607 芸術の授業
後宮にきて側妃候補としての授業の内、まだ受けていないものは水曜日の五時限目にある芸術のみになった。
この授業を受けるのはリーナの他にラブ、そして王太子の側妃候補であるシュザンヌとチュエリ―だ。
水曜日の昼食時、カミーラとベルからシュザンヌとチュエリ―はリーナの悪口をさりげなく言ってくると思われるため、何か言われても冷静に対処するように、怒るのはラブに任せておけばいいと言われた。
しかし、リーナの正直な気持ちでは、シュザンヌやチュエリ―よりもラブの方が気になっていた。
ラブはウェストランドという強力な実家に守られているせいか若いせいか、自分の考えや感情をあまり隠そうとはしていない。
特に苛立ちや嫌悪感、不快感は見てすぐに言動にあらわれ、容赦なく周囲にぶつける。
リーナは感情の起伏が激しいセイフリードに仕えていたために、そういった人物が側にいることへの耐性は相応にある。
とはいえ、何らかの問題が起きてもリーナはうまく対処できるだけの能力がない。ラブがどうしようもなく怒ってしまった時のことが心配で仕方がなかった。
そして、ついに五時限目の時間になり、芸術の授業が始まる。
「皆様こんにちは。芸術の授業の講師を務めるカルメンです」
芸術の講師は派手な衣装で厚化粧とぼさぼさのようにも見える個性的な髪形した女性だった。
これまでの講師達とは装いも雰囲気も全く違うため、リーナはどんな授業になるのだろうかとますます不安になった。
「今回、芸術の授業を受講する方は四名です。過去に芸術を受講した方は一人もいません。もしかすると他の方からこのような授業だったなどと聞いているかもしれませんが、私の方から説明致します」
カルメンは乱暴な手つきで黒板にチョークで芸術、と書いた。
「芸術の授業だけに、芸術に関することを勉強する、そう思われているかもしれません。では、芸術とは何でしょうか?」
カルメンはラブを見た。
「そこの黒髪の少女、芸術だと思うものを答えて!」
「ちょっと! 名前位憶えて来なさいよ!」
早速ラブが不機嫌になった。
「生徒はたった四人なのよ? それでも講師なわけ?」
「私の質問が理解できていないようですね。では、そこの……こげ茶の女性! 答えて!」
ブラウンの髪を持つシュザンヌは表情を歪めつつも答えた。
「文芸や美」
「一つです! 次、金髪の女性! 派手な色の方!」
チュエリ―はリーナの髪を見た後にしぶしぶ答えた。
「美術」
「それはもうすでにこげ茶が言ったでしょう! 駄目です!」
「だったら音が」
「はい、音楽! 残った方!」
まだ質問されていないのはリーナしかいない。
リーナはカルメンの斜め後ろに立っている者を一瞬見た後、不安そうに答えた。
「……オペラとか」
「演劇ですね! 結構!」
カルメンは声高々にそう言うと拍手した。
「しっかりと答えられない方もいましたが、芸術といわれるものの代表的な種類が全て出揃いました。文芸、美術、音楽、演劇です。私一人でこれらについて全て語れと? 無理です! 芸術はこの世界にある美しいもの、素晴らしいもの全てといっても過言ではありません! 人の数、神羅万象の数だけ存在するようなものです! そこで、特別講師として招致した先生の専門分野を中心に授業を進めようと思います。では、特別講師を紹介します。ヴィクトリア=ノース先生です。はい、拍手!」
リーナは懸命に拍手したが、他の三人はすでにやる気を失い、適当な拍手をした。
カルメンに代わってヴィクトリアが教壇に立つ。
「皆様、こんにちは。ご紹介に預かりました特別講師のヴィクトリア=ノースです」
本名はヴィクトリア=ノースランド。
ノースランド公爵の孫娘であり、ノースランド伯爵の長女、そして、第二王子側近を務めるロジャーと近衛騎士を務めるアルフレッドの姉だった。
「皆様は私が誰かということをご存知かもしれません。ですが、講師として働いている際には身分に関する無用なトラブルを避けるため、ノースという家名を名乗っています」
ヴィクトリアは部屋を見渡すように首を動かした。
「私は王立学校、国立学校、私立学校の非常勤として芸術に関する講義をしています。この度、後宮の特別講師として新規に採用されました」
「前任者はつまらない授業ばかりだったからクビにしたのよ」
カルメンが憤然としながら言った。
「後宮で講義を行えるのは教育者として非常に名誉なことだと思っています。皆様にはしっかりと勉強をしていただきますが、より芸術に興味を持てるような授業にしたいと思っています。今日は初日ですのでカルメン先生から様々なお話があったと思いますが」
何も説明されていないも同然だけど。
自分だけでは無理だと言っていたわね。
もうヴィクトリアだけでいいわよ。カルメンいらない。
心の声はヴィクトリアには聞こえなかった。
「しばらくの間は私の専門についての授業になります。どのようなものかといいますと、演劇分野のオペラです。ですが、オペラが好きな方ばかりではないと思いますので、授業では有名な劇場で上演中のものを題材に取り上げ、皆様が劇場に足を運ばれる際に役立てることができるようにしようと思います」
「さすがヴィクトリア先生ね! これまでの特別講師のように知識や経験についての自慢話で終わらないで良かったわ! 上演中のものを題材にして学べば即戦力になります!」
笑顔で力いっぱいの拍手をしたのは講師のカルメンだった。
生徒四人は極めて静かである。
「今日取り上げるのは王立歌劇場で今週の金曜日から上演されるバレエ、眠り姫です。皆様は王太子殿下の主催された特別な音楽会に出席されていたはずですので、バレエがどのようなものかは理解されていると思います。もしわからないという方はバレエの本を読んで理解しておいて下さい。私はバレエの講師ではないので、バレエがどのようなものかという説明はしません」
ヴィクトリアは持参したファイルの中からチラシを一枚取り出した。
「眠り姫の話の前に、より深く芸術に興味を持っていただけるように、王立歌劇場の観覧ポイントの説明をしておきます。まず、こちらは見ての通り、以前王立歌劇場で上演されたバレエのチラシです。皆様もどこかでこのようなものを何気なくご覧になったことがあるかもしれません。こういった絵を描いているのは誰かご存知ですか?」
ラブが挙手した。
「ラブ様、お答えください」
「画家よ。商業的な絵やデザインの依頼を受けて制作する場合、イラストレーターとも言われるわ」
「その通りです」
ヴィクトリアは頷いた。
「画家は自分が描きたい絵を描くのが基本になります。依頼されて書くこともありますが、作品は世界に一つだけのものになります」
画家は多くいる。しかし、全ての画家が自分の描いた絵から十分な収入を得ているわけではない。元々働く必要がないほど裕福、経済状況が良好でない場合は副業をすることが多い。
劇場のチラシの絵などのように、商業的に必要な絵の依頼を受け、それを期日までに仕上げて納品することで報酬を得るような仕事もある。
そのような仕事をする者は画家と区別し、イラストレーターと呼ばれる。
イラストレーターの描く絵は原画になり、それを元に版画が制作され、印刷される。
同じ絵が大量に出回ることになるため、画家の描く絵よりも価値が低いと見なされるのが一般的だ。
「イラストレーターの絵は印刷するための絵とも言えます。ですので、このようなチラシやポスターはとても価値が低いと思われてしまうのですが、王立歌劇場のチラシやポスターに関してはそうとも言えません。なぜかといえば、高名な方々が手掛けているからです」
王立歌劇場は第二王子が管轄している。
第二王子は芸術を愛しているだけでなく、天才的な画家でもある。
そのため、王立歌劇場の催しの広告や販売物に使われる絵についてもこだわっており、公表はされていないものの、高名な画家やイラストレーター、芸術家などが制作に当たっている。
「ですので、劇場で何が上演されているかということだけでなく、こういったチラシの絵など、王立劇場に関わる様々なことに着目してみてください。建物自体も芸術品です。自身の目で確かめ、感じて見ましょう。美しいものに沢山触れるだけでも美意識を向上させ、芸術的な感受性を伸ばすことにつながります」
ヴィクトリアはそう言ってチラシをファイルにしまうと、別の演目のパンフレットを取り出した。
「これは劇場で手に入るパンフレットです。パンフレットの表紙はチラシやポスターと同じ場合もありますので、わざわざチラシやポスターなどを買う必要がないこともあります」
色々買わなくていいのはお得だわ。
リーナはそう思った。
「パンフレットには様々な情報が載っています。あらすじ、出演者、演出家等の紹介、見所やインタビュー等もあります。上演期間しか販売されず、数量限定のため、毎回完売してしまいます。ですので、できるだけ早めに購入しましょう。送料と手数料を払えば、自宅等への郵送も可能です。手続きが面倒だと思う方は王立歌劇場が主催する優美会に入るといいでしょう。会費がかかりますが、会報、上演の案内が届きます。上位の会員にはパンフレットも郵送されますので、劇場に足を運ばなくても手に入ります。観覧に行く際に役立つのは勿論のこと、社交にも役立ちます」
社交に?
リーナは興味を持った。
「社交では様々なことが話題になります。王宮で夜会がない週末は多くの者達が王立歌劇場に行って社交をします。その際、上演されているものについての話題が出ます。パンフレットによってしっかりと情報を確認しておけば、会話に役立つだけでなく、間違った情報に基づく発言をしなくて済みます。パンフレットは非常に有益な社交の教本、情報誌ともいえるでしょう」
ヴィクトリアは更にもう一冊のパンフレットを取り出した。
「これが金曜日から上演される眠り姫のパンフレットです。私は上位会員なので、初日よりも前ですが、すでにパンフレットを手に入れています。眠り姫は非常に有名な演目ですが、それだけに毎回制作されるパンフレットには並々ならぬ情熱が注がれています。というのも、前回とほぼ同じ内容でつまらない、前に上演されていた時のパンフレットの方が上だなどと比べられてしまうからです。今回のパンフレットはかなりの力作で、後ろの方にあるコラムも大変素晴らしいものになっています」
ヴィクトリアはちらりと一瞬だけカルメンの方を見た。
「このコラムは毎回高名な方々が書いたものの中から審査で選ばれたものが掲載されます。勿論、選ばれることはとても名誉なことであり、それだけ優秀なコラムだったということになります。ちなみに、今回選ばれたコラムを書いたのはカルメン先生です」
声にならない驚きと共に、生徒達の視線がカルメンに注がれた。
カルメンは大げさに照れるような素振りをした。
「まあ! ヴィクトリア先生、恥ずかしいですわ! 匿名で書いていますのに!」
「カルメン先生は芸術に関する講師以外にも、舞台等の脚本、小説、芸術関連のパンフレットの制作、雑誌等のコラム、貴族新聞への寄稿など幅広くご活躍されています。当然ではありますが、後宮の芸術担当講師になるのは極めて優秀かつ相応の実績がある方でなくてはなりません。王立歌劇場のパンフレット制作に関われるのはまさに一流の専門家である証であり、コラムが載るというのはエルグラードでも非常に優れたコラムニストと言えるでしょう」
こんな女性が優秀だなんて……本当に実力があるのか疑わしいわ。コネじゃないの? ああ、もしかするとゴーストライターに書かせたとか。匿名なら可能だわ。
見かけは全然一流に見えないどころか、変な女性にしか見えないのに。ヴィクトリアは常任講師のカルメンに配慮してお世辞を言っているのね、きっと。
私を黒髪の少女呼ばわりしたことをお兄様に伝えないと。二度とコラムで採用されないようにしてやるわ!
心の声は、またしてもヴィクトリアだけでなく、カルメンにも聞こえなかった。
しかし、聞こえたものもあった。
「凄い……」
思わずつぶやいたのはリーナだ。
カルメンは更にぶんぶんと音が出るほどに手を振って猛烈に恥ずかしがった。
「あらやだ……もう、リーナ様ったら! 否定しようがなくて困ってしまうわ!」
名前を知っていて私をこげ茶呼ばわりするなんて……!
名前を呼ばなかったのはわざとね! なんて講師なの!
この女……許さないわ!
怒りの形相になった生徒が三名いた。





