677 ボックスでの事前説明
王立歌劇場に着くと、リーナ達は素早くボックスまで移動した。
蝶の仮面をつけた関係者達が仕事をするため急いでいると思われたのか、特に声をかけられることもなかった。
「お兄様達は目立つから下がってて。女性達だけで眺めを確認するから」
ベルがそう言うと、すぐにヘンデルが注意した。
「あまり乗り出さないようにね? 特にラブちゃん」
「子供じゃないんだから!」
ヘンデルの言葉にラブは即反応したものの、カミーラとベルは完全に無視してリーナと共にバルコニーへと向かった。
会場を見たリーナは驚いた。
「凄いです!」
リーナは王立歌劇場に来たことがあるが、それでも多くの人々で溢れる会場の光景に驚きを隠せなかった。
「ここの上限は約五千人なの。つまり、王太子殿下の音楽会は上限まで招待客を入れたってこと。今回は年齢制限のこととか、ダンスエリアを確保しないといけないのもあって、チケットは四千枚。売れ行きが心配されたけれど、完売したわ!」
平日の夜に大掛かりな催しをしても、いつもであれば売れ行きが悪い。
しかし、今は婚活ブーム。
最初から販売は好調で、王太子府の者達がチケットを大量に買い漁ったことから、他の重要府や中央省庁の官僚、騎士達も競うように購入し、あっという間に完売してしまった。
「このような催しをすると、チケットの販売でかなり儲かってしまうのではありませんか?」
リーナは社交グループについて勉強中である。しかも、自分で主催するにはお金がかかるということもあり、金銭的な部分に関しても非常に強い興味を持っていた。
「ケースバイケースね。チケットが完売すればいいけど、大掛かりな催しほど、チケットが売れ残るものなのよ。今回は完売したから黒字みたいだけど、王立歌劇場は貸し切るのに最低でも場所代だけで百万かかるの。平日の夜だから、これでも安い方なのよ。週末や祝日だともっとかかるの」
「百万……ギールですよね」
「当たり前でしょ!」
ラブが鋭く言った。
「飲食代は別。ブッフェは一人三百よ。四千人分だから百二十万ギール。つまり、最低でも二百二十万かかるわけ。チケットを全部五百で売ったら二百万。二十万足りないわ」
「大赤字ですね……」
「ここだとオーケストラの費用も高いのよね。会場の飾りつけも貧相にならないようにしないといけないし、チケットやチラシの作成費とか経費を考えたらとんでもないほどの大赤字よ。だから、八百や千のチケット、他にも色々売って補うの。王立歌劇場で五百は信じられないほど格安なのよ!」
「計算すると確かにそうですね」
「お金の話は帰ってからでもいいでしょ。まずは会場を見たら? 参加中にしか勉強できないことを優先すべきよ」
ラブの指摘に慌ててリーナは視線を戻した。
「わからないことがあったら聞いてね。開会式が始まるまでは静かにしなくても平気よ」
「王族席のボックスも使っていいのですね」
正確にはバルコニーの手すりだ。王族席のボックスは赤いカーテンで隠されている。
バルコニーの手すりには白、灰色、黒の旗がつけられていた。それぞれ、白蝶会、二蝶会、黒蝶会の旗である。
白と黒を合わせると灰色になるため、二蝶会の色は灰色だった。
「貸し切りにすると、王族席のボックスも使えるの。でも、普通の使用方法は駄目。普通は赤いカーテンで隠されてしまうのよ。でも、持ち込んだ旗や横断幕、装飾品なんかをバルコニーの手すりのところにつけることはできるのよ。ちなみに有料よ」
「有料?!」
「そうなの。あそこはオプション料金。払わないと、立入禁止で使えないだけになるの。バルコニーの手すりに何かをつけることもできないわ。だって、王族席のある特別なバルコニーだもの」
「まあ、そうですね……」
「ここを貸し切って結婚披露宴をするとなると、一千万はかかるらしいわ」
一千万、つまり十億ギニー……
リーナは黙り込んだ。あまりにも桁違いだと思うしかない。
「場所代を払っても、王立歌劇場の全てを自由に使えるわけじゃないの。オプションとか、飲食費とか、様々にお金がかかるのよ。チケットや招待状を発行するのだって無料じゃないわ。紙代や印刷代が必要なの。販売するのだって手間やお金がかかるわ。主催をするのは本当に大変だし、お金がかかるのよ」
「そうですね……」
以前、クオンは一回主催するだけで百万ギール以上かかると言っていた。それを聞いたリーナは驚いた。
しかし、二蝶会による催しやその事情等を聞くと、百万は安い方ではないのかと思わざるを得ない。青玉会の入会金や年会費も安く感じる。
リーナは自分の金銭感覚がどんどん変になってしまいそうな気がして怖くなった。
「ねえ、お金の話はそろそろやめない?」
ラブがやや不機嫌そうに言った。
「そうですね。別の話題にしましょう」
リーナはすぐに同意した。
「あれは何ですか?」
リーナが次に気になったのは、あちこちに人だかりができることだった。
「あれはダンスの申し込みね」
「何か書いています」
「これです」
カミーラはポケットから小さなカードを取り出した。タッセル付きの紐がついており、輪の部分に腕を通して持ち歩くこともできるようになっている。
「それはなんですか?」
「ダンスカードです。舞踏会などで様々な者と踊る者は、ダンスカードに予約相手の名前や順番を書くのです」
「予約?」
リーナはカミーラのダンスカードを見せて貰った。
すでにそこには書き込みがされている。
「いつ申し込まれたのですか? ずっと一緒にいましたよね?」
リーナはカミーラと同じ馬車で移動している。ダンスの申し込みどころか、ポケットにカードを持っていることさえ知らなかった。
「これは事前に予約の問い合わせがあったので、適当に選んで返事をした者達の名前です」
「適当……」
「ちゃんと選んでいるわよ。カミーラは美人だから凄くモテるの。私が白蝶会に所属しているからカミーラは絶対にチケットを買うし、結構参加してくれるわ。友人や知り合いはそれを知っているから、催しに参加をする気なら踊らないかって誘いが来るわけ」
カードには細かくダンスの順番と時間が書かれている。
「順番だけでなく、時間も書いてあるのですね。これは印刷されています。どこで手に入れるのですか? 会員から買うのですか?」
「正面玄関に物販コーナーがあるの。そこでプログラムとか、それに合わせたダンスカードも売っているの。ペンは別売りよ。チケットと一緒に会員に手配して貰うこともできるけど有料。更に用意する手数料を取られることもあるわ」
「何かと有料なのですね……」
「稼がないと赤字だもの。この時間はあくまでも目安よ。プログラムには曲の演奏順も書いてあるし、そこにある番号と合わせればいいの。第一部の最初の曲には一とあるから、その曲で一緒に踊る相手の名前はダンスカードの一の所に書くのよ」
カミーラのダンスカードの一番の欄にはヘンデルの名前が書かれていた。
「ヘンデル様の名前になっています。ここにいると踊れないのでは? ファーストワルツということですよね?」
「踊る気がない曲や休憩時間の番号欄には兄弟や知り合いの名前を入れておくの。空欄にしておくとダンスの誘いがないように思われてしまうし、誰かに踊ってくれと言われて困るかもしれないでしょう? それですでに予定があるように見せかけるの。書いてあっても、本当に踊る予約をしているわけじゃないのよ。ダミーね」
「賢いです」
カミーラの二番はパスカルの名前になっている。しかし、パスカルはリーナの側を離れる気はない。つまり、ダミーということになる。
「ダンスカードをどう使うかは個人で違うの。ただのメモ帳として使う人もいるしね。みんなが持っているから、手に持ったままでもおかしくないの。いちいちポケットから出す方がかっこ悪いのよ。美しくないの」
「美しい所作をするため、というわけですね」
「それから、ダンスカードを手に持っている女性は踊りますってアピールなのよ。予約の空きがあるとかね。なので、ああやって始まる前とかにダンスカードを持っている女性のところに行くの。ダンスの予約をしたい、空いているか確認するという理由があれば、声をかけやすいでしょう?」
「男性もダンスカードを持っているのでしょうか?」
「ほとんど手には持ってはいないわね。女性とは逆よ。持っている方がかっこ悪いの。ポケットにしまってしまうわ。基本的にダンスは男性から申し込むもので、女性から申し込みはしないでしょう? 自分が申し込んだ相手なら覚えておくべきだわ」
「そうですね」
「でも、舞踏会には多くの人達が踊るために来ているわけだし、有料イベントだから女性から誘ってもいいのよ。だから、女性から誘われた場合はメモとしてカードに書く人もいるの。誘っていい相手の見分け方としては手袋よ。手袋を外している男性は基本的には踊りませんということなの」
「えっ?! 初耳です!」
リーナは驚いた。
「エルグラードは時代と共にマナーが変化してきました。昔は手袋を絶対にしなければならなかったのですが、近年は簡略化されてしまい、なくても無作法にはなりません」
昔は男女が素手で触れ合うのははしたないと思われていたため、常に手袋を身に着けるのが当たり前だった。
現在では食事の際や挨拶の際に外すことになるため、最初からつけなくても無作法にはなりにくいことになっている。
しかし、ダンスに限っては男女が手を取り合って触れ合うことから、手袋の着用が望ましいとされている。
その結果、舞踏会やダンスパーティーでは手袋を身に着けている者が多くいる。これは踊ることを想定している、踊る準備をしてある、踊ってもいいというアピールやサインとして考えられるようになった。
逆に、手袋をしていないのは踊ることを想定していない、踊る準備をしていない、踊りたくないアピールやサインだと考えられた。
「あくまでも目安よ。絶対じゃないの。でも、手袋をしていないと結婚指輪をしているかどうかで独身かどうかもわかるでしょ? 婚姻相手を探しているのに、すでに結婚している人と踊っても仕方がないでしょ?」
「それもそうですね」
「愛人希望ならいいけどね」
ラブの一言に、リーナは困ったような表情になった。
「そういう方もいるのでしょうか?」
「いなくはないわよ。取りあえず、恋人や婚約者、結婚している人は左の薬指に指輪をつけるのがマナーよ。それで決まった相手がいるかどうかの見分けがつくから。手袋をしていない方が見えていいわね。そういうのもあって、手袋をしていない人は注意して見るのよ。ドレスや宝飾品だけじゃなく、手袋や小物も重要なの。ちゃんと意味があるのよ」
リーナは用意された衣装や小物を身に着けるだけだった。しかし、小物などの細かい部分にも何らかの意味があると知れば、身に着けることの重要性も理解できる。
「ということは、私も手袋をしない方がいいのでしょうか?」
「女性は未婚も既婚もした方がいいの。肌を露出しないようにするのは基本でしょ?」
「そうですね」
「でも、そうすると指輪が見えないわ。そこで手袋の上から大きいサイズの指輪をしたり、腕輪をしたりするの。ようするに、誰か特定の相手がいる、贈り物をしてくれるような男性がいることをアピールするのよ」
「なるほど」
「リーナ様は時計が腕輪に見えるから丁度いいわね。しかも、指輪のようなデザインだから、男性はそれを見て特定の相手がいそうだと察するわ」
仮面をつけている時点で誘われにくくはなるものの、絶対ではないことを踏まえ、ベルは解説した。
「実は時計という以外にも有用だったのですね!」
兄と父親から贈られた腕輪のような時計。しかも指輪のようなデザインであることが、リーナに近づく男性に対する牽制であることは疑いようもなかった。





