659 腕時計
「えっ、王宮の購買部に行きたいの?」
夕食時、リーナから明日の予定と希望を聞いたベルは眉をひそめた。
「何か欲しいものでもあるの?」
「いいえ。実はまだ一度も王宮の購買部に行ったことがないのです。どんなところなのか見てみたくて」
「後宮の購買部と見比べたいということでしょうか?」
カミーラの質問にリーナは頷いた。
「そうです。でも、王宮の購買部は複数あって、品揃えが違うと聞きました。どこの購買部に行くのがいいでしょうか?」
少し考えた後、ベルは答えるのではなく質問した。
「買いたいものがあるわけではなくて、単に見学したいだけ?」
「そうです。でも、気になるものがあれば買ってみようと思います。現金も用意します」
「買い物をするのであれば、侍女棟の側にある購買部がいいと思うわ。女性用品が多いのよ。でも、後宮の購買部と比べるとがっかりしそうではあるけれど」
「そうなのですか?」
「全然違うわよ」
リーナはふと思いついた。
「後宮の購買部に行かれたことがあるのでしょうか?」
「あるわよ。入宮中に買い物をしたし」
「えっ!」
あまりにも最近のことだけに、リーナは驚いた。
「側妃候補の時ですか?!」
「そう。ああ、でも特別待遇だからよ。側妃候補は許可がないとあちこちいけないでしょう?」
「そのはずです」
リーナ自身が側妃候補だった時も、側妃候補付きの侍女見習いとして働いていた時も、側妃候補は勝手に後宮内を歩き回ってはいけない。部屋から出るのは外出と同じような扱いになると言われていた。
そのせいで、側妃候補として購買部に行ったことはない。
「私達は特別な事由での入宮だったから、いちいち許可を取らなくても施設見学ということで、後宮の施設のいくつかは自由に出入りできたのよ。まあ、はっきりいってしまうと購買部とか、そこに行くまでにある化粧室の利用ができたってこと。化粧室も貴人用と侍女用があるじゃない?」
「あります」
それこそリーナはよく知っている。貴人用担当だったがゆえに。
「側妃候補とか外部の者とかが使用するのは貴人用なのよ。だから、廊下の途中に化粧室があっても貴人用じゃないと使えないわけ。でも、後宮の施設見学という名目で、侍女用の化粧室も使っていいことになっていたの」
「なるほど」
「まあ、昔よりも品揃えが増えていてびっくりしたわ」
「えっ?!」
またもやリーナは驚いた。
「側妃候補になる前にも来られたことがあったのですか?」
「あったわ。お兄様の付き添いでね。女性達にお菓子を配るので、どれにするか選ぶのと荷物持ちを兼任という形で同行したのよ。初めて行ったのは十七歳の時ね。本当に驚いたわ。まさか後宮の中にデパートがあるなんて思わなかったから。さすが後宮だと思ったわね」
リーナは自分も初めて購買部に行ったときは驚いたことを思い出した。
その時は後宮の中に商店街があると思った。しかし、レーベルオード伯爵家にいた頃にパスカルと貴族が利用するデパートに行ったため、今ならデパートがあるとも思える。
まさに経験によってリーナの考え方、理解の仕方が変わっている証拠だった。
「……そうですね。確かにデパートみたいです」
「ああいうのがあれば、後宮から出なくても買い物ができるし、消耗品とかはあそこで買えば困らなさそうよね。勿論、あるものの中から選ばないといけないわけだけど、思ったよりも種類が豊富なのにも驚いたわ」
リーナはどうしても聞きたいと思うことがあった。
「後宮の購買部の品を見て、高いと思いませんでしたか?」
「別に。普通じゃない?」
リーナにしてみれば後宮の購買部で売られている品はどれも高い。いや、高すぎるものばかりだった。
しかし、ベルはそう思わない。普通だと思っている。つまり、それは貴族の女性から見れば普通のものが売られている場所だということだ。
平民だった自分にはそれがわからなかっただけなのだろうとリーナは思った。
ところが、カミーラの意見は違った。
「私はそう思いません。高いと思います」
リーナは首を傾げた。カミーラとベルは姉妹である。共に同じ環境で育ったため、価値観も非常に近いはずだ。ベルが普通という感覚であれば、カミーラもまた普通だと思ってもおかしくない。
勿論、個人差はあるものの、なぜカミーラが高いと思ったのか、リーナはとても知りたくなった。
「どうして高いと思うのですか? 私がお兄様と行ったデパートはもっと高価そうな物が沢山売られていました」
「どこのデパート?」
すぐにベルが質問する。
「ルジェ・アヴェニューというデパートです」
「会員制デパートの?」
「そうです」
「いいわね、行ってみたいわ。リーナ様の紹介ならいけるかしら?」
「会員なのはレーベルオード子爵でしょう。ジャックス=アルジェリスタと親しかったはずです」
「お二人はあのデパートに行ったことがないのでしょうか?」
「ないわ。グラン・ルジェなら行ったことがあるけど」
リーナは全くわからない。首を傾げた。
「それは……違うお店ではあるものの、何らかの関係性があるということでしょうか?」
カミーラが説明を始めた。
「グラン・ルジェは最高級デパートです。その中でも特別な顧客だけが会員として買い物を楽しめるのがルジェ・アヴェニューになります」
「シャルゴットの誰一人としてあそこの会員じゃないのよ」
「ヘンデル様もですか?」
「お兄様は別のデパートを使うから。お母様も。ライバルデパートの顧客なわけ」
「なるほど」
「で、何を買ったの?」
話題はリーナが会員制デパートでした買い物に移行した。
「買い物をしたのは私ではなくお兄様の方で……」
「何か買ってくれたでしょう?」
「はい。時計を買ってくれました」
「置時計?」
「いえ。腕時計です」
「もしかして、いつも身につけていらっしゃるブレスレット時計ですか?」
「そうです」
「それ、王太子殿下からのプレゼントじゃなかったのね!」
ベルはリーナが身に着けているものは全て王太子からの贈り物だと思っていた。
「これはお兄様と一緒にお買い物をした記念でもあります。でも、支払いはお父様とお兄様で折半することになりました。なので、家族から贈られた時計です」
レーベルオード親子がリーナに贈った特別な時計ということであれば、さすがの王太子も身につけるなとは言いにくいと思われた。
「高そうね」
「ルジェ・アヴェニューの品であれば高いに決まっています」
「それもそうだけど、いくらなのかしら?」
珍しくリーナが自ら答えた。
「わかりません。小切手で支払っていたので」
「値札は?」
「ありません。買いたいと思う商品があったら、担当者に金額を確認する形でした。こっそり教えてくれる感じで、お兄様だけに伝えていました」
「一点もの?」
「基本的には一点ものだけで、品物によってはほぼ一緒であるものの、一部が違っているようなものになるそうです。この時計も同じデザインで宝石違いがありました。でも、お兄様が初めての購入者でした。新作だったのです」
リーナの腕時計はゴールドの金具のブレスレットに見えるが、実は腕時計という品だった。
時計は機械仕掛けのため、持ち運びを考えればできるだけ小さく軽量にしたいものの、限界がある。
リーナの時計は腕時計にしては時計部分が小さい。つまり、それだけ凄い技術がある時計職人が制作した品ということになる。
男性は文字盤が大きな方が時間を見やすく、ジャケットの上着も豊富なことから懐中時計が主流だ。大きさはあっても、その分様々な意匠や装飾を施せるため、より豪華で見た目が華やかな品にできるのもある。
豪華で素晴らしいと一目見てわかる懐中時計を持つことこそが、男性にとってはステータスの一種なのだ。
女性達も懐中時計を持つものの、大きいのは重いため、小型のものをポケットに入れるか、ペンダント型のものを使う者達が多い。
腕時計は実用的ではあるものの、お洒落という観点から見ると失格だと思えるようなデザインの品が多いことや、他のアクセサリーと合わないことによる付け替えが面倒だという理由から、愛用者が少なかった。
「これは指輪を大きくしたようなデザインになっています」
ブレスレットの大きさではあるのだが、その形やデザインは非常に大きなリングのようだった。
白蝶貝の文字盤がある時計部分は丸い。それを支える爪のような部分が四カ所あり、それがアーム部分につながっている。
時計を動かし続けるにはネジを巻かなければならないが、その部分も目立たないように工夫されていた。
アーム部分はブレスレットにしては細めで、全体的に曲線的で美しいフォルムだが、宝石がはめ込まれているのは文字盤の十二の部分だけだった。
かなりシンプルなデザインのため、特別な品ばかりが集められているというルジェ・アヴェニューの品ということ自体が意外に思えた。
リーナであればシンプルであまり高価ではない品を好みそうではあるが、パスカルが一緒に買い物をしたのであれば、自らの名誉にかけて、相応に立派な時計を買うに決まっていた。
そして、カミーラとベルが気になったのは、リーナが何気なく話した支払いの部分についてだった。
大抵の品であればパスカル一人で支払うはずだ。わざわざ父親と二人で折半する必要はない。
レーベルオード親子からの贈り物にするための処置かもしれないが、あまりにも高額だからこそ折半することになったと考えるのが自然だと思えた。
カミーラとベルはどうしてその時計をパスカルが購入したのか、父親と支払いを折半にしたのかが気になった。
「その時計はリーナ様がいいと思ったの?」
「お兄様が選びました。私はこのようなシンプルなデザインのものがあることに気づかなくて、さすがお兄様だと思いました」
カミーラとベルは微笑みつつも、ますます謎が深まったように感じた。
「それってかなりシンプルよね。でも、何か特別な部分があるの?」
「実用重視で、小さくて軽いのが特徴です」
それは見ただけでわかる。
「金具がゴールドで、文字盤は白蝶貝。十二の部分に小粒の宝石が埋め込まれています」
それもわかる。やはり、見ただけで。
「リーナ様、宝石違いがあったといいましたが、他はどのようなものだったのですか?」
「宝石は白・ピンク・赤の三色で、全部ダイヤモンドです。各一つずつしかないので、同じデザインのものは世界に三つしかない時計になります」
ベルの表情が一瞬にして変化した。
「それ、レッドダイヤモンドなの?!」
レッドダイヤモンドは非常に貴重な宝石だ。レア中のレアと言われている。
小粒であってもレッドと思えるほどの赤みが強いダイヤモンドは極めて少ない。
当然、時計の文字盤にあしらうような宝石ではない。微少なサイズでも恐ろしいほどの高額品になる。レッドダイヤモンドを手に入れること自体が非常に難しいからだ。
勿論、一般市場には出回らない。特別な者達だけで取引される。それこそ、王族や大国の大貴族、特別な宝石商だけでしか取引されないような宝石になる。
そのような貴重な宝石をあしらった時計となれば、まさに世界でたった一つの特別な最高級品、計り知れないほど贅沢な逸品だった。
「そうです。三つの中では一番貴重な宝石だそうです」
ようやく二人は納得した。
見た目はとてもシンプルで実用的な腕時計だ。しかし、レッドダイヤモンドがあしらわれているため、恐ろしいほど高額であるのは間違いない。
それで父親と話し合って折半にし、二人からの贈り物にしたのだろうと推測した。
「この時計は凄く細かい部分まで気を遣っているのです。見ればわかるのですが、全体的な形は丸みがあってなめらかです。これは腕につけて動いている際、衣裳に引っかからないようにするためです」
リーナの説明を二人は頷きながら聞いた。
「それから、アーム部分も文字盤とは逆側が少しだけ太く重くなっています。これは文字盤の重さとのバランスをとるためと、文字盤を見る際に腕にひっかかりやすくするためです。フィット感が悪いようならサイズ直しをして調整してくれます」
二人は微笑みながらリーナの説明を聞いていたが、内心ではレッドダイヤモンドの時計を購入したパスカルの凄さを実感していた。
しかし、パスカルの凄さはレッドダイヤモンドの時計を購入したことだけではなかった。
「素敵ね。色違いの時計が残っていたら、ちょっと欲しいかも。値段的に無理かもだけど」
「もうないです。お兄様が買い占めたので」
カミーラとベルは一瞬黙り込んだ。
「……買い占めたの?」
「はい。世界に三つだけなら買い占めてしまえば私だけが持つ時計になるからと。気分で違う色につけかえればいいと言われたのですが、三つも使わないと言うと、他の二つは壊して廃棄すればいいと言い出したのです。勿体ないので三つとも貰いました。この時計が壊れて修理に出す際に使う予備です」
全部買い占めて、一つ以外は壊して廃棄!
パスカルの下した判断に、カミーラとベルは驚き過ぎて固まっていた。しかし、理解はできる。
同じデザインで宝石違いの品がある。世界に三つだけ。全部買い占めれば、他の者が同じデザインの時計を身につけることはない。必要のない分は壊して廃棄してしまえばいい。そうすれば、残った一つはまさに世界で唯一の品になる。
わかる。頭では。しかし、普通はそんなことはしない。そう、普通は。
レッドダイヤモンドがあしらわれた時計は一つしかない。それだけで世界に一つしかない時計だと考え、納得するのだ。
しかし、パスカルは納得しなかった。同じデザインのものは買い占める。必要ないなら壊して廃棄する。世界中でただ一人、リーナだけが持つデザインの時計にするために。
凄いっ! 愛が重いわっ!
ベルは心の中で絶叫した。
さすがレーベルオード子爵。恐らくは必要ない二つ分の請求を父親に押し付けようとしたものの、家族からの贈り物ということで折半することになったのでしょう。
カミーラも支払いについての推測を改めながら、心の奥底で呟いた。





