642 国王の庭(三)
「これだ」
国王の庭の一角。リーナに与えられたバラがあった。
国王の話によれば、昔、愛する女性に贈ったバラだということだった。しかし、目の前にあるバラはとても小さな木だった。
「バラはどうやって増やすか知っているか?」
「挿し木です」
挿し木とは、元々の木から一部分を切り取って育て、個体数を増やす技術である。
ハーヴェリオンは微笑んだ。
「そうだ。これはリエラに贈った木の一部分を育てたものだ」
リーナに贈られたのは、かつて国王が愛する側妃に与えた木そのものではなく、その一部を挿し木にし、新しく育てている若い木だった。
「バラの木の寿命は意外と長い。大事に育てれば何十年も枯れることはない。だが、どんなに手をかけても永遠ではない。挿し木にし、若い木を育てることで、より長い年月を積み重ねていくことができる。それは親から子へと受け継いでいくのと同じようなものだ」
ハーヴェリオンは小さなバラの木を愛おしく見つめた。
「本当はリエラに贈った木の全てをここに移し替えたかった。だが、老木ゆえに、いつ枯れてもおかしくないといわれた。そして、移し替えると根を痛めてしまうため、新しく根付く前に枯れてしまうだろうと。そこで、リエラに贈った木は後宮にある庭にそのまま残し、挿し木にしたものを育て、丁度いいものをここに植え替えたのだ」
そうだったのかと思いながらリーナは頷いた。
「まだ小さい。弱々しい。病気や虫、気候に負けてしまわないか心配だ。勿論、一流の庭師達が世話をする。だが、花には愛情を注がないとうまく育たない」
肥料や水だけでは駄目なのです。日光だけでも。
愛する女性がそう言っていたのをハーヴェリオンは思い出した。
「私はこの若いバラの木に愛情を注ぐつもりだったが、忙しいのでな。なかなか会いに来ることもできない。そして、もう歳だ。バラが立派に育ち、この庭を美しく彩るのを見届けることができるかもわからない。そこで、お前に受け継ぐ。私の代わりに愛情を注ぎ、立派に育つように見守って欲しい。頼めるか?」
「はい。このバラの木に愛情を注ぐお役目を私が務めます。ちなみに、陛下はどのようにすればお役目を果たせると思われますでしょうか?」
リーナは大事な役目であるため、どのようにすれば国王が満足するのかを確認することにした。
「……まあ、時々見に来ればいいだろう。今の季節は花がない。毎日見てもほとんど変わらない。春や秋になれば花が咲くため、その時に来ればいいのではないか? どのような色かもわかるだろう」
「では、春と秋にはどの程度育ったのか確認しに来ます。その際、お花を見て色を確認し、声をかけておきます」
ハーヴェリオンは眉を上げた。
「声をかけるのか?」
「えっ、違うのでしょうか?」
リーナは尋ね返した。
「陛下は愛情を注ぐように仰いました。ならば、声をかけるべきでは? ただ見ているだけでは、愛情を注いでいるかどうかわかりません。見守っているつもりでも、バラにはわからないかもしれません。でも、言葉にすればわかります。バラはきっと愛情を注がれたと感じて安心すると思います」
ハーヴェリオンは驚愕した。
植物に声をかけるのはわかる。そういう者もいる。だが、リーナにそこまで頼むつもりはなかった。ただ、自分が贈った木であることを忘れることなく、季節が来たら花を愛でてくれればいいと思っていた。
愛情を注ぐ。
ハーヴェリオンの考えとリーナの考えに差があった。
ハーヴェリオンは愛情を込めて花を見つめればいいと思った。だが、リーナはそれでは愛情が伝わらないかもしれないと感じ、声をかけることではっきりと愛情を伝えようとした。
どちらの方がより愛情を伝えやすいかと言えば、リーナのやり方だ。
ハーヴェリオンは自分の間違いに気づいた。
愛情は見ているだけでは伝わらない。本人は愛情を込めて見守っているつもりでも、気持ちが届いていなければただ見ているだけでしかない。相手は喜ばない。愛情を注がれているとも感じない。
ああ、やはりこの者でなければならない。
ハーヴェリオンは悟った。なぜ、息子がこの女性を選んだのか。
息子の夢は愛する女性と婚姻するだけではない。愛情に溢れた温かい家庭を築くことだ。
それは多くの者達が夢見ることでもある。しかし、難しい。少なくとも、国王であるハーヴェリオンには難しかった。
国王と王子。特別過ぎる身分を持つだけに、普通ではない。愛情に溢れた温かい家庭という普通の願いも、叶わないものなのだと思っていた。圧倒的に時間がない。家族の時間は、王家の時間という公式行事になっていた。
それでも、愛情を持ち、息子達を見守っているつもりでいた。それでいいと思ってきた。
だが、見ているだけで伝わっていると思うのは、自分に都合のいい考え方だ。実際には伝わっていないかもしれない。だからこそ、それ以外のことで愛情を示す必要がある。
声をかける。とても簡単なことだ。それだけで愛情があるとわかる。伝わる。
もっと……伝えなければ。愛情を。言葉にして。
ハーヴェリオンは深いため息をついた。
「陛下、お疲れになられたのですか?」
声をかけたのは勿論リーナだ。心配そうな表情をしていた。
気を遣わせてしまっている。
ハーヴェリオンはそう思ったが、気にかけて貰えるのが嬉しかった。
「うむ……いつも忙しいからな。こういう時でなければゆっくりできぬ」
「エルグラードで最もお忙しい方なのは重々承知しておりますが、休憩は必要です。健康のためにも」
優しい。
ハーヴェリオンは心の底からそう思った。
はっきりいえば、エルグラードで最も忙しいのは王太子だ。それはわかっている。しかし、国王も忙しい。二番目、あるいは何番目かに。
もう若くない。これまで働いて働いて働きまくってきたのだ。そろそろ休憩したい。だというのに、周囲はそれを許さない。
誰もが国王に働くことを求める。わかっている。それが国王だ。一生。死ぬまで。
でも、少しぐらい休ませてくれてもいいだろう……私だって長期休暇が欲しい。連休でもいい。
その気持ちを理解してくれる者は皆無だった。
これほど忙しいのに、一日でも休めるだけましだ。連休でも難しいというのに、長期休暇などとんでもない。国王が判断しなければ、国が止まる。それは国の息を止めてしまうに等しいと説教された。
クルヴェリオンも、この優しさに慰められるのだろう……忙しいがゆえに。
ハーヴェリオンは心底納得した。国王だからこそ。
「リーナ、お前は優しい。その優しさでクルヴェリオンを癒してやって欲しい。頼まれてくれるか?」
「はい。でも、頼まれなくてもそうしたいと思っています。私は魔法使いでも医者でもありませんが、王太子殿下をこれ以上疲れさせないように、気を配るつもりです。他の方々からも、王太子殿下の健康には注意して欲しいと言われております」
「うむ。クルヴェリオンは真面目ゆえ、仕事ばかりしている。それではいつか体を壊すに決まっている。リーナがもっと甘えて仕事を休ませるのだ」
「甘えるのは……難しいです。足を引っ張ってしまわないか心配で……」
正直に答えたリーナに、ハーヴェリオンは優しい笑顔を向けた。
その後、リーナが国王に連れ去られたと知った王太子が血相を変え、パスカルと大勢の護衛騎士を引き連れて離宮に到着した。
「父上!!!」
「どうした?」
あまりにも呑気な父親にクオンは怒りの形相で迫った。
「私のだ!!! 返せ!!!」
クオンは父親から愛する女性を奪還した。
「勝手に連れて行くな!!!」
「入宮祝いのバラを見せに来ただけではないか」
「リーナは未婚の女性だ! 男性と二人きりになるのは好ましくない! 国王の庭では相応の者でなければ同行できないのはわかっているはずだ!!!」
リーナにはレーベルオードや後宮の侍女、クオンがつけた護衛が多数ついている。
しかし、その身分や立場を考えると、国王との外出に同行するのは難しい。
かろうじて常時ついている護衛騎士だけは離宮に同行できたが、すぐ側で守るというわけにはいかない。距離を取る必要がある。国王の護衛騎士と同じ扱いだ。つまり男性ばかり。女性はリーナだけという状況になる。
国王であり、王太子の父親とはいえ男性だ。
どんな些細なことであっても、悪い噂になる恐れがある。もしかすると、リーナに直接何かを伝える、脅すようなこと、極秘の命令をするかもしれない。
クオンはそれを阻止したかった。
正直に言えば、父親を信用できなかった。
リーナ付きの護衛騎士が突然の国王来訪と離宮への外出を緊急で知らせて来た時、クオンは迷わずリーナの元へ向かうことを決断した。
できるだけ早く出発するために馬を用意するよう命令させたが、リーナを回収した後に馬車が必要になるとなだめられ、馬車の用意を待つ羽目になった。
おかげでクオンの不満と不安は増幅され、限界まで馬車を飛ばせと命令した。
「……一途だろうとは思っていたが、なかなかの溺れっぷりだ」
父親は呆れた。だが、息子は反省する様子が全くない父親にもっと呆れるだけでなく、激怒した。
「父上がわかっていないだけだ! 国王であっても、常識は守れ!」
「常識を破った息子に言われたくない」
「私は破ったわけではない、越えたのだ!」
「詭弁だ」
「無駄な時間は過ごしたくない。帰る」
クオンはリーナの手を強く引いた。
リーナは手を引かれながらクオンに謝った。
「クオン様、ごめんなさい……」
「謝る必要はない。悪いのは父上だ。礼儀知らずだ!」
「でも、正式な書類だけではなく、わざわざ見せに連れて来てくれるほどの配慮をしていただけたのは凄いことですし、光栄なことだと思います」
その通りだとハーヴェリオンは頷いた。
「わかっていないのはリーナも同じか」
クオンは立ち止まるとリーナを見つめた。
「よく考えろ。今は夏だ。バラの花は咲いていない。バラを贈ったとはいえ、葉だけの木を見てどうする? この木だと見せても、真の価値を知ることはできない。真の価値を知ることができるのは、花が咲いている時だからだ。つまり、来たところでほとんど意味がない。それでもお前をここに連れて来たのは、バラの木を見せるという口実でお前と過ごしたかったからだ。少しだけ話をしてみたかったというだけかもしれない。だとしても、突然ろくに供の者もつけずに離宮まで連れ出すのは軽率だ。まずは私にそのことを伝え、同意を確認し、侍女や側近などの者達を同行させるのが筋だ。だというのに、それを怠った。何かあると勘繰られてもおかしくない。非常に危険なこともあり得るかもしれなかった。絶対に許されないことだ!」
クオンは後からついてきた父親を睨んだ。
「こんなことは二度とするな! もし、違えた時には許さない! 監禁だ!」
ハーヴェリオンは眉間にしわを寄せた。
「クルヴェリオン、さすがに国王に対してそれはない」
「安心しろ。監禁するのは執務室だ。腐るほどある書類を全て片付けて貰う。それこそ、国王の務めだ。ちなみに、王宮では宰相と首席補佐官が私と同じく怒りの形相で待っている。他国関係も後宮内部のことも重要な時期だというのに、朝議をすっぽかすとはいい度胸だと言われるだろう。覚悟しておけ!」
ハーヴェリオンは一瞬にして弱気になった。どう考えても負けだ。そして、逃げ道もなかった。
ハーヴェリオンの周囲は国王の護衛騎士もろとも、王太子の護衛騎士達に完全包囲されている。
王太子の安全やリーナに何らかの危害を加える可能性を考慮しているだけではない。どんなことをしてでも国王を王宮に連れ帰り、宰相と首席補佐官に引き渡すつもりでいるのは明白だった。
帰りたくない……。
ハーヴェリオンは、今こそまさに執務室へ監禁するための連行中だと思わずにはいられなかった。





