739 大人として
会話の内容はアリアドネの留学生活についてだった。
すぐに学校に馴染むことができ、多くの友人ができた。毎日が楽しく、勉強もはかどっているという内容だ。
「この間は友人と平民街に行きましたのよ」
「平民街に?」
驚くリーナに、アリアドネは不敵な笑みを浮かべた。
「王立学校の生徒の中には平民もいますわ。エルグラードの平民がどのような場所に住んでいるのか視察に行きましたの。小さい家でしたけれど、可愛らしくて住み心地がよさそうに見えましたわ。狭い方が移動距離も時間も少なくて便利なこともあると思いましたわ」
「学業に限らず、様々なことを学ばれているのですね」
「留学中は様々な経験を積むという目的で、自国にいるよりも色々なことができますの」
「見聞を広めることはとても重要です。百聞は一見にしかずという東方のことわざがあります。人から何度も聞くよりも、自分の目で一回見た方がわかる、確かだという意味です」
「それ、セイフリード王子みたいですわね」
「えっ?」
セイフリードの名前が出たため、リーナは動揺した。
「セイフリード王子は東方のことわざが好きでしょう? 何かと多用していましたわ! 頭がいいことを自慢したいのかしら?」
リーナは困った。
素性を隠すためにも、セイフリードの話は避けたい。しかし、アリアドネがセイフリードのことを悪く感じているのを放っておくことはできない気がした。
「知識があるのは凄いことかもしれないけれど、いかにもという感じでひけらかすのは嫌味にしかならないわ」
「国や人種・文化・考え方など様々な違いを越えて、理解できることや活用できることがあると示されたかったのかもしれません。エルグラードとデーウェンも違う国ですが、共通すること、分かり合えること、活かし合えることが沢山あります」
……やっぱりクルヴェリオン様が選んだだけあるわね。気難しいセイフリード王子の側に配置されたのも納得だわ!
リーナの賢さは単に学校で習うこと、試験で良い点数を取るような勉強によるものではなく、様々な経験を積み重ねたことによるものだとアリアドネは感じた。
私も沢山のことを学んで、経験を積まないと! エルグラードに留学できることを活用しない手はないわ。いずれはリーナさんのような言葉がすぐに言えるように、いえ、それ以上の対応ができるようになってみせますわ!
リーナとの再会はアリアドネの浮ついた気持ちをひきしめ、向上心をより強くすることへとつながった。
馬車乗り場。
リーナ達の指定されている乗降口に向かっていると、突然アリアドネの表情が変わった。
リーナが王太子の側妃になることを快く思っていない貴族を見つけたためだった。
「大丈夫ですわ。私がいますから」
何のことかと思いつつ前方を見たリーナは顔を輝かせた。
「ディランさん! アーヴィンさん!」
「えっ!」
明らかに驚くアリアドネに、リーナは笑顔を向けた。
「席が近かったので、少しだけお話したのです」
この者達はリーナさんの敵ですわよ!
アリアドネは心の中で叫んだが、リーナには伝わらなかった。
「良かったです! もうお会いできないかと思っていました!」
リーナはディラン達に駆け寄った。
「先ほどは急いでいるようでしたので、ライクスさんという方に伝言をお願いしたのですが、直接お会いできたので改めてご挨拶したいと思います」
リーナは姿勢を正し、手を揃えた。
「この度は何かとご配慮いただき、おかげで無事二日間を過ごせました。本当にありがとうございました」
ディラン達はリーナがデーウェン大公女であるアリアドネと共に来たことに驚いていたが、表情には一切出さなかった。
「貴族として当然の務めを果たしたまでのこと。お気にされず」
「気を付けて帰れよ」
アーヴィンの挨拶を聞き、アリアドネの表情が変わった。
「そのような言葉遣いは失礼ではなくて?」
「私はただの部外者です。互いに素性を教え合ってはいませんし、同じ試験を受けた者として同等です」
すぐにリーナが間に入った。
素性を隠して試験を受けたのね!
アリアドネはそう思いつつ、すぐに納得しようとはしなかった。
「素性のわからない部外者だからこそ、軽々しく扱うべきではありませんわ。どのような者であっても問題にならないように慎重な対応をしておけば、後で困るようなことはありません。少なくとも、私の大切な友人に無礼な行為をする者を見過ごすわけにはいきませんわ!」
アリアドネはリーナを庇うように前へ出た。
「アーヴィン・キーシュ、もっと丁寧な言葉づかいで言い直しなさい。それが礼儀よ!」
「俺はエルグラード貴族だ。デーウェンの命令は聞かない。それにここは王立学校だ。他国の王族であっても、ここではただの生徒だということを忘れるな。その点、俺は生徒会の副会長としての立場と権限がある。ただの生徒からの指図は受けない」
「これは命令ではありません。礼儀作法の問題ですわ!」
「そうは思えない。ただの難癖だ」
「なんですって?」
「アリアドネ様」
リーナが口を挟んだ。
「お心遣いいただきありがとうございます。ですが、挨拶には様々な言葉や言い回しがあるもの。アーヴィンさんの言い回しは親しみと思いやりが込められているものですので、不作法とは違います」
「いいえ。この者達は生粋の身分・血統主義者。親しみなど皆無ですわ。それに建前では女性を守るなどと聞こえがいいことを言っていますけれど、実際は軽視しているのです。女性の順番が後回しになってしまったのもそのせいですわ!」
「お前も身分を誇示しているだろう。身分主義者ではないか」
アーヴィンが言い返した。
「していませんわ!」
「明らかに大公女であることをふりかざしている」
「そのようなことはありませんわ! 私は平民とも親しくしています!」
「侍女のように侍らせているだけだろう」
「何ですって!」
アリアドネとアーヴィンが言い合いを始めた。
リーナは困ったと感じたが、誰もそれを止める者はいない。
「お二人ともやめて下さい! お願いします!」
「私はデーウェンの大公女ですのよ? 間違っている者を諫めず、見過ごすことなどできませんわ!」
「ほら見ろ。そうやって何かと自分の身分をひけらかす」
「ひけらかしているわけではありませんわ!」
どうしよう……。
リーナは周囲を見た。
しかし、ディランもマリウスもその他の者達も静観する気でいるのは明らかだった。
どうして?
理由はすぐに思いついた。
アリアドネはデーウェンの大公女。エルグラードでは留学生、王立学校の生徒の一人だとしても、配慮するのが常識だ。
一方、アーヴィンはエルグラードの貴族。他国の者に屈しないという主張は大国エルグラードの者としてやはり常識的だった。
しかも、生粋の身分・血統主義者。プライドが高そうだけに自ら退くとは思えない。
周囲はどちらかに加担するよりも静観するのが賢いと判断し、中立を維持しているのだ。
このままでは駄目だわ。互いの主張を相手にぶつけるだけになる。どうすればいいの……。
リーナは考えた。そして、すぐに思いついた。
私は大人だわ! 大人として対応しないと!
リーナは息をこれでもかというほどに吸い込むと、一気に吐き出しながら叫んだ。
「聞いて下さい!」
どう見ても控えめで大人しそうなリーナが大声で叫んだため、アリアドネとアーヴィンはぴたりと言い合うのを止めた。
「率直な意見を伝えあうことはいいことですが、冷静さを欠いているように見えます。まずは深呼吸をして、冷静さを取り戻して下さい!」
リーナはなんとかして二人を説得し、言い合いを止めたいと思った。
そこでまずは冷静になることを説き、自らも深呼吸をして見せた。
「エルグラードもデーウェンも身分社会です。自らの身分に相応しく振る舞おうとするのは当然のことだと思います。ですが、ここは王立学校。様々な身分の者、他国の者も通っています。それだけに多種多様な考え方があり、また、人として共通し理解し合えることもあります。愛、自由、平和。友情や信頼。公平さや平等さも。身分社会や普段の生活の中では見えにくいこと、わかりにくいことを感じ、学べる場所であることを忘れないで下さい!」
リーナが真っ先に言葉にしたのは、王立学校という場所が特別であるということだった。
しかし、それは多くの者達が考えるものとは違った。
多くの者達は王立学校のことを王族のための学校、王族に仕える優秀な者達を育成するための学校だと思っていた。
身分社会の縮図だと思う者もいる。
一歩外に出れば身分による差別化が当然のごとくある世界に生きているというのに、学校内では生徒として身分が関係なくなり、生徒として公平で平等になる。
現実を生きるために必要なことを学ぶ場所だというのに、なぜ現実とは違う扱いを受けるのか納得できず、不愉快に思う者達が多くいた。
だからこそ、リーナの見解はその場にいる多くの者達を心底驚かせた。
「次に、身分社会には高位の者がいます。高位の者ほどその身分に相応しく振る舞うように学ぶはずです。王族らしく、貴族らしくということです」
リーナはアリアドネとアーヴィンを交互に見た。
「では、お尋ねします。このような場所で言い争うようなことをするのは高位の者として相応しい行為なのでしょうか? 私は非常にみっともない行為だと思います。自らの誇りと名誉を守るどころか、むしろ傷つけてしまうかもしれません。どんな身分の者であっても、このような場所で言い争ってもいいなどとは思えません」
アリアドネとアーヴィンは言い返せなかった。
冷静さを欠き、相手を罵るような行為、言い争いをするのはみっともない。どんな身分の者であっても。
自分では誇りと名誉を守るためだと思っても、他の者達には違うように感じられるかもしれない。見苦しい、愚かだと思う者もいる。
高位の身分に相応しい振る舞いではないことは明白だった。
「身分が高いことには理由があります。身分のある家に生まれつくことだけが理由ではありません。高い身分に相応しい寛容さと慈悲深さ、相手への配慮を忘れないようにする。多くの者達を導いていく者として信頼と尊敬を集めるような振る舞いを心掛ける。このような高い志を保ち続けるよう努力することもまた理由の一つではないでしょうか?」
リーナは身分が高いという理由を出生によるものだけでなく、高い志にもあるという考えを示した。
「私は大人として冷静に公平に状況を見ています。どうか私の意見を参考にして、自分がどうすべきかを考えていただけないでしょうか? お願い致します!」
リーナは未成年の者達に対し、自分は大人として振る舞った。
それは自分を上で相手を下にすること、従わせることを正当化するためのように思える。
学校の教師達はまさにこれを利用し、自分達よりも身分の高い生徒や反抗的な生徒を従わせ、抑えつけようとすることがよくあった。
しかし、リーナは自分の意見や判断を無理やり押し付け、受け入れさせるような言い方はしなかった。
大人だからこその客観性、冷静さや公平さを示し、自分がどう思ったのかを伝えた。
それを参考にして、アリアドネとアーヴィンがどうすべきかを考えて行動するという自主性を尊重した。
未成年だといって軽視するつもりはない。落ち着いて考えれば正しいこと、選択すべきことがわかるはずだという信頼が込められているようにも感じられた。
やっぱり全然違う! 学校の教師とは雲泥の差だわ!
説得力がある。反論するのは愚行だ。
そう思ったのはアリアドネとアーヴィンだけではなかった。様子を見守っていたマリウス、ディラン、大勢の者達も同じだった。
「……仕方がありませんわね」
アリアドネは不機嫌そうな表情のままだったが、この場を収めたいというリーナの気持ちと提案は受け入れるつもりだった。
「ここはリー」
待って!
素性が!
リ?
名前がわかりそうだ。
それぞれの心の中に動揺と疑問と期待が走る。
「スティティアの名において、正当なる判断がなされたことにします」
リースティティア?
ああ……女神でしたか。
正義の象徴ですか。
ちっ。
アリアドネが口にしたのは、正義の女神の名前だった。
リーナの言動が正義の女神リースティティアのようだと感じたからこその言葉だったが、他にも同じように感じる者達が多くいた。
リーナの馬車が用意された。
黒塗りのシンプルな箱馬車には素性を示すようなものは一切ない。
リーナの素性に興味を持ち、何かわかるのではないかと思いながら遠巻きについて来たティファニー達を含む大勢の生徒達はがっかりした。
「もうお別れかと思うと悲しいですわ。もっとお話したかったのに!」
アリアドネはリーナにすがりつくように寄り添った。
「またお会いできる機会があると思いますので、その時に」
「そうね。結婚式には行くから」
リーナは瞬時に動揺した。
「えっ? あ、はい……」
「大変申し訳ございません。時間がありますのでそろそろ」
マリウスが口を挟んだ。
帰宅時間が遅くなるだけでなく、これ以上の会話は大失言につながるのではないかという懸念からの行動である。
「わかったわよ。ところで貴方、凄い美形ね。貴族出自?」
アリアドネの興味はマリウスの方に移った。
「重ね重ね申し訳ございませんが、答えるわけにはまいりません」
「残念ですわね」
貴族出自の場合は詳しく調べ、デーウェンにいる友人達に紹介する人物の中に含めようと思っていただけに、アリアドネはがっかりした。
「お嬢様」
リーナはもう一度挨拶をするために姿勢を正して手を揃え、アリアドネ、ディラン、アーヴィン、周囲の者達を順番に見回した。
「皆様、本当にありがとうございました。試験の結果がどうなるかはわかりませんが、これまでに勉強したことや経験したことが今の自分につながっているということを強く実感できました。王立学校に来たことも良い経験になったと思います。これからも勉強や努力をして、少しずつでも自らを向上できるよう頑張ります」
リーナは本心からの想いを別れの言葉にした。
「どうかお元気で。これで失礼させていただきます」
リーナは軽く首を傾けた。
その時、多くの者達は悟った。
リーナは親しそうとはいえ、デーウェンの大公女にさえ頭を下げないような身分、あるいは強い立場の者だと。
リーナが馬車に乗り込むとマリウスも続き、ドアが閉まるとすぐに馬車は動き出した。
リーナさんが行ってしまう……王宮で一緒にお茶はどうかと誘ってくれればいいのに! ああ、でも王宮なんて言ったら即バレですわね。
アリアドネは盛大なため息をついた。
私も早く帰らないとですわ。この後、うっかり口を滑らせてリーナさんの名前を出したら大変ですもの!
アリアドネはディラン達を無視したまま、急いで自分の馬車乗り場へ移動することにした。
取り巻きもそれに続き、集まった者達も移動を始める。
「気になりますか?」
黙ったままのアーヴィンにディランは尋ねた。
「当たり前だ」
ディランとアーヴィンは昨日の時点ですでにリーナの素性を調べさせた。しかし、どのような者なのかは一切判明しなかった。
時間がなかったとはいえ、このこと自体すでに只者ではないことをあらわしている。
そこで試験の後、混雑しやすい馬車乗り場には自らが直接指示を出すことにした。
生徒会としての仕事をしながらリーナが来るのを待ち、使用している馬車を確認するつもりだった。
予想外にもデーウェン大公女と親しい者、将来的には結婚式に行くほどであることもわかった。
それが素性を探る手掛かりになると思ったのは言うまでもない。
「面倒なことになるかもしれない。お前が話しかけるからだぞ」
この時期で結婚式と聞いて思いつくのは一つしかない。王太子の結婚式だ。
アーヴィンは責めるような視線を向けたが、ディランは全く気にすることはなかった。
「僕はあの女性に会えて良かったと思っています」
「年上が好みだったのか?」
軽口を叩くアーヴィンに、ディランは笑みを浮かべた。
「見た目よりも賢そうでしたね」
「お前の興味を引くのは、あの女性にとって不運だな」
「アーヴィンこそ、興味を持っているようです」
「お前が気にしているからだ」
「消しゴムの件はどう説明する気ですか?」
アーヴィンは興味のない相手に対して構うことはない。ディランが気にしたとしても無視する。迅速に行動して助けるような性格でもない。
そのことをディランも他の者達も良く知っていた。
アーヴィンは舌打ちした。
「もう一回調べてみる」
「そうして下さい。皆もわかりましたね?」
「はい!」
「わかりました!」
次々と生徒会の者達が応える。
「移動します」
ディランは踵を返した。
その表情は平静そのものだったが、内心は違った。
あの女性の素性はまだわかりませんが、人としての気高さを持っているのは間違いありません。見事な対応でした。
ディランは沸き立つような気持ちを必死に抑え続けた。





