610 退宮後どうしたいか
カミーラ達との夕食時間が長くなり、その後の予定がいつもより遅れたことから、リーナは就寝支度が終わると自由な時間を過ごすことなく眠りについた。
リーナは早起きして小論文を書こうと思っていたものの、そういう時に限ってなぜか寝坊してしまった。
但し、予定されている起床時間には起きている。侍女が起こしに来るよりも早く起きることができなかっただけだ。
そして、木曜日の朝礼。
ペネロペから、リーナ以外の全員が小論文を提出したことが伝えられた。
「リーナ様、小論文は明日金曜の朝礼時が締め切りになります。もう一度説明しますが、テーマは退宮後にどうしたいかです。考えにくいことかとは思いますが、側妃候補全員が提出する必要があります。数行程度でも構いませんので、必ず何か書いて提出して下さい」
「はい」
「ねえ、キフェラ王女はどうするの? いないのに提出できないわよね?」
「全員提出するはずであれば、一人だけ提出しなくていいのは狡いのではなくて?」
チュエリ―とエメルダがそう言うと、ペネロペは平然と答えた。
「私は通達事項を伝えているだけに過ぎません。提出しないことに対してどのような対応がされるのかはわかりません。ですが、キフェラ様は今日の午後、後宮に戻られるそうです」
「今日ですって?!」
「本当に戻って来るの?」
「図々しいわね」
「永久に国外追放してしまった方がいいのに」
次々と容赦ない声が挙がることにリーナは驚いた。
相手は王女だ。いくら側妃候補同士とはいえ、あまりにも遠慮がなさすぎるように感じた。
そして、キフェラ王女がエルグラードの貴族の女性達と対立していることは、エルグラードとミレニアスの関係が悪化していることを思い出させた。
エルグラードとミレニアスは揉めている。それ以外にもキフェラ王女は反感を買っているし、私のことも結局は認めないと言われてしまった。色々なことがあったけれど、両国の溝を埋めるどころか、深まっている気がする。
リーナは悲しくなった。
そして、何もできない自分の無力さを悔しく感じた。
夕食後、ようやくリーナは小論文を書くことにした。
侍女達は書斎に移動することを勧めたが、リーナは廊下を歩いて別の部屋まで行きたくはなかった。
しかも、まだ考えがしっかりとまとまっているわけでもなく、どの程度時間がかかるかわからない。
そこで寝室で書くことを伝えると、侍女達はすぐに小さな丸いテーブルと椅子、テーブルの上に置くランプを運んで場所を整えた。
リーナはベッドの上で本を下敷きにし、薄暗いサイドテーブルの灯りを頼りに書こうと思っていたが、その必要はなかった。
先に寝間着に着替えたリーナは、小論文を書いたらすぐに寝るつもりであるため、わざわざその際にベッドの周囲を整える必要はないことを侍女達に伝えてから寝室に移動した。
「まずは題名!」
一人になったリーナは用意された椅子に座ると、早速ペンで白い紙にテーマを書いた。
退宮後どうしたいか。
その後、リーナはじっと紙を見つめたままでいた。全く手が動かない。
ようするに、何を書けばいいのかいまだによくわからない。はっきりいえば、側妃候補の審査に落ちて退宮したくない。ペネロペが言ったように、考えにくいことだった。
立派な小論文を書けば、他の者達もリーナがしっかりと勉強している、教養のある女性などと思って評価がよくなり、クオンの妻にふさわしい女性へと一歩近づけるかもしれない。
そう思うからこそ、下手なことは書けないと思ってしまうのだが、正直に言えば、立派な小論文がどのようなものかもわからない。どうしようと思うまま時間が過ぎて行った。
「駄目だわ……書けない……」
リーナは深いため息をついた。
しかし、書かないわけにはいかない。リーナ以外の全員が提出している。
全員?
リーナはふと思い出した。
側妃候補は全員が揃って授業を受けていたわけではなかった。ミレニアスに帰国したままであるキフェラ王女がいない。
しかし、今日の午後に戻って来るということだった。
午後の授業に顔を出すかもしれないと他の側妃候補達が話していたものの、キフェラ王女は姿をあらわさなかった。
到着したばかりで疲れていることを考えれば、授業を欠席するのはおかしくない。だが、側妃候補は小論文を提出することになっている。
キフェラ王女も小論文を提出するように通達されたのかも……?
リーナが何を書こうかと悩んでいる今、キフェラ王女も同じく突然知らされた小論文を書くために頭を悩ませているかもしれない。
ああ、でも、キフェラ王女は頭がいいみたいだし、すぐに書いてしまいそう……。
となると、締め切りまで何日もあったというのにまだ書けていない自分は頭がよくない、賢くないような気持ちが強まった。
やっぱり私は何もできないままだわ……全然勉強もできていない……。
勉強不足の頭の悪い女性がクオンの妻になれるわけがない。周囲の者達に認められるわけもない。
でも、クオン様と約束したし……。
リーナは黄金の塔でクオンにプロポーズされた。
愛する男性が跪いてバラの花を差し出すという夢のようなプロポーズを忘れるわけがない。
一緒に人生を歩いて行く。クオンの側にいる。そのために懸命に努力する。
その約束を破ることは絶対にない。
そう思った瞬間、リーナは唐突に理解した。
「あっ! だったら……退宮しても同じよね?」
側妃の審査に落ちて退宮したとしても、リーナが歩く人生は同じだ。
クオンの側にいられるように懸命に努力する。
無理だと言われても、努力し続けて行く。それしかない。
リーナは予言者でも魔法使いでもない。平凡で、弱くて、ちっぽけで、何もできない無力な存在だ。未来がどうなるかはわからない。
それでも大丈夫。できることが必ずある。自分で見つけることができなければ、誰かに相談すればいい。
リーナの側には多くの者達がいる。リーナよりもはるかに優秀で頭が良くて頼れる者達ばかりだ。リーナがわからなくても、その者達ならわかる。すぐに解決してしまうかもしれない。
クオン。そして、兄と父。これまで知り合った多くの人々。
私……もう、一人じゃない。
孤児院にいた頃のように、ただ流されるだけ、耐えるだけの毎日ではない。
自分でできること、選べることが沢山ある。
何もできないわけではない。そう感じても、正しくはない。何ができるのかがよくわかっていないだけだ。
よくよく考えれば、書斎ではなく寝室で小論文を書きたいと伝えることで、必要なものを用意して貰えた。だからこそリーナの考えていた通り、寝室で小論文を書くことができる。
いや、リーナが考えていた以上だった。ベッドの上で本を下敷きにして書かなくてもいい。
侍女達は頭がいいからこそ、リーナが何も言わなくても、小論文を書くのに適した環境を整えてくれた。よりよい方法を見つけ、教えてくれたのだ。
そうやって、変えていける。少しずつ。とても小さなことから。
リーナはペンをもう一度握り直し、紙に視線を移した。
退宮後どうしたいか。
そこにはすでに題名が書かれていた。
リーナはペンを動かした。
「退宮するということが、どのような状況におけるものなのかはわかりません。ですが、私がしたいことは一生同じです。それは……」
リーナは言葉にしながら紙に文章を書いた。
一生同じだから迷わない。迷う必要なんかない!
リーナは一生懸命思ったことを紙に書いた。
ペンは止まらない。走り出した。リーナの強い気持ちと共に。
白い紙は次々と書き足される文字で埋め尽くされた。





