603 耐える者達
だが、クオンにとっては甘すぎた。
不味い……我慢できなくなる……。
現在、二人はベッドに腰かけている。しかも、口づけを交わしている。このままベッドに倒れこむのは非常に簡単かつ恋人同士であればおかしくない。
しかも、季節は夏。リーナは薄い生地の寝間着だけ。
袖やスカートの下半分はシースルーだったことをクオンは思い出した。リーナの足がよく見えたのはそのせいだったことを今更ながら認識する。
駄目だ! 忘れろ!
クオンは強靭な精神力を持って自らの欲望を抑えつけ、理性をかろうじて支えた。
「……そろそろ時間だ。私は戻らなければならない」
クオンはリーナに嘘をつきたくはない。だが、今の言葉は嘘だった。
クオンはきりのいいところまで仕事を終えて来た。王宮に戻る必要はない。このままリーナの部屋に宿泊できる。
しかし、抱きしめあいながら眠るだけというのは難しい気分だった。
早く自分のものにしてしまいたい。それを我慢することで、リーナを妻にするための行動力に変えようと思ってきた。
リーナは異性との交際経験がない。初めては大切にしたい。軽率なことはしたくなかった。
愛し合っているからこそ体を繋げたのだとしても、今の状況ではリーナは愛人扱いされてしまう。よくない。
クオンにとってリーナは妻だ。もしくは恋人、婚約者でもいい。しかし、愛人という言葉には拒否感がある。
ずっと一人の女性だけを愛し、妻にして大切にすると思ってきたからこそ、嫌なのだ。
クオンは懸命に今ここで欲望に負けるわけにはいかない理由を次々と頭の中に思い浮かべた。
「またお会いできることを楽しみにしています」
リーナはにっこりと微笑んだ。
どう考えても、今の状況をわかっていないような態度だ。
少なくとも、自分の姿が普段のドレスとは違い、クオンにとって十分刺激的なものであることに気付いてはいない。気づいていれば、ガウンを羽織るはずだ。
この場に留まるわけにはいかないものの、少しぐらいは王宮に戻ることを惜しむような態度を取って欲しいとクオンは感じた。
「よく休め。おやすみ」
「おやすみなさいませ」
もう一度軽く口づけをした後、クオンは大きなため息をついてから寝室を出た。
時間が経ってはいたものの、ヘンデルと護衛騎士が待っていると思っていたクオンは一瞬だけ硬直した。部屋には誰もいない。
「まさか」
クオンは顔をしかめた。
普通であれば、必ず誰かがいる。いないのはおかしい。
緊急事態が起きた可能性もあるが、状況からいって違う。
どういうことかといえば、クオンはこのままリーナの寝室に宿泊するだろうと思い、居間に待機し続ける必要はないとヘンデル達は判断した。だからこそいない。
もしこの推測が当たっているのであれば、クオンの護衛騎士達はリーナの護衛騎士達が控える部屋まで下がっている。
ヘンデルは王宮に戻り、自分の部屋で休む。その際、後宮に来るために使用された馬車はヘンデルが王宮に戻るために使用されてしまっている。
クオンは歩いて王宮に戻るか、もう一度馬車が用意されるまで待つ羽目になる。
これは……泊まれということか?
神の意志であるかはどうかはわからないものの、ヘンデルなら薦めそうなことではあった。
恋人同士であれば一緒に寝室で過ごしてもおかしくない。朝になってから王宮に戻ればいい。その方が目立たない。
以前にも一緒に添い寝をしたことがあった。今回も同じようにすればいいだけだ。
「私の精神力にも限界があるというのに……」
クオンは迷った。
泊まりたい。泊まれない。だが、戻れない。いや、戻りにくい。
すぐに打開策が浮かび上がる。
寝室で一緒に寝ていると思わせ、実際はクオンだけ居間のソファで寝るという方法だ。
居間には誰もいないため、二人が一緒でないことがわからない。侍女などが起こしに来るよりも早く起床して王宮に戻れば、クオンはリーナと共に寝室で一晩過ごしたと思われる。
何もなかったことはベッドのシーツを取り変える際にわかるため、まだリーナとの関係は清いものだと証明できる。
ソファで寝ることはよくある。それだけなら辛くもなんともない。しかし、リーナの寝室の隣にある居間のソファでわざわざ寝るのは辛い。
これほど近くにいるのであれば、一緒に眠りたい。ベッドの端でもいい。むしろ、そうしないと危ない。いや、それもかなり辛い。
しばらく考えた後、クオンはドアを開けることにした。
リーナの眠る寝室ではなく、護衛騎士達がいると思われる部屋のドアを。
クオンは歩いて王宮に戻ることにしたのだ。
騎士達が控える部屋には推測通り護衛騎士達がまとまっていた。そして、ヘンデルも。
「あれ? 戻るの?」
ヘンデルが残っていたのは護衛騎士達と話をするためであって、クオンを待っていたからではなかった。
しかし、それはまだ馬車が残っていることを示している。
「戻る」
「せっかくだし、泊まっちゃいなよ」
予想通りの提案が来た。
そうしたいのはやまやまだが難しいのだ!
クオンは心の中で叫びながらも、実際には淡々とした口調で答えた。
「リーナは疲れているようだ。ゆっくり休ませたい」
「癒してあげればいいじゃん」
クオンはヘンデルを睨みつけた。
「戻る」
「なかなか時間取れないわけだしさ。今夜は一緒に過ごしておいた方がいいと思うよ?」
「戻ると伝えて来た。嘘になる」
「だから? やっぱリーナちゃんと過ごしたくて変更したって言えばいいだけでしょ? 喜ぶよ」
クオンの中で苛立ちが強まった。
「戻る! どうしても気になることがある。問題が見つかったのだ!」
「えっ、何?」
ヘンデルは即座に反応した。
そもそもクオンが寝室に入る際、何かがあったような感じだったため、気になっていた。
「お前は聞いているのか? リーナの選択科目に関することだ」
「ダンス、社交、芸術でしょ?」
「そのことではない。今日の授業で問題が起きたことだ」
「聞いてない。どんなこと?」
クオンは簡単に事情を説明した。
「だったら、ノアの方で何とかする気じゃないかなあ?」
リーナの教育内容に関しては三人の担当者をつけることにした。
筆頭はノア=カームヴェレック公爵だ。
「報告がないのはよくない」
「初めて起きた問題だから、後宮側との話し合いをしてから報告する気じゃん?」
「それでは遅い」
「遅いかな?」
「問題が発生した時点で、リーナは不安になっている。後宮への対応は担当者に任せるとしても、リーナを励まし不安を緩和するのは私の役目だ。何も報告されなければ知りようもない。恋人としての務めを果たせないではないか!」
ヘンデルは目を輝かせた。
「うわっ、予想外! でも、凄くいい! それそれ、それだよ!」
「茶化すな。私は真面目に話をしている」
「ごめん。俺、今の言葉に感動した! ノアには俺からしっかり言っとくよ!」
「私から直接話す。呼べ」
「えっと……これから?」
ヘンデルの表情が変わった。
「王宮に戻ってすぐに話す」
ヘンデルは急速に勢いを失った。
「ノアはもう寝ているよ。明日にすればいい。朝一で呼び出す」
「それでは遅い。ノアがいつどのように対応する気なのかを確認する」
「寝てるよお」
「起こせ」
「嫌だなあ。ノア、絶対文句言うよ」
「自分で行きたくないなら、侍従に起こしに行かせればいい」
「来ないよ。適当に理由をつけて朝一って言い出す。あれでも公爵だから、下の者じゃ手に負えない。それにノアを呼ぶなら俺も同席しないといけない。体を休めないといけないって話をしたばかりなのに無視するわけ?」
「今夜だけは耐えろ。私も耐えている」
色々な意味で。
クオンは心の中で付け加えた。
「取りあえず、王宮へ戻ろうか」
「ノアが起きなければ、騎士に連行させろ」
断固として今すぐ呼びつけるという意思表示に、ヘンデルはわざとらしく震えた。
「うわわっ! リーナちゃんに関わることには容赦ないな! だったら最初から騎士を伝令にしようよ。嫌がったら即連行できるから早く来るよ」
ヘンデルはノアの部屋に行きたくもないが、侍従を行かせることによって無駄な時間が消費されることも嫌だった。
そこで、王太子の強い意思表示に基づいて騎士を活用することにした。
「そうする」
「だってさ。よろしく!」
ヘンデルはにんまりと笑った。
それを見た護衛騎士達は、カームヴェレック公爵を起こしに行くことになる騎士達に同情した。
カームヴェレック公爵は若くして公爵位を継いでいることを理由に、残業を極力することはなく、睡眠時間をたっぷりと取る主義だ。
勿論、毎日多くの睡眠時間を王宮にある自室で取っているわけではない。女性と過ごす夜も多くある。
もし、カームヴェレック公爵が女性と過ごしていれば、仕返しが怖い。
カームヴェレック公爵は絶対に命令をした王太子ではなく、起こしに行った騎士に仕返しをしてくるからだ。
クロイゼルを起こした方がいいかもしれない。
護衛騎士達は最強を自他共に認める護衛騎士を派遣するのが最も適切かつ迅速に対応できるような気がした。
さすがのノアも王太子付き筆頭護衛騎士が直接出向き、抵抗すれば連行と知れば、即座に支度する。無駄なあがきをすることもない。
しかし、クロイゼルもまた同じく、女性と過ごしているかもしれない。
となると、まず起こすのはアンフェルか。
最強の相棒アンフェルは、最強に貧乏くじを引く可能性も高かった。





