601 一喜一憂
「今のままで大丈夫です。規則正しい生活は健康的ですし、勉強もしたいです。色々な時間が適度にあって丁度いいと思っています」
「わかった。だが、我慢はするな」
「クオン様は本当に優しい方ですね。少し位は我慢するようにというのが普通です」
クオンは自分の優しさが限定的かつ豊富ではないと思っているため、苦笑せざるを得なかった。
「お前にとっての普通の我慢は、相当な我慢になる気がする。それはよくない」
「普通、我慢できるのはいいことだと思いますけど」
「普通はそうだ。だが、間違った我慢は良くない」
「我慢にも間違いがあるのですね」
「ある。倒れるまで仕事をすること、勉強をすることはよくない。間違った我慢だ」
クオンは過去にリーナが倒れたことを戒めるためにそう言った。
しかし、リーナは頷きながらも別の内容を口にした。
「そうですね。気をつけないといけないと思います。私もですけど、クオン様も同じです。倒れるまで仕事はしないで欲しいです。食事や睡眠時間はしっかり取っていただきたいですし」
言われてしまった。
クオンはまたもや苦笑するしかない。だが、リーナが自分のことを考えてくれるのは嬉しかった。最上級の優しさと思いやりが込められた言葉を無下にはできない。
「努力する」
「できることなら、休憩時間も取って下さい」
「今、取っている。お前との時間が私にとっては休憩時間だ」
リーナは困ったような表情になった。
「それは嬉しいですけど……でも、休憩時間があまりないからこそ、私はクオン様になかなか会えないわけですよね?」
「……否定はしない」
「絶対に仕事が多すぎます。なかなか会えないのは我慢できますけど」
会えないのは我慢できるだと?!
クオンは眉間にしわを寄せた。
「クオン様の健康が損なわれることは我慢したくありません。だから、クオン様のために休憩時間を増やしてください。それは私にとってもいいことです。休憩時間が多ければ、クオン様とお会いすることができます」
クオンはリーナの言葉に一喜一憂してしまう自分にため息をつきたくなった。
「わかった。もっと休憩を取れるように工夫する。入宮させれば自然とお前に会う時間が取れるようになると思っていたが、それは間違いだった。執務に関しては根本的に変える必要があると思っていたところだ」
「私もクオン様にもっと会えるように勉強します。沢山勉強すれば、勉強することが少なくなります。授業が減って、その分クオン様と会えますよね?」
後宮の授業は受けなくても構わない。それよりも執務室の側の部屋で自由に過ごして欲しい。そうすれば五分間の休憩でも会える。
そう言いたい気持ちをクオンは抑え込んだ。
「……そうだな。仕事が終わらず一緒に食事を取る時間を作れなかったが、結果的にはこうして様々な話をすることができた。お前が日々どのように考えて過ごしているのかを知ることができた。私への報告はなくても、お前の周囲では問題が起き、多くの者達が対処しようとしていることもわかった。有意義な内容ばかりだ」
「ご多忙にも関わらずわざわざ来て下さったのに、あまりいいお話をできなくて申し訳ないです」
二人で過ごせる時間は貴重だ。リーナもわかっている。
恋人同士甘い時間を過ごしたい、互いの愛情をより育みたい、楽しい時間を過ごしたいという願望が人並みにあった。
しかし、実際にクオンと会って最初の会話は問題が発生した話だった。
甘い雰囲気がないどころか、ただでさえ忙しいクオンに迷惑をかけ、仕事を増やしてしまったのではないかと懸念した。
「部下が解決するようなこともあるだろうが、お前の周囲で何が起こっているかは把握しておきたい。話してくれて良かった。お前が苦しい立場にいても知らず、何もしていないようでは駄目なのだ。私はお前を幸せにしたい。そうなるように自ら行動していかなければならない」
リーナはクオンの優しさを感じた。
「私……そういっていただけることが幸せです。クオン様の隣にこうしていることも、お話できることも。それだけで十分です。私は多くを望むつもりはありません。クオン様はとてもお忙しい方ですし、とても重要なお仕事をしています。クオン様の邪魔をすることは、エルグラードという国や国民に悪い影響を及ぼしかねません。もし、私がクオン様やエルグラードにとってよくない存在になってしまうのであれば、ここを出て行くつもりです」
リーナは夕食後、提出しなければならない小論文の内容を考えた。
最初は退宮=後宮の外に行くと考え、実家であるレーベルオード伯爵家に戻ってすること、ウォータールハウスのことや領地の様子、確認したいことや見たいものが沢山あると思っていた。
そのことは昼食時にカミーラ達にも話した。
アイギスと話をした際にも、デーウェンという国や海など、自分が見たこともない素晴らしいものが世界には多くあることがわかった。
後宮の外に出たら、知らなかったことを沢山知りたい。見ていないものを沢山見たい。
単純にそう思っただけだった。
しかし、よくよく考えているうちに、退宮というのは側妃候補の審査に落ちたからという理由によるものかもしれないことに気付いた。
単純に住居が変わる、婚姻前に実家に戻るという話ではないかもしれないと。
クオンと婚姻できなかったら。婚姻しても嫌われてしまったら。離婚することになったら。この先の人生に訪れるかもしれないこと、退宮する理由を思い浮かべた。
リーナはクオンの役に立ちたい。何でもしたい。でも、クオンの邪魔になってしまったら。どんなに努力しても無理だということになったら。妻ではなく侍女などとして働きたくても駄目だと言われたら。顔もみたくないと言われてしまったら。
王族の側近や重要機関に務める父や兄にも迷惑をかけてしまうのは間違いない。ならば、いっそのことエルグラードを出て行こう。そして、知らない世界を見に行くのもいいかもしれない。
レーベルオード伯爵と離婚した母親もエルグラードを出てミレニアスに行き、新しい人生を歩くことにした。自分も同じようにすればいいのかもしれない。
そんな風にリーナは考えていた。
もしもの時の覚悟があるというリーナの言葉は、クオンを動揺させるには十分すぎるほどの威力を持っていた。
エルグラードを出て行くだと?!
クオンは頭が真っ白になった。
だが、一瞬だけだ。回復は早い。すぐに優秀な頭脳が活発に動き始めた。
以前にもリーナはクオンのために身を引こうとしたことがあった。そのため、クオンの強靭な精神力に更なる耐性と対応力が追加されていた。
「……どこへ行くつもりだ?」
クオンは真剣な表情でリーナに尋ねた。
「えっ?!」
リーナはクオンの威圧感に驚きつつも、素直に思いついたことを口にした。
「と、とりあえず、隣の国です。ミレニアスとか」
リーナは元々ミレニアスで生まれた。実の両親も住んでいる。エルグラードにいられないということになれば、両親を頼るのが最も良さそうに思えた。
弟のフェリックスはエルグラードへの留学を考えている。もし、エルグラードにいるのであれば、連絡を取れるかもしれない。
フェリックスに事情を話し、ミレニアスの両親の元まで行くためのお金を貸して貰うなり、馬車を手配してくれるように頼めるのではないかと思った。
それを話すと、クオンはリーナに確認するように尋ねた。
「では何か会った時、お前はまずはフェリックスを頼るということだな?」
「最初に頼るのはお兄様だと思います。後、お父様――レーベルオード伯爵です。でも、迷惑をかけるわけにはいきません。国を出て行くということであれば、フェリックスと話をすると思います」
リーナは正直に自分の考えを話した。
「なるほど」
クオンはリーナを手放す気は全くない。絶対に離さないといってすぐに抱きしめたい衝動に駆られてもいた。
しかし、懸命に自らを抑え、冷静さを保つようにしてリーナに質問した。
そうすることで、リーナに何かあった際、誰を頼ろうと思っているかを知っておきたかった。
勿論、その相手は我儘を言ったり甘えたりすることがほとんどないリーナが心から信じ、頼りにしている者達ということだ。
侍女や護衛騎士などがいるためにありえないことだが、リーナが後宮を抜け出す、行方不明になるようなことがあれば、真っ先に連絡を取るはずの相手を調べるのが有効だ。
例え国外に行くつもりであっても、リーナがどのようなプランでいるかを知っていれば、迅速かつ的確な対応ができる。
クオンは直属として第一王子騎士団と王太子騎士団、更に国軍を王太子の権限だけで動かすことができる。
リーナがミレニアスで誘拐されてしまった時のような失態はありえない。使えるものは全て使い、全力で探し出して必ず連れ戻すつもりだ。
「非常に適切な行動だろう。何かあった際、人は身内を頼るものだ。しかし、お前は重要なことを忘れている」
「えっ、何を忘れているのでしょうか?」
リーナは慌てるように尋ねた。
「お前が最初に頼るべきはパスカルでもレーベルオード伯爵でもフェリックスでもない。私だ。どんなことでもいい。相談に乗り、解決する。それが一番早く対応でき、間違いないだろう。他の者に頼る必要もない。私の愛と守護は常にある。その証として指輪を贈ったではないか」
「あ……」
確かに指輪は貰った。満月と船の指輪を。
「指輪はどうした? 嵌めていないようだが」
「寝る時は外しています。ずっとしていると指が凝るというか……申し訳ありません」
「それなら仕方がない。だが、あるのだな?」
「あります」
「寝る時以外は身につけているのだな?」
「起床する際につけます。就寝するまでは身に着けています。入浴中とか、特殊な事情がある時は外しますけれど」
「それなら問題ない。あれが大きすぎて重いというのはわかっている。いずれ、常に嵌めておけるシンプルな指輪を贈る」
「いつ頃でしょうか? できるだけ早い方が嬉しいのですが……」
「満月の指輪は嫌なのか?」
リーナは慌てて首を横に振った。
「違います! 嫌ではありません!」
「考えておく。もう少し我慢しろ」
「我慢しているわけでは……ないのですよ?」
リーナはクオンの気分を害してしまったのではないかと不安になった。
せっかく愛情の印としてくれたものを、嫌がっていると思われてしまったのではないかと。
しかし、そうではない。あまりにも大事な指輪のため、気になるだけだ。
物理的に重いというだけの話ではない。
「わかっている。早く私の妻になりたいのだろう?」
「えっ?!」
リーナは驚いた。
「違います!」
その答えこそ、クオンの気分を害することになった。





