618 気分下降
デーウェンとの友好を示す舞踏会が終わった後、エゼルバードは非常に機嫌が良かった。
リーナと踊れたことも、初めての舞踏会におけるダンスパートナーを務めたことも、催しが成功したことも、長兄に褒められたことも、多くの者達から賞賛されたことも、何もかもが全て思い通りだった。
満足感と幸福感が溢れ、エゼルバードはこの世の春を堪能した気分だった。
しかし、その状態が続いたのは数日のみ。
エゼルバードの気分は元の状態に戻るのを通り越して下降した。
不満足と不幸感が募る。
つまらない、面白くない、不機嫌になるということであればいつも通りのことだが、今回はそうではなかった。
エゼルバードの心の中にはリーナがいた。
リーナがもたらすものは優しさ、温かさ、安らぎ。
しかし、一方で苛立ち、心が冷え切るような寒さ、寂しさ、不安があった。
相反するものがエゼルバードを迷わせ、混乱させる。
エゼルバードは直感型。感じることはできても、その理由をはっきりと理解できないことも説明できないこともある。
そこでエゼルバードは自分が今どのような状態なのかをロジャーに話した。
ロジャーはセブンを呼び、もう一度三人で話し合った。
その結果、色々なことがあったために感情が高ぶり、その反動で急激に気分が落ち込んでいる状態になっている。しばらくは何も予定を入れず、安静に過ごすべきだということになった。
その答えにエゼルバードは納得したが、気分は良くならない。退屈が加わっただけ。
対応策を練り直すようロジャーとセブンに言ったものの、すぐに良くなるわけがない。時間が必要だと諭された。
結局、自室で過ごすしかなく、監禁されているような閉塞感が増していき、気分は一層悪くなった。
エゼルバードは耐えきれないと感じ、側近兼友人を怠惰で薄情だと叱責した。
その結果、気分転換として急きょ外出することが決まった。
王立歌劇場へ行ってバレエを鑑賞することになったが、エゼルバードの気分は全く晴れない。
気がつくとリーナのことばかり考えていた。
……会いたいですね。舞踏会以来、会っていません。
リーナは兄の恋人。会いたいからといって不用意に会いに行くことはできない。
リーナをよく思っていない者が醜聞になるようなことはないかと探っている。何かあれば徹底的に叩かれるのがわかっているだけに、悪い噂になるようなことはできない。
平日は授業がある。多くのことを勉強するため、疲れるに決まっている。体調を崩すまで頑張り過ぎてしまう性格だけに、できるだけ休んでほしかった。
邪魔はしたくありません。私は懸命に努力するリーナを美しいと思うのですから。
そんなことをぼんやりと考えていると、一幕目が終わっていた。
一緒に観覧していたセブンに声をかけられ、初めて幕間になったことに気づいた。
セブンではなくリーナと共に鑑賞したかったと思いながら、エゼルバードは王族席の間に移動した。
「エゼルバードに面会希望がある」
王族席の間には不調のエゼルバードに変わって執務をしていたロジャーがいた。
本来は忙しいため、バレエどころではない。だが、エゼルバードを心配し、書類を持参して王族席の間で目を通していた。
「体調次第だ。断っても構わない」
「誰ですか?」
会いたいわけでもないが、バレエを観る気もしない。
暇つぶしの相手になりそうな者であれば受けてもいいとエゼルバードは思った。
「デーウェンの大公子と大公女、それからラダマンティス公だ」
思わぬ名前が出たため、エゼルバードは眉を上げた。
「バレエを観に来ているのですか? 他の席を全く見ていませんでした」
エゼルバードは開演直前に来たこともあって、付近のボックス席や特別席等がどうなっているのかに全く興味がなかった。
そのせいでアイギス達が来ていることにも気づいてなかった。
「特別席で観覧している」
つまり、舞台側のゼロ番。
中央にある王族席とは距離があるため、エゼルバードの様子がアイギス達に細かく伝わっている可能性はなかった。
「そうですか」
「しばらくは特別席をデーウェン関係者の招待に使うという話はしたはずだ。覚えているか?」
「なんとなく。ですが、誰がどの日にというのは聞いていない気がしました」
「チケットはまとめて外務省からデーウェン大使に渡している。大使館の常駐者が来るのか、本国から来ている者が利用するのかは会場に来るまではわからない」
「特別警備の依頼はなかったのですか?」
「なかった」
「では、わからなくても仕方がありませんね」
「王族席に突然お前があらわれたため、少しだけでも時間が取れるのであれば話をしたいと言っている」
「いつ?」
「大公子はすぐにでも。大公女はラダマンティス公と最後まで鑑賞したあとを希望している。一緒にお茶でもどうかということのようだ」
「いいでしょう。まずはアイギス大公子だけ通しなさい」
エゼルバードが許可を出したため、しばらくするとアイギスが顔を出した。
「エゼルバード王子、会えて嬉しい」
「こちらこそ。急きょ来ることになったので、ここでお会いするとは思いませんでした」
「開演直前になってエゼルバード王子が来たために驚いたが、話をするには丁度良い機会だと思った」
「何かお話があるのでしょうか? 土産物の話なら伺いました。帰国日までには手配できると思います」
エゼルバードはにこやかな笑みを浮かべつつも、アイギスが政治的な話を持ち出す可能性を考慮して警戒した。
「個人的な話だ。まずは王立歌劇場の席について。年間を通して権利を貸してくれる者がいないだろうか? できればボックス席がいい。謝礼金を含め、相応の金額を支払う」
王立歌劇場は王宮敷地内にある特別な施設の施設だが、その座席は全て年間予約で販売されている。
毎年同じ者が継続して購入してしまうため、新規購入はほぼ不可能。
とはいえ、年間の公演全てを観覧する者は少なく、席を購入している者が使用しない日の座席を転売している。
コネがある者を通し、金に糸目をつけずにどの席でもいいということであれば、さほど苦労することなく席を確保できる。
ただし、他国人は別。席を確保するのは難しい。
エゼルバードは友人や知り合いに他国人が多くいるため、王立歌劇場の席を何とか手配して欲しいという依頼を受けるのはよくあることだった。
「そういった話はよく来るのですが、無理ですね。そもそも他国人は席を購入する権利がありません。融通するのも簡単ではないことをご存知ですか?」
王立歌劇場ではエルグラードの公式行事もあるため、座席の年間予約を購入できるのはエルグラードの王族と貴族に限られていた。
但し、平民や他国人が利用できないわけではない。
公式行事などの重要な催しでなければ、席の保有者が招待したという体裁を取り、チケットと身分証を提示するだけでいい。
「金銭のやり取りは口外しない、座席の保持者が招待あるいは接待として極力同伴するようにするのもわかっている。だが、行きたいと思う度に座席を手配するのは手間がかかる。しかも、私自身のためではないからな」
「誰のためですか?」
「留学中のアリアドネが勉強と社交を兼ねて利用できるようにしたい。侍女、護衛、目付け役も含めると四席はいる。ボックス席がいい」
「いつどの程度使用するかは未定ということですね?」
「それで年間を通してという言い方にした」
「なるほど」
エゼルバードは理解できるという意味で返事をしたが、頷くことはなかった。





