630 夢
エゼルバードが次に考えたのは、自分の妻にしたらどうなるかということだ。
私の妻にしたら……どうしましょうか。
瞬時に思い当たるのは、寝室のことだった。
一緒には眠れない。だが、すぐ側に寄ることへの忌避感はない。
ミレニアスへ行く際、リーナはエゼルバードを起こしに来たことがあるが、気分は悪くならなかった。
リーナは無害な女性。心からそう思っている証拠だ。
王族は基本的に夫婦の寝室は別になるため、毎日一緒に休む必要もない。
いくらでもやりようはありますね……リーナは大人しく従ってくれます。
ことによっては、秘密を話してもいいかもしれない。エゼルバードが大きな心の傷を抱えていると知れば、リーナは余計にエゼルバードを心配して尽くそうとする。裏切らない。
考えれば考えるほど、リーナはエゼルバードの妻としてうまくやっていけそうな気がした。
それこそ、子供がいなくても問題ない。元孤児の血筋を引く王族を作らないためだといえば、身分主義者や血統主義者達が泣いて喜ぶ。
レーベルオード伯爵家の権力を強め過ぎないというような理由もいい。手を叩いて喜ぶ者達が大勢いる。
レーベルオード伯爵家は目立たないようにしているが、エルグラードの建国時から続く強い力を時代に合わせながら保持して来た。
王族の外戚になることで、より強い力を手にすることを懸念する者達は多くいる。
とはいえ、そろそろ私も正式に執務をするつもりですし、あまり構ってあげることはできなくなるかもしれませんね……。
それでもリーナは文句を言わない。健気に耐える。エゼルバードの邪魔や足を引っ張るようなことはしない。エゼルバードの役に立てるように努力する。
困りました。いいところばかりですね?
正直にいえば、美人とは違うが好ましい。
人は居心地のいい空気を求める。寒暖の差が激しくない方が過ごしやすい。
リーナは春のようだった。
多くの者達に好まれる優しさと温かさを持っている。
不遇に耐える力があるものの、底抜けに明るいわけではなく、かといって悲壮感もない。だからこそ、弱すぎることもなく、うるさいとも暗いとも思わない。
何もかも普通というよりは自然。だからこそ、ほどよかった。
懸命に努力しているものの不安げなところ、必死で勉強しているにもかかわらずわからないところ、それが庇護欲や自己顕示欲を刺激し、満足感につながるのも確かだ。
兄上もそうであるはず。
何よりも心の空気、温度に対応できる。相手を思いやることができる。
共に泣くことも笑うこともできる。一方で、泣く者を慰め、笑う者をより気分よくさせることもできる。本人はいたって普通にしているだけなのが、あざとくなくていい。良心的な人間だとわかっている。
長い人生。季節。一カ月。一週間。一日。一時間。数分でさえも、リーナと共に過ごす時間をエゼルバードは心地いいと感じることができるような気がした。
ただ、側にいてくれればいい。空気のように、そこに存在するのが当然のものとして。それだけで安心できるような気がした。
ああ、リーナは愛らしい存在ですね……。
エゼルバードは優しく穏やかな気持ちに包まれ、目を閉じた。
エゼルバードは夢を見ていた。
庭には美しい花々が咲き乱れている。
エゼルバードの視線は庭園の風景でも花々でもなく、一緒に手をつないで散歩するリーナに注がれていた。
ベンチに座った後、二人はちょっとした会話をして笑い合った。
何もかもが普通だった。特別ではない。
だが、つまらないわけでも退屈なわけでもない。平穏があった。
嘘偽りで塗り固める必要もない。美しくなくても、飾らなくてもいい。勿論、王子でなくても。
ただ、ありのままに。
リーナはエゼルバードを心から受け入れてくれる。優しく微笑みながら。
「あっ!」
リーナは急に驚いた。
「どうしたのですか?」
「白い鳥がいます!」
「どこに?」
リーナは指差した。
「あそこです!」
「私には見えないようです」
「眩しいほどに光っていて……天使のような白い羽根があることしかわかりません」
「ああ、きっとそれは私の守護鳥でしょう」
リーナと共にいるエゼルバードは何でもないということのように説明を始めた。
「エゼルバードという名前は天使の鳥という意味があるのです。ですから、私を守っているのは白い天使のような羽根を持つ守護鳥だと考えられています。心の美しいリーナには、私の守護鳥が見えるのでしょうね」
そう言った後、エゼルバードは上に視線を向けた。
蝶が飛んでいる。
「美しい蝶がいます。虹色の蝶ですよ」
「虹色の?」
リーナは虹色の蝶を探すように視線を彷徨わせる。だが、方向が違う。飛んでいるのはリーナの後ろだ。
虹色の蝶はリーナの頭の上にとまった。
「髪飾りのようですね」
「えっ?」
「リーナの頭の上にとまっています」
「頭の上に?!」
「じっとしていなさい」
エゼルバードが手を伸ばすよりも早く、蝶は飛び去ってしまった。
「逃げてしまいました。残念ですね。私なら大丈夫だと思ったのですが」
エゼルバードは感じた。
あれはミレニアスの特別な蝶、王族だけにとまる蝶だと。
しかし、リーナは王族として認められなかった。だからこそ、すぐに飛び去ってしまった。もう二度とリーナの前にあらわれることはない。
リーナは優しく微笑みながら言った。
「虹色の蝶が私にとまってくれただけで嬉しいです。幸運を届けにきてくれたのかもしれません」
「……そうですね」
エゼルバードは微笑み返したものの、リーナの考えに感嘆していた。
リーナは美しい蝶がすぐに飛び去ってしまったことを惜しむのではなく、自分にとまったことの貴重さに目を向けた。
そして、蝶が幸運を届けに来たと解釈することで、蝶がずっと留まり続けるよりも大きな喜びの訪れを感じ取っていた。
エゼルバードの心が震える。
正しいのはリーナです。
エゼルバードが感じたように、あれはミレニアスの特別な蝶、王族にだけとまる蝶だったのかもしれない。
だからこそ、リーナにとまった。重要なのは長くとまることではない。一瞬でよかった。とまったということが重要だった。蝶は認めたのだ。リーナを王族だと。
蝶は祝福を残して行った。リーナが幸せになるようにと。そのためにはるばるミレニアスから飛んできた。
エゼルバードの心が圧倒的な歓喜で埋め尽くされていく。
素晴らしい光景を目にするだけでなく、感じることができた。
エゼルバードの心にもまた祝福が届いた。
蝶ではなく、リーナが届けた祝福だ。
「蝶がとまったのは、リーナのことを美しい花だと思ったからかもしれませんね」
世界でたった一つの小さな花。リーナ。
幸せが溢れた。
エゼルバードはずっとそのままでいたいと思ったが、それは無理だった。
なぜなら、それは夢でしかない。夢はいつか――覚める。
エゼルバードは目を覚ました。
寝台の上には自分一人だけ。
優しさも温かさもない。幸せも、愛も。リーナも。
欲しいのに、手に入れることができない。
胸が苦しくなった。
会いたい。会えない。そして、せつない。
エゼルバードは自分が病人であることを悟った。
特効薬はない。寝ていても回復しない。時間があっても難しい気がした。
「……恋の病なのでしょうか」
エゼルバードは感じるままに呟いた。





