582 カドリーユ
リーナはひたすらカドリーユの練習をした。
まずは一人で。女性の動作だけであれば、ゆっくりと確かめるように一人でできる。
そして五時限目の時間になり次第、補習に参加するカミーラ、ベル、ラブが来たため、拍子、音楽に合わせながらペアになってカドリーユを踊った。
「疲れた……」
思わず部屋に帰るとリーナはそう言いながら、ソファに倒れ込んだ。
はしたないと思う声が頭の中で響くも、ぐったりとした体は動かない。
自室に戻るまでの廊下では多数の後宮の侍女や侍従達と遭遇する。
みっともない姿を見せてはいけないと思い、重い足をなんとか動かして帰り着いたものの、ソファに身を預けた瞬間、気力が一気に抜け落ちた。
「リーナ様!」
「どうされたのですか?!」
「具合がよろしくないのでしょうか?!」
「リーナ様! リーナ様!」
慌てた侍女達が騒ぎだした。
リーナはすぐに大丈夫だと言うべきだったが、言葉をかける余裕はなかった。
とにかく休みたい。今は。
そして、急激に訪れた睡魔に身を委ね、眠ってしまった。
常に真面目で礼儀正しいリーナが突然ソファで居眠りをするとは思わなかっただけに、侍女達の顔は蒼白になった。
「リーナ様?!」
「お気を確かに!!!」
「医者、医者を!!!」
「お、王太子殿下にお知らせしなければ!!!」
リーナが深い眠りに陥ったことにより、騒ぎはますます大きくなった。
リーナが倒れたという知らせを聞いたクオンは即座に会議を放り出し、後宮へと向かった。
「リーナ!」
クオンが到着する頃には、リーナが心身共に疲れ過ぎて急激な眠気を感じ、堪えきれずに眠ってしまっただけだとわかっていた。
かけつけた医者もいなくなり、騒がしかった部屋は平穏を取り戻していたが、王太子が突然来訪したことにより、またもや緊迫した空気に包まれた。
「王太子殿下!!!」
この時になって王太子への緊急伝令は出たものの、問題が落ち着いたという続報の伝令がまだだったことに侍女達は気づいた。またもや顔面蒼白になる。
「クオン様……」
「大丈夫か?」
リーナは執務で多忙であろうクオンが突然来るとは思っていなかったため、自分の取った行動がいかに不味かったのかを実感して青ざめた。
「顔色が悪い。何があった? 倒れたと聞いたが……」
毒。暗殺未遂。すぐに思いつくのは命の危険に関わるような理由だった。
クオンはリーナの不安を煽らないように、違う理由を考えた。
「……貧血か?」
女性は貧血を起こすことがある。男性に比べると頻度が高い。
「それとも……過労か? 今日から勉強が多くなると聞いた。辛かったのか?」
クオンの表情は真剣であり、心からリーナを心配していることがわかるようなものだった。
そのため、誰もが困った。本当のことを伝えにくい。しかし、誰かが伝えなくてはならない。
「お、恐れながら申し上げます」
勇気を一番に出したのはリーナ付きで最も上位の後宮侍女ヘンリエッタだった。
「リーナ様は本日多くの勉強に励まれましたが、かなりの緊張をされていたと思われます。部屋に戻ると安堵され……」
寝てしまった、とは言えない。
「心身共にお疲れになられて……」
寝てしまった、は禁句だ。ヘンリエッタは頭の中で違う表現を考えた。
「医者の診断では過労とのことです。ゆっくり休まれるようにということでした」
医者はそう言っていた。疲れたのだろうと。つまり、過労だ。ゆっくり休むようにと言ったのも事実だった。嘘ではない。ただ、眠ってしまったという部分はあえて省略した。
「そうか。だが、過労で倒れるまで勉強させるとは、どういうことだ?」
クオンの口調は強く厳しい。怒りが込められているのがわかるだけに、ヘンリエッタはより青ざめた。
「……申し訳ございません。授業に関しましては教育係が担当です。至急呼び寄せます」
「待ってください!」
リーナが叫んだ。
「あの、大丈夫です。私が……勉強不足だったせいなのです!」
リーナは呼ばれた教育官が叱責されると思った。
しかし、教育官は悪くない。勿論、侍女達も。
自分が勉強不足だった。カドリーユを踊れなかった。そこで練習した。可能な限り、まさに力尽きるまで。
リーナは自分が働いていた経験があるだけに、体力にも自信があった。最近はほとんど運動していなかったということを忘れ、沢山運動しても大丈夫だろうと見誤った。
とにかく必死だった。休憩も取らず水分も取らず、ひたすら練習していた。
部屋についた瞬間、吸い寄せられるようにソファへ向かった。その後は一気に疲れが押し寄せた。
そして、そのまま寝てしまった。遠くで声はしていると認識しつつも、目が開けられなかった。そのまま熟睡してしまった。
それが問題だった。大騒ぎになってしまった。王太子がわざわざ王宮からかけつけるほどに。
「午後はダンスの練習を沢山したので疲れてしまって……ソファについたら……」
リーナは勇気を出した。
「物凄く眠くなってしまったのです。だから、倒れたのではありません。気を失ったわけでもなくて……その……」
「居眠りしたのか?」
「はい」
「そうか……」
クオンは安堵のため息をついた。
「知らせを聞いて驚いた。命に関わるようなことが起きたのではないかと動揺した」
全然違った。
勉強に疲れ、眠ってしまっただけだった。
「まさか、これほど騒がれるとは思わなくて……」
「大丈夫だ。お前は懸命に勉強した。疲れて眠ってしまうほどに。相当な努力をした証ではないか。気にすることはない。ゆっくり休め」
クオンは優しく励ますように言った。
しかし、リーナは喜べなかった。ただ、自分の不甲斐なさ、申し訳なさが胸いっぱいに広がった。
「本当に申し訳ありませんでした。これからは気をつけます。もう、このような騒ぎにならないように注意します」
リーナは心から謝罪した。それしかできない。
自然と瞳が潤み始めた。強い自責の念によって。
「大丈夫だと言ったはずだ。謝る必要はない」
クオンは別の理由も付け足した。
「お前に何かあった際、私にすぐ知らせるという命令が実行されたことが確認できた。不意をついた訓練になった。結果として役立った部分もある」
王宮と後宮は隣同士だが距離がある。緊急事態がすぐに伝わるかのテストはしていたが、所詮訓練だとわかった上でのものだ。実際にそういう場面にならないと、どれほどうまく機能するかはわからない。
そして、どんなに早く報告が来ても、クオン自身がどう対応するか、後宮に向かうためにどの程度の時間がかかるのかも、報告を聞いた状況次第でわからない。
クオンが会議を放り出して後宮に行くという事態が予想外だったため、時間を短縮するはずの馬車の用意に時間がかかった。また、最初の一報は早かったのかもしれないが、続報が入らなかった。
冷静に考え出すと、いくつもの問題点や改善すべき部分があることに気付いた。
「それにしても意外ではあった。疲れ果てて倒れるほど勉強するとは思わなかった」
「いえ、そんな……ただの居眠りです。本当にごめんなさい」
すでに事情を説明してしまっただけに、リーナは潔く認めた。ただの居眠りであると。
「だが、お前は以前働いていただろう? スプーンより重いものを持ったことがないなどというような深層の令嬢でもあるまい。体力もそれなりにあるはずだ。それこそ、セイフリードよりも」
「え、あ、まあ……」
比べる対象のせいで答えにくいと思ったリーナは、曖昧な返事をした。
確かに以前は働いていた。スプーンよりも重いものを持ったことはある。むしろ、それ以上に重いものを持たない令嬢がいるのかと驚くしかない。
体力は普通にあるとは思う。セイフリードよりも上かどうかはわからないが、階段を登り続けることに関しては、リーナの方が上だった。レールスの観光時は。
「ああ、そうか」
クオンは思い出した。そして、納得した。
「昔、働き過ぎて倒れたことがあったな」
リーナも思い出した。確かに、働き過ぎて倒れた経験がある。
それをエゼルバードに発見され、医務室に運ばれた。
「努力家で真面目なのはいい。だが、倒れるまでするのはよくない。過労を軽んじてはならない。死に至る場合もある。居眠りだと言っても、状況から見れば、かなりの疲労や緊張などがあったことも推測できる。結果として周囲にも心配をかけてしまった。同じようなことを繰り返すべきではない。健康的に勉強できるように調整すべきではないか?」
「はい。その通りです。大丈夫だと思った私の判断ミスです」
「午後の休憩は取ったのか?」
リーナはぎくりとして体を震わせた。
その様子を見れば、休憩しなかったことが明らかである。
クオンはため息をついた。
「無理をするな。休憩を取るのも大事なことだ」
「はい。でも、時間がないので焦ってしまって……」
「時間がない? 土曜日のことか?」
「はい。踊れないと困ってしまうので」
クオンは眉をひそめた。
「お前は踊れるだろう?」
「ワルツだけです。カドリーユは踊れません。しかも、全くです。初めて見ました」
「カドリーユ?」
クオンは瞬時に険しい表情になった。
舞踏会で側妃候補がデーウェンへの接待役の一員として選ばれたこと、両国の友好を示すためのダンスに参加することは知っている。
リーナが他の男性と踊るのを許したくはない。
しかし、側妃候補は勉強中という立場になるため、何らかの失敗をしても咎められにくい。
今の状況を積極的に利用し、失敗を恐れずに多くの経験を積み、勉強させる好機でもある。無用な心配をし過ぎて、リーナの勉強する機会を奪うのは得策ではない。
側妃候補としての参加であれば、国賓の側に設けられる専用の場所で過ごすため、一般の者達に囲まれて混乱することもなく、警備面でも安全など他にも良い点もある。
そういったことから王太子としても許可することにしたのだが、まさかリーナの踊れないダンスをする予定になっているとは思ってもみなかった。
取りあえずはファーストワルツ、踊る相手は慎重に検討するということだったため、ワルツだけ踊る、一回だけだと思っていた。
しかし、カドリーユを踊るということはファーストワルツだけではない。取りあえずの内容で許可を貰い、後から追加されたのだ。しかも、追加された内容がクオンには伝わっていない。
側近は知っているのかもしれないが、詳細が決まり次第、必ず自分まで報告するように指示し、リーナが不安になったり恥をかいたりする可能性があるようなことは絶対させるなと厳命した上で許可を出すべきだったとクオンは反省した。
「あれは難しい」
クオンはダンスができないわけではない。運動能力もある。しかし、カドリーユは可能な限り踊りたくないダンスだった。
クオンが未成年の事、多くの女性達を王太子に会わせるきっかけとしてカドリーユが利用された。
おかげで短いパートごとに次々と違う相手とダンスをさせられ、クオンは沸々と湧きあがる怒りと不快さに耐えながら踊った。
後から文句をつけたものの、王太子として多くの貴族と面識を持つのは当然、普段はどうしても男性の友人との交流が多くなることから、こういう時こそ女性との交流をしておく機会、よい勉強だと一蹴された。
しかも、この趣向が見合い等や男女の出会いを作りきっかけに丁度いいとなって流行ってしまった。
数年の間ではあるが、カドリーユといえば、相手をパートごとに頻繁に取り換えるのが当然になってしまい、クオンは余計に腹立たしさを募らせた。
過去の記憶と共に怒りと不快さの感情までが蘇る。
「カドリーユは踊らなくていい」
リーナはただの側妃候補ではない。王太子の恋人ということは周知の事実だ。
いくら外交に関わる催し、友好を演出するためとはいえ、自分の恋人が多くの異性と踊るのを許したくはないと思った。
「えっ、でも、人数があるので困ってしまいます……」
「人数?」
カドリーユは四組。つまり、必要な女性は四の倍数だ。
側妃候補は十三人。一人多い。リーナを不参加にすればいいだけだとクオンは思った。
「キフェラ王女がいないので、側妃候補は今十二人なのです。だから、私が踊らないと一人足りなくなってしまいます。なので、当日は体調不良などによる欠席がないようにしなければならないと聞いています」
完全に失念していた人物の名前が上がり、クオンは眉間の皺を深くした。
最初はワルツの話だった。そして、カドリーユを踊ることになった。それは現在の側妃候補が十二人、四の倍数であることが原因かもしれない。
偶然。単純な考えかもしれない。
だが、なぜ側妃候補が参加するだけでなく、わざわざ接待役の一員になることが提案されたのか。
これまでは一度としてそういったことがなかった。
考えられる理由としては、他国人であるキフェラ王女がいたためかもしれない。
エルグラードと他国との友好のための催しに他国人が積極的に介入すること、しかも接待役をこなすのは無理だというわけだ。
しかし、今回は王女の不在時のせいか、側妃候補に接待役の話が来た。
国王主催の催しではあるが、臨時の催しだ。外交関連ということもあって、国王府ではなく外務省が主導する。それを宰相府が監督し、国王府や王太子府、王子府などに報告する。
つまり、王宮で開かれる催しであっても下位の組織が主導し、上位の組織は簡単な報告に目を通して承認するだけになる。細かい部分までいちいち関知しない。
だからこそ、見落としやすい点が出てくる。
例えば、クオンが大まかな内容だけで承認を出し、実際は後から追加、変更される。しかし、すでに承認は出ているため、大幅な変更等でなければ問題ないだろうと思われる。報告が上がらない。側近止まり、もしかするとより下位の担当者止まりというようなことも出てくるのだ。
クオンはリーナを音楽会に招待したとはいえ、王宮ではなく王立歌劇場だった。王宮の国王主催の催しに参加したことはない。
緊張するに決まっている初めての催し。政治的な思惑が絡む重要な舞踏会における大役抜擢。難しいダンス。
重要な催しでデビューできるともいえるが、失敗や問題を起こしやすい要素がより多く詰まった状況だと捉えることもできる。
嫌な予感がする。
クオンはこうなった経緯を詳しく調べる必要性を感じた。





