65 偉大な兄
幼い頃からエゼルバードは芸術家になることを目指していた。
自分は天才で何にでもなれると信じて疑わなかった。
自身の才能を周囲の誰もが認め、特に絵を描く才能については世界で最も優れていると称えられていた。
ある日。
エゼルバードは新しく描いた絵を持って兄の部屋へ行った。
兄は絵を描くことを苦手としているせいで、エゼルバードが持つ絵を描く才能を高く評価してくれる。
エゼルバードは凄い。私にはできないことができる。素晴らしい才能だ!
そう言って褒めてくれるのが嬉しかった。
兄はエゼルバードに嘘をつかない。悪い時は悪いとはっきり言う。
だからこそ、兄に褒められれば、本当に素晴らしいのだと信じられた。
周囲の意見や評価は王子ゆえの配慮や偽りではないのだと。
「兄上、新しい絵を描きました。見ていただけませんか?」
兄は読書をしていた手を止めてしおりを挟んだ。
そして、じっくりとエゼルバードの絵を見つめた。
「いかがでしょうか?」
「なぜ、この絵を描いた?」
「なんとなくです」
エゼルバードが描いたのは風景画だった。
すでにその絵を見ていた世話役や教育官は素晴らしいと褒めちぎった。
兄にもそう言って欲しかった。
だというのに、兄の態度は素っ気なかった。
「悪くない」
評価も低い。かなり。
「お気に召しませんか?」
「あくまでも個人的な意見だ」
エゼルバードは気になった。もっと詳しく知りたかった。
兄がなぜそう思ったのかを。
「もっと詳しく兄上の感想を聞きたいです。いつも正直に話して欲しいと私に言うではありませんか。兄上も正直に話して下さい」
「……この絵は綺麗だが、それだけだ。特別なものを感じない」
だからこそエゼルバードに尋ねた。この絵を描いた理由を。
「お前はなんとなく描いたと答えた。深く考えることなく、ただ目の前の風景画を描いただけのようだ」
兄の言葉一つ一つがエゼルバードの頭の中に響く。
「綺麗に描けている。それ以上に何を言えばいい? お前がこの絵に込めた特別な感情はない。描いた本人がそう言ったのだ。これは特別な絵ではない」
エゼルバードは気が付いた。
兄の言葉が痛いほど正しいことに。
そして、自分も周囲も気づかなかったこの絵の価値に。
写実的な絵としては悪くない。だが、その程度でしかない。
なぜなら、この風景画はただの風景を綺麗に描いただけに過ぎない。
芸術家の絵はそういったものではない。
絵には特別な何かがある。
画家が描きたいと思った動機や衝動、その画家にしか描けないものがある。
この絵にはそれがない。
「絵の品評会に匿名で出品しようと思っているそうだな?」
「……はい」
「このような絵はやめろ。お前が強く描きたいと感じて描いた絵がいい。誰にも真似できない何か、特別さがあったほうがいい。ただ描くだけでは綺麗なだけの絵で終わってしまう。本当に素晴らしい絵は描けない」
エゼルバードはその通りだと感じた。
だからこそ、悔しくなった。
「課題で描くテーマは木です。ですが、ただの木ではつまらないと感じてしまいます。正直、描く気になれません。だというのに、周囲は私の描く絵に期待します。どうすればいいでしょうか? どんな木を描けばいいと思われますか?」
絵を描くのが苦手な兄はろくなアドバイスができない。
エゼルバードはそう思った。
先ほど感じた悔しさを晴らすための意地悪な質問だった。
兄はしばらく考え込み、弟の求める答えを出した。
「ただの木ではなく、特別な木を描けばいいのではないか?」
「特別な木とはどんなものですか?」
「お前が特別だと思う木だ」
「特別に思う木などありません」
予想通り。兄にはアドバイスできない。
むしろ、その程度の答えを考え込まなければ言えないのかとさえ思う。
エゼルバードは心の中で嘲笑った。
「様々な視点から木を見てはどうか? そこにお前らしさを加えればいい」
「曖昧過ぎます」
「お前らしさはお前自身が見つけるものだ。絵を描くのが苦手な私が教えるのはおこがましい気がする」
「では、兄上ならどのような絵を描かれますか? 絵の才能があるとすればです」
兄はすぐに答えた。
「木の下から上を見上げるような絵を描く。多くの者は離れた場所から見た木の全体像を描く。構図が違う」
「……確かに描く場所、角度、構図の違いによって絵の印象は変わりますね」
悪くないとエゼルバードは感じた。
「木というよりは、雄々しい枝に茂る葉の間からこぼれる陽射しを描いてみたい。光の眩しさ、温かさ、力強さ、神々しさを木の枝や葉を通して伝える」
エゼルバードの頭の中に、兄が描きたい絵がおぼろげに浮かんだ。
「まあ、私には無理だが」
「なぜですか? 兄上でも努力すれば描けると思いますが?」
「お前は今言ったような景色を実際に見たことがあるか?」
「ありません」
木の葉の合間から光が射し込むのはわかる。
だが、そこに眩しさや温かさ、力強さを感じたことはない。
木の下でも光が射し込むことによって明るいというだけだ。
神々しさなどあるわけがない。
エゼルバードはそう思った。
「ならば、庭園にある木の下で昼寝でもして見ろ。見上げれば、似て非なる景色を見ることができる」
「似ているのではなく、似て非なる景色なのですか?」
「お前なら感じるだけでなく気づくだろう」
光がこぼれて来るかもしれないが、眩しくはない。
むしろ、葉が多くあるため、光をさえぎってしまっている。
木陰は涼しい。状況によっては寒いと感じる。
「温かさ、力強さ、神々しさなどと口では簡単に言えるが、それを表現するのは難しい。ただの光の筋では駄目なのだ」
「想像と現実は違うということでしょうか?」
「見たそのままを描いても、魅力があるとは限らないということだ」
強く心に感じる何かを表現できなければ、魅力的な絵にはならない。
「言葉で言い表すとすれば、まばゆい光の神々しさだと言える。だが、それを描くとなると、私の乏しい想像力では無理だ」
「想像できないのですか? まったく?」
「私の描きたい絵のことはいい。お前の好きな絵を描け」
エゼルバードは兄の部屋を退出すると、早速庭園にある木の下に行って寝転んだ。
兄の言う通り、葉が邪魔で光が弱い。これでは光の力強さは描けない。
温かさもない。日陰にいるせいで涼しく、状況によっては寒い。
神々しさは全く感じない。
この景色を見る限りでは、兄の描きたい絵にはならない。
魅力がありません……。
エゼルバードはそれがまさに兄の教えだと気づいた。
人の目で見ただけでは描けないものを描くのが絵の魅力、芸術の神髄だと。
本当に木の下から見上げた景色を描いただけでは、芸術的な絵にならない。
写実的なだけ。感動する要素がない。せいぜいそっくりだ、綺麗だというだけだ。
だが、兄が言ったように木の枝や葉の間から光が差し込み、その光が眩しく温かく力強く、神々しいとさえ感じられるような絵であれば違う。
自らが見るだけでなく感じるままに表現することや描くことができたのであれば、それが特別なものとして絵の魅力になる。芸術的な絵になるのだ。
エゼルバードは計り知れないほどの衝撃を受けた。
兄は絵を描くのが苦手かもしれないが、芸術とは何か、真の価値を理解し見極める能力を持っていた。
だというのに、自らは絵や芸術的なものを好んでいるにもかかわらず、芸術とは何か、その真の価値をわかっていなかった。ただ曖昧に感覚的に感じていただけだ。
見極めることができるわけもない。
ただ、綺麗であればいい。美しければ素晴らしいと思っていた。
だからこそ、自分の描いた綺麗なだけの絵を見て満足した。
世の中には綺麗ではないものであっても、芸術的だと言われるものもある。
でなければ、苦しみや悲しみ、汚れたものや醜いもの、心の葛藤を表現する芸術を否定してしまうことになる。
エゼルバードは兄の偉大さを思い知った。
自分はずっと周囲の評価を正しいと思い、惑わされていたことを実感した。
真実は違った。
兄は絵を描くことが苦手なだけで、芸術について劣っているわけではない。
むしろ、エゼルバードの方が劣っていた。綺麗な絵が描けるだけだった。
だというのに、愚か者は気づかない。表面しか見ていない。
絵が綺麗かどうかだけで判断しているのと同じだ。
エゼルバードは兄の秘めたる才能、実力に気づいた。
私は幸せです。偉大な兄上がいることが……。
自身を導く光、希望、愛、真の理解者だった。
エゼルバードは絵を描いた。兄が描きたくても描けない絵を。
兄の代わりを務めることができるのは弟である自分しかいない。
庭園の木の下で見た景色に兄が描くことを望んだ景色を合わせるように想像しながら描いた。
全力で。熱心に。魂を込めて描いたつもりだった。
最高傑作です……!
雄々しい枝と生い茂る葉の間から次々と溢れんばかりの光の筋が差し込み、光の輪、プリズムが見えるような絵が完成した。
エゼルバードは真っ先に兄の元に向かった。そして、絵を見せて尋ねた。
「兄上、この絵はいかがでしょうか?」
表情が乏しいとされる兄の顔に驚きが宿った。
そして、嬉しさが溢れだすような笑みがこぼれた。
「素晴らしい。生き生きと輝いている。光が溢れだすのを感じられる。思わず手を伸ばしてしまいそうなほどだ」
「以前、兄上が想像しても描けないと言っていた絵を、庭園で見た景色に合わせながら想像して描きました。どうしても描いてみたい。表現したいと思ったのです」
「そうか。やはりお前には才能がある。素晴らしい。兄として類まれなる弟がいることを誇りに思う」
兄の言葉はエゼルバードが欲しかった言葉だった。
その通りです。私は兄上が誇らしくなるほど類まれなる弟なのです。
エゼルバードは心の底から満足した。
「エゼルバード、お前さえよければこの絵を貰えないだろうか?」
兄は相当この絵を気に入ったらしく、自ら欲しいと言い出した。
初めてのことだった。
エゼルバードは嬉しくてたまらなかったが、首を横に振った。
「申し訳ありません。この絵はかなりの自信作ですので、絵の品評会に出してみたいのです」
「そうか。この絵であれば大丈夫だろう」
兄は頷いた。
「だが、芸術とは難しい。いかに素晴らしい絵であっても、時代や状況、審査する者に評価されないこともある。何百年も経ってから真に評価されることさえあるのだ。万が一この絵が評価されなくても、気にしてはいけない。エゼルバードが素晴らしい才能を持っているのは間違いない。私が保証する。それだけは忘れるな」
エゼルバードは頷いた。
「この絵には私の強い想いが込められています。もし、評価されないとしたら、それに気づかない愚か者が審査員だったというだけの話です。気にしません」
「その通りだ」
エゼルバードはその絵を匿名で品評会に出品した。
絵のタイトルは『溢れる光』。
雄々しい枝や生い茂る葉の間から差し込む光は、決して弱々しくない。力強い。
次々に溢れだす。温かく、強く、神々しく。
そんな光に人は魅了されて止まない。手を伸ばしたくなる。
作者は自らの絵をそのように説明した。
絵は大絶賛された。
素晴らしい。芸術的だ。思わず手を伸ばしたくなると。
絵の品評会が終わった後、いくつもの美術館からこの絵を所蔵したいという申し出があった。
だが、匿名の作者は全ての申し出を断った。
手元に戻って来た絵を、エゼルバードは満面の笑みを浮かべながら兄に贈った。
「兄上にこの絵を贈ります。兄上のために描いた絵ですので、最も相応しい所有者です」
「とても嬉しい。心から感謝する」
兄は自らの私室にそれを飾った。
それからまもなく。
最も権威ある絵の品評会に匿名で出され、最年少で最高賞を受賞した作品を描いたのは、天才だと名高い第二王子であることが判明した。
何も知らなかった品評会の審査員、絵を引き取りたいといった美術館、大勢の人々は驚いた。
第二王子はその絵を心から敬愛する王太子に贈ったこともわかった。
素晴らしく芸術的な絵は収まるべき場所に収まった。
人々は心からそう思った。





