634 病人
王宮に戻って来たロジャーとセブンはエゼルバードの元へ向かった。
今は非常に多忙だった。いや、今に限ったことではない。常に忙しい。
かといってエゼルバードの様子を見に行かなければ、後でそのつけが回って来る。
何もないことを確認してから仕事に取り掛かった方が気分的にも楽だと自らを鼓舞した。
控えの間にいる護衛の話によれば、第二王子は部屋で過ごしており、ライアンがついている。ジェイルも顔を見せていたが、今はいないということだった。
ロジャーとセブンが居間に入ると、壁際にある腰掛に座ったライアンが立ち上がった。
エゼルバードはいない。
二人はライアンの表情を見て察した。
「何があった?」
何かがあったのは明白だった。しかも、悪い方だ。
ライアンは低い声で答えた。
「寝室に籠って出てこない。食事も取っていない。医師も必要ないと言っている」
「いつから?」
「アイギス大公子と面談した後だ」
「アイギス大公子が来たのか」
ライアンの説明によると、日曜日の昼前にアイギス大公子が帰国前の挨拶をするために面談を申し入れた。
エゼルバードはそれを受けた。
面談の後、帰国するアイギス大公子一行がエルグラード内にいる間に問題が起きないように関係各所に念を押すことと、昼食は必要ないという指示が出た。
エゼルバードは珍しく普通の時間に起き、朝食を取っていた。そのせいで昼食時間になっても空腹感がなく、お茶の時間に軽食を取る気なのだろうと思われた。
しかし、お茶の時間になってもエゼルバードは寝室から出てこない。
朝起きたせいでまた寝たのかもしれないと思い、そっと寝室のドアを開けるとベッドの上で寝転んでいた。
やはり昼寝だったと思い、そのまま休ませることにした。
だが、なかなか起きてこない。
夕食時間を過ぎてしまったため、ドアの外から声をかけたが返事がない。
ライアンとジェイルはエゼルバードを起こすことに決めた。
ドアを開けて寝室の中に入ると、毛布にくるまったエゼルバードがいた。
今は夏。毛布に包まる意味はない。裸であるならともかく、衣服を着用したままであるなら余計に。
声をかけると、一人になりたいという返事があった。
いつもと様子が違うと感じたライアンとジェイルはどうすればいいのか尋ねたが、寝室から出て行けとしか言わない。
結局、侍従長や筆頭侍従などが飲み物や食事などが必要かどうか、入浴はどうするかなどといったことを確認しつつ声をかけると、体調が悪いことが判明した。
医者は必要ないというものの、医者が呼ばれた。しかし、寝室のドアには内鍵がかかっており、中に入れなくなっていた。
どう考えても拒絶である。
結局、一晩はそっとしておこうということになった。
そして、ロジャーやセブンが戻った際に報告し、任せることにした。
「役立たず」
ロジャーの睨むような視線をライアンは真っすぐに受け止めた。
「否定しない」
「ジェイルは?」
「外務省に行った。キフェラ王女が戻ってきたせいで、外務省が話し合いをしたいと言ってきた」
そういうことであれば、ここにいなくても仕方がない。
ライアンとジェイルが二人揃って何もできないまま居間に待機していても意味はなかった。
「まだ内鍵がかかっているのか?」
「確認していないが、私がいる間に鍵が開く音はしていない」
ロジャーは寝室のドアまで移動し、ドアを開けようとしたが無理だった。
金属音がする。内鍵がかかっている証拠だった。
ロジャーはドア越しに声をかけたが、返事はなかった。
「回り込む」
エゼルバードの寝室に入る方法は一つではない。
居間と逆側にある着替えの間、化粧室や入浴の間につながる鏡の小部屋へのドアもある。
三人は着替えの間の方に移動したが、そこも内鍵がかかっていた。
最後のドアである鏡の小部屋へ通じるドアを開け、中に入る。
寝室へ続くドアは閉まっていたが、ここは内鍵ではない。普通の鍵だ。
ロジャーはすぐにスペアキーを取り出して鍵を開けた。
ノックをした後に何者であるかを告げ、ドアをそっと開けた。
ようやく寝室に辿り着くものの、いい状況ではなかった。
部屋は暗くない。カーテンが開いている。
エゼルバードが自分で開け閉めするわけではないため、昨日のままだということだ。
エゼルバードはベッドの中にいた。
毛布にすっぽりと包まっている状態だ。
ロジャーはすぐにライアンに指示を出した。
「内鍵を開けろ。飲み物を用意させておけ。温かいものと冷たいものの両方だ。食べやすいものとタオルも欲しい。居間の方から出て行け」
「わかった」
ライアンはロジャーの指示通り、着替えの間に通じるドアの内鍵を開けた後、居間に通じるドアの内鍵も開けて出て行った。
三人だけになったのを確認した後、ロジャーはエゼルバードに声をかけた。
「悪かった。来るのが遅くなってしまった」
謝罪の言葉を発するが、エゼルバードの返事はない。
「体調が悪いと聞いた。医者はいらないとも。薬は飲んだのか?」
エゼルバードは常備薬を持っている。それで済ませたのかもしれないとロジャーは思ったが、そうではなかった。
「不治の病かもしれません」
エゼルバードには持病がある。退屈病だ。他にもある。
心的ストレス障害に関しては、あらかじめ発症しそうな状況を避けているため、症状が出ていない。完治しているかどうかを確かめるようなことはしていなかった。
「不治の病にも色々な種類がある。特効薬がない場合でも、ハーブティーが効くかもしれない。お前の好きな香りを焚いてもいい。まずは症状を説明して欲しい。対応策を考える」
すぐに答えはない。
だが、口調からいって起きているのは一目瞭然だった。
「一人で悩めば解決しそうなのか? それとも時間が必要か?」
今度はセブンが質問した。
やはり答えはなかった。すぐには。
しかし、長年一緒に過ごしてきた仲である。エゼルバードはため息をついた後に答えた。
「恋の病にかかったようです」
聞かなかったことにしたい。
ロジャーとセブンは痛切にそう思ったが、何の予感も覚悟もなかったわけでもなかった。
「リーナのことか?」
エゼルバードは答えない。
だが、それしか思い当たる人物はいなかった。
ロジャーはベッドの端に腰かけた。
「妹としてみていたはずだろう? なぜ急に恋の病だと思ったのだ?」
「……セイフリードだけでなく、アイギス大公子まで私の態度が甘すぎると言うのです」
ロジャーとセブンは余計なことを言った二人を呪いたくなった。
「私は普通にしていたつもりです。確かに甘いかもしれないとは思いました。ですが、初めて兄上が寵愛した女性です。無害で良心的で従順な女性。妹のように可愛がるにも丁度いい。このことを大いに喜び、活用して何が悪いのです?」
「悪くない」
ロジャーは断言した。
「お前の意見は正しい。周囲の者達が勝手に邪推し、余計なことを言っただけの話だ。王太子が自ら選んだ女性だ。年下であることを考えれば、姉ではなく妹のように接してもおかしくない」
「その通りです。私は気にする必要はないと思いました。ですが……夢を見たのです」
雲行きが怪しくなったとロジャーとセブンは思った。
なぜなら、エゼルバードは感覚で判断する。夢をただの夢だと笑い飛ばすのではなく、何らかの予兆や自らの本心だと感じてしまうかもしれない。
「リーナと共に庭園を散歩する夢です。とても幸せな夢でした。喜びと愛が溢れていました。そして、私は……欲しいと思ったのです。リーナを。口づけました。すると、とても甘いのです。魂までも甘いような気分を感じました。そこで、目が覚めました」
エゼルバードは夢を覚えていた。しっかりとその細かな情景まで。
だからこそ目覚めた際、夢を見ていた自分、そして夢の中の自分がどのように感じていたのかもわかってしまった。
「私は一人でした。幸せも、愛も、喜びもありません。夢と共に消え去りました。ですが、残ったものがありました。それは欲しいという欲求です。私は手に入れたい。今、消えてしまったものを。でも、無理です。夢ですから。現実ではありません。夢を現実にすることもできません。そうでしょう?」
「人は夢を見る。美しい夢、喜びに溢れた夢もあるだろう。だが、それはあくまでも夢でしかない。眠っている間に脳が勝手に考えた幻想を本気にする必要はないのではないか?」
「普通はそうかもしれません。ですが、私は……とても悲しくなってしまったのです。胸も苦しくて痛いのです。この気持ちをどうしていいのかわかりません」
ロジャーは大きく息をついた。自分を冷静にするためのものだ。
「いい夢だったのかもしれない。夢を見ている間は。だが、夢から覚めた途端、そうではなくなった。その落差にお前の心が戸惑ったのだ。苦しいというのであれば、傷ついてしまったのかもしれない。お前はとても感受性が強い。それは自分でもわかっているはずだ。だが、仕方がない。人は自分でどのような夢を見るのか、決めることはできない。勝手に非現実的な夢を見てしまう生き物だ。確かに特効薬はないかもしれない。だが、回復する。大丈夫だ。夢だからだ。夢を見ただけで現実の全てが終わってしまうほど、人は弱くない」
ロジャーの判断は単に感情的なものではない。ありとあらゆる知識、理論、経験、様々なものに裏打ちされている。だからこそ、信頼がおける。安心につながる。
しかし、今回ばかりは駄目だ、効果がないとエゼルバードは感じた。
なぜなら、
「ロジャーは心から誰かを愛したことがないはず。私の気持ちを理解できないでしょう」
ロジャーはあっさりと認めた。
「その通りだ。だが、冷静な助言はできる。愛に溺れてしまった者を救えるのは、同じように愛に溺れてしまった者だけなのか? その経験がある者だけだと? そんなことはない。むしろ、愛を知らない者だからこそ、救えることもあるはずだ。ならば、私がお前を救うこともできる。違うか?」
エゼルバードは首を横に振った。
「愛の迷路は奥深いのです。どれほどの叡智をもってしても、迷ってしまう。それこそが人間です。ロジャーが私を救おうとしても、私が望むのは迷路から抜け出すことではありません。むしろ、今は愛の迷路を彷徨っていたいのです」
「ならば、彷徨ってみるのもいい。きっと、お前は知りたいのだろう。突如現れた迷路がどのようなものなのか、自分がどうなるのかを。何も考えず、感じないまま迷路を抜け出すのもつまらない。但し、忘れないで欲しい。いつでもお前は私を呼ぶことができる。必要な時は呼べばいい。わかったな?」
ロジャー流の勝手な解釈だとエゼルバードは思った。
それだけでなく、恋の病に苦しむ自分の症状をカルテに書き綴り、効果がありそうな薬や対処法を吟味し、研究する気だとエゼルバードは感じた。
「やぶ医者の戯言ですね」
「私は医者ではない。首席補佐官であり、友人だ。病だというのであれば、早く回復して欲しいと願い、支えるのは当然ではないか」
「セブン、今回は貴方の方が役立ちそうです。リーナが好きなのでしょう? どんなところが好きなのか、教えてくれませんか?」
エゼルバードが声をかけたのはロジャーでなくセブンの方だった。
「ロジャーの前で話せと? 無理だ」
「それもそうですね。ロジャーは仕事でもしてきなさい。私はセブンと話します」
「わかった」
ロジャーは逆らうことなく寝室をすぐに出た。
居間にはライアンがいた。
「セブンが対応中だ。指示が出るまで何もするな。静かにしろ。ノックも駄目だ」
「わかった」
ライアンは強く頷いた。
セブンへの強い信頼がある証拠である。勿論、ロジャーに対しても同じく。
ロジャーは執務室に向かった。
エゼルバードのことは心配だが、自分にできることはした。後は、セブンに任せる。
セブンもわかっている。ロジャーが無理なことは、セブンがサポートするのが常だ。これまでもそうやって来た。
二人揃ってエゼルバードに付き合う必要はない。だからこそ、セブンはロジャーの退出をわざと促すようなことを言った。
それは自分の方がロジャーよりも上であり、役立つということではない。ここは自分に任せ、エゼルバードが不在である際に起きうる問題や仕事に対応して欲しいということだ。
ロジャーとセブンはエゼルバードを通さなくても友人同士であり、揺るぎない信頼関係がある。
但し、一つだけ気になることがあった。
それは、セブンが本当にリーナのことを好きなのか、ロジャーでさえもわからないということだった。
セブンはリーナ、以前の名称であればリリーナ=エーメルを欲しいと言った。
その理由をロジャーはしっかりと把握し、理解していない。
本当にリーナが好きだったのか。それとも好きではないものの、欲しかったのか。
役立ちそうだと思ったのかもしれない。
余計な問題が起きないように、他の者達への牽制だったのかもしれない。
あまりにも多くの理由が思い当たり過ぎるからこそ、わからない。
何にせよ、後で確かめる必要があると思いながら、何の確認もしてこなかった。
エゼルバードがこうなることを予想し、自分も同じ女性を好きな者同士という理由で心に寄り添える、カバーできるだろうとセブンが見越して行動していたのであれば、神対応だったとロジャーは認めるしかない。
愛だけでなく、人の心は計り知れない。叡智をもってしても解けない謎だらけだ。
その謎に迫りたいと思いつつも、ロジャーは山になっている仕事を片付けるのが先だと判断した。





