら結婚式に出れなくなるよ。リーナちゃんの花嫁姿を見れなくてもいいわけ?」
よくないに決まっていた。
「あったあった。はい、これ」
「消毒していないのでは?」
「潔癖症みたいなことを言うんじゃない! そうやって逃げようとしても無駄!」
パスカルは観念するようにため息をついた。
「実は昨日から熱があるので薬を飲んでいます。そろそろ切れる頃ですので、また飲んでおきます」
「なんだって?!」
ヘンデルは驚いた。
「もう今日は帰っていいよ! 休み! 医務室に行ってちゃんとした薬を貰うこと!」
「常用しているものの方が安心です。それに、医者の診断も昨日受けました」
「過労だって? 知恵熱? それとも風邪?」
「知恵熱です。過労も少々。うつりませんのでご心配なく」
「忙しいのはわかるけど、少しでも休むように。これは大事なことだから命令にする。わかった?」
「お気遣いいただきありがとうございます」
「いいからいいから!」
パスカルは部屋を出ると一息ついた。
昨日から熱があるのも医者の診断を仰いだのも全て本当だった。
しかし、ヘンデルには伝えなかったことがある。
医者は言った。
「過労ですな。それと知恵熱。パスカル様の場合はマリッジブルーも。どうか少しでも頭と体、何よりも心をお休めください」
そのことをわざわざヘンデルに伝えるはずもなかった。





