711 宣伝対応
ロジャーの指示により、着々とリーナのための特別な通路が作られた。
フロスト・フラワージェの関係者はレーベルオード伯爵令嬢が内密に参加していたものの、そのことが知られてしまったため、安全確保のための特別な通路を設けることになったことを説明した。
発表会に来ていた女性達は思いがけない出来事に興奮し、王太子の婚約者の姿を見ようとすぐに特別な通路を作るために張られたロープの側に移動し、最前列を確保し始める。
王立歌劇場の係員や警備員、フロスト・フラワージェの関係者は急いで準備をしたものの、確保するための通路部分が長いこともあって作業が進みにくく、ようやく確保できたと思った頃に、丁度王宮からの応援というよりはリーナを迎えに来た者達が到着した。
正面玄関を入った所にあるロビーには大勢の女性達がひしめいており、二階からリーナが降りてくるのを待ち構えていた。
しかし、それよりも先に予想外の人物が騎士達を引き連れて現れた。
金髪碧眼。まるで物語に登場する王子のように美しく甘い容姿。
多くの姿絵が出回っているが、その美しさは到底実物にはかなわない。
高貴なオーラと共に優しく温和な空気を纏うその者は一瞬で女性達を魅了した。
「妹を迎えに来ました」
警備の者に伝えたその言葉だけで、誰であるかもまた明白だった。
「パスカル様ーーーっ!!!!」
「レーベルオード子爵だわ!」
「きゃああああああああ!!!」
「本物よおおおおおおお!!!!」
「素敵過ぎるっ!!!」
「信じられない!!!」
パスカルは社交界、いや、エルグラードで最も有名な貴公子の一人だけに、女性達は瞬時にその正体を見破り、熱い視線を向けつつ興奮の叫び声を上げた。
せっかく女性達が落ち着いたのに!!!
警備の者達はパスカルの元へ殺到しようとする女性達を必死で抑える羽目になった。
「なぜお前が来る? 余計に騒ぎになるではないか」
王族席の間に姿をあらわしたパスカルを見て、ロジャーは顔をしかめた。
「王太子殿下は重臣会議に出席中です。ヘンデルも控えていなければなりません。何かあれば、私が対応することになりました」
「簡単に状況を説明する」
リーナが一階の様子を見に行った際、名前を聞かれた。思わず正直に答えてしまったため、内密で来ていることが判明してしまった。
一目見たい、握手をしたい、名刺を渡したいなどと発表会に来た者達が騒ぎ出し、最終的には一階のみならず上階にいる者達にも伝わってしまった。
このまま逃げ去るように帰っては印象が悪いため、大理石の間を少しだけ視察しながら姿を見せて笑顔を振りまき、王太子の婚約者としての立場と好印象を宣伝する。それから王宮に帰ることになった。
「大理石の間には何があるのですか?」
「フロスト・フラワージェというブランド品の即売会が行われている。臨時の店舗のようなものだ」
「かなりの広さがありますが、全て即売用の場所なのですか?」
「そうだ。悲劇の間方面から入り、喜劇の間の方に抜ける。一方通行だ。最後の広間は商品を購入するための会計コーナーになっている」
「せっかく来たので、何か土産を買いましょう。私がエスコートします」
エスコート役は交代になった。勿論、そうなるだろうと誰もが予想していた。
「ロジャーが先導してくれるのですか?」
「クローディアが先導する。発表会には何度も来ている。商品についても説明できる。フロスト・フラワージェの関係者も側についているが、直接リーナに説明するのは王太子の婚約者という立場が判明してしまった以上、控えた方がいいかもしれない」
「さほど気にしなくていいでしょう。妹はまだ貴族ですので、王族のように取次が必ず必要というわけではありません。長居するほど迷惑がかかりますので、すぐに行きます」
パスカルは手を差し出した。
「手を」
「はい」
リーナが出したのは右手だったが、パスカルは目ざとく左手に指輪がないことに気付いた。
「指輪は?」
「お忍びだったので、ロジャー様に預けました」
「つけた方がいいか?」
「素性が判明した以上、つけた方がいいでしょう。今はかなり控えめな姿ですが、手を振れば指輪が見えます。視線が衣装から指輪に向きやすくなるので丁度いいかと」
リーナが姿を現せば、女性達の視線が注がれるだけでなく、どのような容姿か、衣装かなどといったことが細かくチェックされる。
お忍びであるからこそ地味な装いをしていると思うかもしれないが、王太子の婚約者として女性達が求めている装いではない。
そこで王太子から贈られた指輪をつけ、女性達の気を衣装から少しでもそらすという作戦だ。
しかし、エスコート役がパスカルという時点で、女性達の視線はパスカルに向くばかりか固定されることは間違いない。そのことをあえて指摘するものはいなかった。
ロジャーが指輪をポケットから取り出すと、すぐにパスカルが手を伸ばした。
「私がつけます」
ロジャーがリーナに指輪を渡すのではなく、左薬指に直接はめるのを阻止するためだった。
「渡すだけだというのに」
「妹も指輪も大切ですので」
周囲からのぬるい視線をものともせず、パスカルはリーナの薬指に満月の指輪をはめるだけでなく、軽く指先に口づけた。
「これでいい」
パスカルは多くの女性達がうっとりするような笑顔を向けるものの、リーナはその笑顔に魅了されることはなかった。
うまく笑顔で手を振れるかしら?
リーナの思考はパスカルでも買い物でもなく、うまく手を振ることができるかどうかに向いていた。
王族席の間にいることはロープが張られていることからもわかる。
ドアを開けて廊下に出た瞬間、大勢の女性達の熱い視線が一気にドアから出てくる者に注がれた。
しかし、最初に姿を現したのはフロスト・フラワージェの関係者である。
女性達の表情が一気に曇ったが、続々と出てくる者達を見ると、一気に息を吹き返したかのように表情を輝かせた。
「パスカル様!!!」
「レーベルオード子爵!!!」
「リーナ様!!!」
パスカルへの掛け声が多いのは仕様だと思いつつ、先導役のクローディアは無表情を固定したまま廊下を歩き出し、パスカルとリーナ、その後にカミーラとベルが続いた。
一行の両端は護衛騎士達が固めているため、リーナやパスカルの姿が見えるのはその合間からでしかない。
女性達は悲劇の間方面に行ってしまった一行を見送った後、喜劇の間方面に移動した。
リーナ達がどのようなルートで移動するかはわかっているため、最初は悲劇の間方面へ行く廊下に陣取る女性が多かった。
しかし、大理石の間に入ると、出てくるのは逆側になる。
「行っちゃったわ……」
「パスカル様……」
「移動よ!」
「もう一回見れるわね!」
「急がなくちゃ!」
女性達は我先にと廊下を走って移動を始めた。
大理石の間の中にいた女性達はパスカルが来たことを知らないまま、緊張と興奮に胸を高鳴らせつつリーナの登場を待っていた。
しかし、予想外のことが起きた。
リーナは一人ではなかった。エスコート役がいた。
大理石の間に陣取っていたのは身分の高い者達であるために、勿論それが誰なのかは瞬時に理解した。
「きゃあああーーー!!!」
「ええーー?!?!」
「パスカル様がいるなんて!!!」
「いらしてたの?!」
「今日ここに来てよかった!!!」
悲鳴に近い声が次々と上がる。
リーナは兄の人気の凄まじさを痛感するとともに、自分は添え物に過ぎないと感じ、むしろ緊張が解けた。
「みんなに挨拶をしようか」
「はい」
パスカルがにっこりと笑って手を上げると、それだけで歓声が大きくなった。
リーナもそれに合わせて同じようにするが、どう考えても女性達の熱い視線は兄に向けられているとしか思えなかった。
全然大丈夫そうだわ! みんな、お兄様を見ているし!
リーナは自分もしっかりと見られているという認識が薄くなり、心からの笑顔を浮かべることができた。
リーナはパスカルと共にフロスト・フラワージェの商品を簡単に見て回り、あらかじめ薦められていた品の中からいくつかの商品を選んで購入することにした。
「僕も文具を買おう」
「お兄様も買うのですか?」
リーナはパスカルが買い物をするとは思っていなかっただけに驚いた。
基本的にフロスト・フラワージェは女性用品である。文具は男性が使っても問題ないが、パステルカラーの色合や冬をモチーフとした模様が描かれており、上品でありつつも女性向けの商品だった。
「せっかくだからね。お土産にするよ。ここにある品は大量に購入できるのかな?」
「同じ品は十点までしか買えません」
クローディアが答えた。
「メモ用紙の場合、全ての色や柄から十点ということかな? それとも各十点?」
「各十点です。全く同じ品でなければ問題ありません。そうですね?」
「はい。メモ用紙はそれぞれの色や絵柄違いにつき十点ずつ購入できます」
フロスト・フラワージェの接客係が答えた。
「じゃあ、全ての絵柄と色のメモ用紙を十点ずつ買うよ。何か入れるものはないかな?」
絵柄は五種類。色は各四色。それぞれを十点ということになると、二百個買うことになる。
「カゴが……」
買い物カゴは用意してあるが、一つだけしかない。リーナの分だけだった。
「共通で使えばいいよ。リーナのカゴに入れてもいいかな?」
「勿論です」
「重くなるから持つよ」
「大丈夫です。私が持ちます」
クローディアは断ったが、パスカルは首を横に振った。
「女性に重い物を持たせるなんてできないよ」
「そちらのカゴは私が持ちます」
フロスト・フラワージェの接客係がカゴを持つ役を引き受け、クローディアはカゴの中に大量のメモ帳を入れた。
「欲しいものがあればいれるといいよ。リーナだけでなく、みんなも入れればいい」
「お気遣いなく」
「先に見ていましたので」
カミーラとベルは断ったが、クローディアはペンを持って来るとカゴに入れた。
「ペンを一つ入れましたので、ご了承くださいませ」
「クローディア、辞退しないのですか?」
カミーラが確認するように尋ねると、クローディアは無表情のまま答えた。
「レーベルオード子爵に何か買っていただける機会は、これが最初で最後かもしれませんので」
しまった!
カミーラとベルは即座にそう思った。
「二人も遠慮しないで欲しい。今日は妹に付き合ってもらっているからね」
「……では、お言葉に甘えて私もペンを一本だけ」
「私もペンを」
カミーラとベルも好みの柄のペンを入れると、リーナは更にペンを何本か加えた。
「後でラブやヴィクトリア様にも差し上げたいです。お好きなものがわからないので、この中から選んで貰おうかと思うのですがいいでしょうか?」
「構わないよ。王太子殿下にも何か一つ差し上げたらどうかな?」
「えっ?!」
「便箋やカードでもいい。外出を楽しんだという手紙を渡せば喜ぶよ」
「そうですね! 便箋のセットを買います! お兄様のお土産は王太子府の方々にですか?」
「王太子付きの侍女達に。これを渡せば、フロスト・フラワージェがどのようなブランドなのかわかる。お土産として渡すといいよ。きっと喜ぶ」
「お兄様は本当に優しい方ですね。では、私もメモ用紙を購入します。後宮の侍女達にもお土産を渡したいのです。よろしいでしょうか?」
「ハンドクリームとリップクリームも買っておこう」
「それもお土産ですか?」
「いや、自分用かな。中身はブルーマリーだから」
「えっ、ブルーマリーなのですか?」
「そうだよ。いつも使っているジャスミンのものと同じはずだ」
「私も買います!」
結局、買い物カゴは溢れそうになってしまったために追加され、パスカルは大量の品々を購入した。
商品を個別包装するのは時間がかかるために避け、配送用の箱や袋に分けて入れたものを序列の低い騎士達が運ぶことになった。
「色々と手間をかけさせてしまったね。ありがとう」
パスカルが微笑みながらそう言うと、フロスト・フラワージェの責任者はぶんぶんと音が出るのではないかと思うほどに首を振って否定した。
「とんでもございません! お忙しいところ、わざわざ足をお運びいただき、大変光栄に思っております!」
「妹にはいい経験になったと思う。フロスト・フラワージェのことは土産を渡して宣伝しておくよ」
「ありがとうございます! 心から感謝申し上げます!」
「帰ろうか」
「はい」
パスカルは正面玄関のロビーに集まった女性達を向いた。
「妹に配慮してくれてありがとう。この後もフロスト・フラワージェの発表会を楽しんで」
「皆様、お騒がせしてすみませんでした。ご親切にしていただき、ありがとうございました」
「パスカル様~!!!」
「リーナ様~!」
「お幸せに~!」
「お名残り惜しいです~!」
パスカルとリーナが挨拶をすると、女性達は感極まった表情で叫びながら手を振った。
パスカル、リーナ、シャルゴット姉妹を乗せた馬車が騎士達に守られるようにして王宮に向かってしまうと、多くの女性達は寂しくも、パスカルとリーナが残していった優雅で優しく温かい余韻に浸った。
フロスト・フラワージェの発表会はパスカル=レーベルオード子爵とその妹で王太子の婚約者であるリーナ=レーベルオードが来場した話題で持ちきりになり、大いに盛り上がった。
また、即売会は過去最高の売り上げを記録することになり、関係者は発表会の大成功に心から安堵の息をついた。





