724 赤い馬車
開会後、一時間が経過した。
王太子は国王に移動することを告げ、席を立った。リーナもそれに続く。
予定ではこの後馬車で王立歌劇場まで移動する。
リーナはまだ貴族の身分であることから王族用の馬車ではなく、カミーラ達と一緒に女性専用の馬車で移動する予定だったが変更され、王太子と二人だけで馬車に乗って移動することになった。
「やっぱり渋滞が起きているみたい。裏から回るルートになるって」
馬車に乗り込む際、ヘンデルは報告内容をクオンに伝えた。
王宮から王立歌劇場へ行くルートはいくつかある。
最も頻繁に使われているメインルートは、同じく王宮から移動する者達や、王宮歌劇場の側の門から入れず、王宮の別の門から入って検問を受けるように指示された馬車で混雑していた。
そのルートを使えば、当然のごとく渋滞に巻き込まれてしまう。
そこで、クオン達は王族であることを理由に、他の貴族達には使用できない道を使い、ゆっくりと王立歌劇場へ向かうルートを取ることになった。
「護衛騎士が馬車の周囲を固めている。何かあったらクロイゼルに言って」
「お前は来ないのか?」
「王太子の馬車の後続は第二、第三、第四王子の馬車になる。各王族の側近の馬車が続いて、最後尾が女性達の馬車。ある程度は間隔を空けて走ることになるだろうし、駆けつけるにしても時間がかかる。護衛として並走しているクロイゼルの方が早く対処できると思う」
「わかった」
リーナはクオンと共に王族用の馬車に乗った。
馬車が走り出すと、リーナは早速クオンに尋ねた。
「こちらの馬車は乗ったことがない気がします。王家は沢山の馬車を所有しているのですね」
「今夜のテーマに合う馬車が用意された」
リーナは納得した。確かに馬車は赤かった。外装も内装も。
「炎のデザインがありました。火の馬車ということでしょうか?」
「強い信念をあらわす炎だ」
クオンは馬車の知識を披露することにした。この日のために仕入れた知識だ。
「エルグラードや王家の色は赤だ。そこで国王のための赤い箱馬車が作られた。遠くから見ても赤い馬車はよく目立つ。兵士達の士気高揚を狙う目的があったのだが、敵にも標的がわかりやすくなってしまう欠点がある。国王は戦地へ赴く途中で襲撃に遭い、赤い馬車には火がつけられてしまった」
「えっ、火がっ?!」
国王は馬車から脱出したが、馬車は炎に包まれてしまい、焼け落ちた。
そこで、国王はもう一度赤い箱馬車を作ることにした。
また同じようなことがあっては困ると思った重臣達は、違う色の馬車にしてはどうかと進言した。
しかし、国王は色を変えなかった。
敵に襲撃されないように馬車の色を変えれば、軟弱で臆病な国王だと思われてしまう。
エルグラードの国王は敵を恐れない。襲撃にも負けない。自らの馬車が炎で包まれても戦うという強い信念を示すため、あえて炎のデザインを取り入れた赤い馬車を作らせることにした。
「かなり古い時代からの風習で、戦争が多い時には何台もの赤い箱馬車が作られた。しかし、戦争がない時代になると赤い箱馬車を使用することはほとんどなくなった。現存しているのは二台だけだ。今回は特別に赤という趣向に合わせて利用することにした」
「では、こちらは戦争に行く際に国王陛下が乗る馬車なのですね」
「国王が自ら戦地に赴いたのはかなり古い時代だけだ。その後は王子や将軍が派遣され、平和な時代は国王の強さを表すような行事に使用された。今夜は私の信念の強さを表すために使用することにした」
クオンは迷った。だが、今夜のテーマは愛である。
馬車で二人きりの時間を過ごせるようにと、弟達が配慮したことを無駄にするわけにはいかない。
クオンは勇気を出した。
「リーナ、愛している。馬車の炎は、私がお前を想う愛の炎だ」
火が出た。
リーナの顔からである。
いきなりそんなこと言われても……!
リーナは耐えきれずにうつむいたが、そのまま抱きしめられた。
駄目! 胸が苦しくて恥ずかしい!!!
リーナは心の中で叫んでいたが、クオンもまた同じく恥ずかしさに耐えていた。
……愛の言葉は必須だ。今宵は多くの者達が愛の言葉を伝える。私もその中の一人というだけだ。深く考えるな。いや、考えろ。冷静に。大丈夫だ。これが普通なのだ。愛する女性に愛の言葉を伝える。その経験によって私は成長し、この恥ずかしさを克服することができる!
照れる者同士、言葉は心の中だけに留めたため、馬車の中は静かだった。
嬉しさと恥ずかしさと混乱と動揺が混ざりあっているような雰囲気を打破すべく、クオンは勇気を出した。
「……顔を上げて欲しい」
そう言ったのは口づけをするためだ。
しかし、リーナにはできなかった。
「今は無理です。恥ずかしくて……」
無理だと言われると、クオンは何もできない。
愛するがゆえに、配慮してしまう。
「無理にとは言わないが……少し落ち着いたら顔を上げて欲しい」
「このままもう少し……」
やはり次へは進めない。
悩める二人の頭の中に思い浮かんだのはある一つのこと、しかも、同じことだった。
食事。
「……あまり時間はないのだが、軽食が用意されている。少しだけでも食べるか?」
リーナは顔を上げた。
「クオン様の側近の方々がいつも召し上がっているお弁当だと聞きました。たまには王宮以外の食事もいいのではないかということで用意されたと聞きました」
「私はリーナの好みそうなものにしろと言ったのだが」
「でしたら私の好きなものが入っているお弁当でしょうか?」
二人の興味は一気に弁当に向いた。
「見てみるか」
「そうですね」
軽食は馬車の中にある荷物入れの中に入っていた。
「鍵がかかっているのですね」
「基本的には食事を入れるための場所ではなく、貴重品入れや金庫だ。だが、鍵をかけていれば、毒を入れにくい。キルヒウスとパスカルが手配し、ヘンデルが安全を確認して馬車に入れたはずだ」
「箱ですね」
荷物入れの中には二つの箱が入っていた。
リーナは箱を受け取ると、封蝋部分から丁寧に包み紙を外した。
出て来た箱の蓋にはウォータール・パーク美術館の文字がある。
「美術館?」
「もしかして……」
品書きには、幸運をあらわす七種類のサンドイッチ。キャビア、キノコ、ロブスター、フォアグラ、ターキー、ローストビーフ、チョコレート。ハートのプリンとある。
「これはウォータール・パークの美術館で食べられる特別なサンドイッチです!」
リーナは興奮気味に叫んだ。
「またこのサンドイッチを食べることができるなんて、とても嬉しいです!」
クオンは眉をひそめた。
「また? 食べたことがあるのか?」
「全部ではないのですけれど、ローストビーフとフォアグラとロブスターは食べたことがあります。お父様と一緒にウォータール・パークを乗馬で散歩して、その後ランチを美術館で食べたのです」
「昼食を美術館で取ったのか……普通はレストランに行くのではないか?」
「このサンドイッチはお兄様が成人したことを祝う特別な催しのためのサンドイッチだったのです。でも、美術館を訪れる人々に幸せな気分を届け続けるために、催しが終わった後も提供されています!」
「特別なメニューだったが、通常メニューになったということか?」
クオンはサンドイッチに興味を持ち、真面目に質問したつもりだった。
しかし、リーナは少しだけムッとした表情になった。
「なんだか格下げになったみたいな言い方です。そうではありません!」
「いや、そういうつもりで言ったわけではない。事実の確認をしただけだ」
「味を確かめたいので、早速食べてもいいでしょうか?」
「構わない」
リーナは手袋を外すと、端から順番ではなく、ローストビーフのサンドイッチを取り出して食べた。
ピリッとした辛さに絶妙な赤ワインのソース……絶対に間違うはずがないわ!
リーナは口の中に広がる感動を味わいながら、間違いなくレーベルオード伯爵と外出した時に食べた特別なサンドイッチであることを確認した。
「間違いありません! これはウォータール・パーク美術館のカフェだけで味わえるサンドイッチです」
今ここにあるということは、カフェ以外でも味わえるということだが……。
クオンはそう思ったものの、リーナの言葉を否定しないように別の言葉に変えた。
「特別に取り寄せたということか」
「そうだと思います。あるいはレシピ通りに他の者に作らせたとか」
「その可能性もある」
「クオン様は食べないのですか?」
クオンはサンドイッチを見つめた。
「……お前はなぜ端からではなく、ローストビーフのサンドイッチから食べた?」
「以前食べたサンドイッチと同じかどうかを確認するためです。端から食べるとキャビアになります。でも、キャビアのサンドイッチは食べたことがないのでわかりません」
「味を確認するためか」
「もしかして……マナー違反だったのでしょうか?」
「普通は端から食べるとは思った。具材の並び方もそれを暗示している」
「並び方?」
リーナはサンドイッチの具材を確認した。
「あっ!」
サンドイッチはキャビア、キノコ、ロブスター、フォアグラ、ターキー、ローストビーフ、チョコレートの順番になっている。
キャビアは前菜によく出てくるものだ。キノコはサラダのようなもの、ロブスターは魚料理、フォアグラ、ターキー、ローストビーフは肉料理、チョコレートをデザートに例えることができる。コースの順番と同じだ。
「気が付きませんでした。端から食べるとコース料理と同じような順番になるのですね」
「キノコという具材がなぜこの場所にあるのか不思議に思った。だが、料理が出てくる順番を考えると、あてはまるように思える」
「美味しくて見た目も綺麗なだけではなく、食べる順序まで考えられているわけですね!」
「となると、キャビアから食べるべきか」
「そうですね。失敗しました」
クオンは微笑んだ。
「大丈夫だ。やり直せばいい。一種類につき二切れずつある。キャビアから順番に食べれば、次のローストビーフは順番通りだ」
「そうですね」
二人は共にキャビアのサンドイッチを食べた。
揃って無言のまま、サンドイッチを見つめる。
先に言葉を発したのはリーナだった。
「クオン様」
「なんだ?」
「卵が入っていると思いませんでした」
「私もだ」
一見しただけだと、チーズクリームとキャビアとハーブ、カナッペの上に盛られているような具材のサンドイッチに見える。しかし、それはまさに見える部分だけで、中央にはゆでたまごが挟んであった。
「レモンのような酸味がありました。レモン汁でしょうか?」
「クリームに混ぜたか塗ったのではないか?」
「かもしれません」
「美味だった」
「本当に……ゆで卵とキャビアがこんなに合うなんて! マヨネーズが最高だと思っていたのに驚きです!」
「確かにゆで卵とマヨネーズの組み合わせは美味しい。だが、この組み合わせも美味だ」
「キャビアがクリームチーズと合わさることで丁度いい味になります」
「薬味のハーブも香りと食感を添えている」
「最高級の前菜のようなサンドイッチですね」
「そうかもしれない。もう一度食べるか」
「はい!」
二切れ目。
二人は驚きに目を見張った。
見た目は全く同じように見えるが、中央部分はゆで卵ではなくサーモンになっていた。
「……これも美味だ」
「そうですね。ゆでたまごも美味しかったのですが、こちらも凄く美味しいです」
「具材の組み合わせはカナッペと同じようなものだが、サンドイッチにしても合うようだ」
王宮において、キャビアはカナッペなどの前菜に使われる食材で、サンドイッチに使われるものではなかった。
「私、カナッペよりもサンドイッチの方が好きです。柔らかいパンが好きなので」
「正直に言うと、私もサンドイッチの方がいい気がした。まさに優しく包み込むような味わいだ」
「次はキノコですけれど……美味しいでしょうか?」
「秋という季節感のある食材だが、所詮キノコだからな。だが、最初のサンドイッチがこれほど美味だと、期待が高まる」
「では……食べます!」
「普通に食べればいい」
二人は二種類目のキノコのサンドイッチを食べた。
これが……キノコなのか?!
もの凄く美味しい!!!
濃厚な赤ワインと肉のうまみが凝縮したソースがじっくりと沁み込んだキノコは美味としかいいようがなかった。
サラダのようなさっぱりとしたものではなく、十分にメインになりそうなものだった。
「美味いな」
「美味しいですね」
次の味が気になって仕方がない。
二人は次々とサンドイッチを食べては、そのサンドイッチについての意見を述べた。
楽しく会話をするというよりは、大真面目にサンドイッチの批評をしながら絶賛する時間になった。
そして、最後に残ったハートのプリン。
カラメルソースはついていないシンプルなプリン。口の中ですっと溶けてしまいそうなほどなめらかなプリンは絶品としかいいようがなかった。
「これは間違いなく最高のプリンです!」
「卵の濃厚な風味を残しつつ、口当たりがとてもいい。美味だ。もう一つ食べたくなる」
「もっと大きなプリンだったら良かったですね……あっという間になくなってしまいました」
「どれも一口大で食べやすい。見た時はボリュームがあると思ったが、食べ始めるとあっという間になくなった」
「私はサンドイッチを一つ減らしてプリンが二個の方が良かったです。でも、チョコレートは減らしません。むしろ、増やしたい具材です」
「軽食が気に入ったのはわかる。また食べたいと伝えれば、いずれ食べられるだろう」
「そうですね。クオン様ならなんとかしてくれそうです」
「これでも王太子だ。この程度のことであれば、なんとかできるだろう」
「王太子で良かったです」
「私が王太子ではなかったらどうする?」
リーナは迷うことなく答えた。
「お父様かお兄様に頼みます。ウォータールはレーベルオード伯爵家が所有しているので、何かと融通が利くと聞いています。サンドイッチもプリンも今夜みたいにお取り寄せして貰えそうです」
クオンの中に、レーベルオードへの対抗心が沸き上がる。
リーナにとってレーベルオードの親子は家族だが、クオンにとっては違う。臣下だ。
「大丈夫だ。私は王太子だ」
クオンははっきりと威厳ある口調でそう言った。
リーナはその様子を見て、自分の恋人はエルグラードどころか世界一頼もしい男性だと思った。





