580 火曜日の朝礼
火曜日。
リーナは学習室に向かった。これから平日は学校へ通うのと同じく学習室に行く。
そのこと自体は嬉しくもあり、勉強しようという気合も十分ある。
しかし、悩んでいることもあった。それは、選択科目を何にするかということだ。
「おはようございます、リーナ様」
リーナが学習室に入った途端、すでに来ている他の候補者達が次々と挨拶の言葉をかけた。
リーナは懸命に名前を思い出しながら答えた。
「おはようございます」
身分の高い女性から、というのが何かをする際の基本中の基本になるが、ラブはいなかった。
リーナは気を取り直し、もう一度、頭の中に名前を思い浮かべた。
「オルディエラ様、エメルダ様、セレスティア様、アルディーシア様、ユーフェミニア様」
まずは公爵家。本来であれば、四大公爵家の令嬢であるラブが最初に加わる。
ユーフェミニアは侯爵令嬢だが、父親は従属爵位で、いずれは公爵になる。つまり、将来は公爵令嬢になることを加味する必要がある。
「メレディーナ様、シュザンヌ様、カミーラ様、ベルーガ様」
次は侯爵家。カミーラとベルはイレビオール伯爵令嬢だ。やはり、将来はシャルゴット侯爵令嬢になるため、侯爵家の者として考えておく。
「チュエリー様」
リーナと同じ伯爵家の令嬢はチュエリーだけになる。序列はレーベルオード伯爵家の方が上になるが、ホルスター伯爵家も建国当初からの古い家柄で、武門の家系として知られている。
側妃候補は十三人。自分以外は十二人。キフェラ王女は帰国していないためにいない。ラブもまだ来ていない。十人に挨拶すればいい。
リーナは全員の名前を言えたことに安堵していたが、リーナの挨拶を聞いた者達は個々頃の中でそれぞれに思った。
名前は省略すればいいのに。
一気に挨拶すればいいのに。
全員の名前を覚えたことをアピールしたいのかしら?
ベルでいいのに。
勿論、誰一人として心の中のつぶやきを言葉にすることはなかった。
「リーナ様、選択科目はどうされるのですか? もし、決定されているようであればぜひお聞きしたいのですけれど」
席に着く前に声をかけたアルディーシアに対し、他の候補者達の視線が一斉に集中した。
睨むような視線も多数ある。
身分や序列の高さを考えれば一番に話しかけるべきではないという理由もあれば、先を越された、牽制のためなど様々な理由があった。
アルディーシアは全ての視線を完全に無視した。
「もしよろしければ、相談に乗りましてよ?」
「相談に?」
「アルディーシアが?」
「ろくに授業にも出ていなかったのに?」
「随分とお優しいですこと」
「狙いが見え見えですわ」
「本当に図々しいわね」
「同じ授業を選択するおつもりかしら?」
次々と返って来る言葉の中に、リーナのものはない。
リーナは学習室に漂う独特な雰囲気に呑まれ、固まっていた。
アルディーシアは優雅に微笑みながら、言葉を紡いだ。
「本当に話すのがお好きな方たちばかりで困りますわ。私はリーナ様にお聞きしたいだけですし、皆様もご興味があるのはわかっていましてよ?」
「興味があるとは言っていませんわ」
「アルディーシアの無作法はいつになったら治るのかしら?」
「公爵家令嬢だからといって、許されませんわ」
「いつまでたっても学習しないから」
「所詮、養女ですしね」
一瞬にして、その場が静まり返った。
「あら? リーナ様も養女でしてよ?」
アルディーシアの返しに、チュエリーは表情をひきつらせた。
これまでであれば問題がなかったことであっても、リーナがいる場では気をつけなければならない言葉がある。
その一つが養女という言葉だ。
一概に養女が良くないこと、劣るなどと決めつける必要はない。単なる差別だ。
王太子の寵愛者を差別するような言葉は避けなければならない。それが当然だった。
「報告されてしまうわね。王太子殿下に」
誰がとは言わない。リーナかもしれないが、他の誰かかもしれない。リーナを除く全員が足の引っ張り合いを考え、相手の弱みを探している状態だ。
たった一言。されど一言。
一瞬で谷底に落ちる人生があるのは事実だった。
その時。
大きな音を立ててドアが開いた。姿をあらわしたのはラブだった。
「おはよ」
現在、最も高位の出自になるのはラブだ。挨拶であれば身分の下の者から上の者へと話しかけることはできるが、そうではない場合は非礼だとされてしまう。
しかし、ラブから最初に一言いっておくだけで、会話は可能という状態であることを示すことができる。
エルグラードでも高位の家柄の令嬢達ばかりであるため、さすがのラブも自分が悪者扱いされるような行為は控えるつもりではいた。
「おはようございます」
「おはようございます、ラブ様」
次々と挨拶が返される。むしろ、ここでは絶対に挨拶を返しておかなければならない。後からあの者だけは挨拶しなかった、非礼だと言われてはかなわない。
挨拶が終わると鐘がなる。
九時には着席して待っている必要がある。部屋の中は静まった。
失言をしたチュエリーは助かったと思い、選択科目についての答えを聞きそびれたアルディーシアは失敗したと思った。
「皆様、おはようございます。これより、朝礼を始めます」
担任のペネロペは持って来た分厚いファイルを開いた。
「今週の土曜日、王宮では舞踏会があります。そのことは皆様もご存知かと思うのですが、側妃候補として参加することになりました。経験を積み、社交術を勉強するためです」
側妃候補は全員貴族の女性だ。しかも、高位の身分になる。
王宮の催しがあれば、実家に招待状が届いている。招待者については催しごとに異なるものの、大抵の場合は高位貴族の令嬢として参加できる。
入宮しているため、参加する気であれば、外出許可を取る必要があった。
しかし、元々側妃候補として参加するようにという通達があれば、本人が側妃候補として直々に招待されているということになる。わざわざ外出許可を取る必要もない。
「舞踏会にはデーウェン大公国の王族を始め、多数の外交関係者が出席します。政治的にも重要な舞踏会になります。皆様にはエルグラードとデーウェンの友好を更に強めるための懸け橋として、デーウェン関係者とのダンスをしていただきます」
舞踏会ではダンスを踊る。デーウェンの者達を招待するものの、外交的な交渉目的で来ている者達になるため、ほぼ男性ばかりだ。
そこで、エルグラード側の方でダンスの相手を務める女性、高位の家柄の令嬢を手配する。側妃候補者達ならば、高位の身分だけにダンスや礼儀作法も問題ないだろうということになった。
「舞踏会が開始した後、三連続でワルツが演奏されます」
最初のワルツはファーストダンス、二番目はセカンドダンス、三番目はサードダンスと呼ばれている。
任意でダンスに参加するようにしてしまうと、踊りたい者の数が多すぎたり少なすぎたりしてしまうかもしれない。
そこで、開始後の三連続ワルツのみ、身分の高い者から順に誰と誰が踊るのかを事前に予約しておき、ダンスフロアで踊る人数を事前に調整しておくのが暗黙の了解だ。
「皆様の担当はファーストダンスになります。セカンドとサードは別の社交グループが担当しますので、交代して下さい。もう一曲と言われても、予定を変更しないように。また、両国の友好のための催しであることを考え、相応しい言動をお願い致します。詳しくは紙をお配りしますので、しっかりと自ら確認して下さい」
紙を配り終わると、ペネロペは更に続けた。
「見ていただければわかるとは思うのですが、ファーストダンスを終えればいいわけではありません」
側妃候補役目はファーストダンスを踊るだけではなかった。
「側妃候補は全員、国賓エリアの近くにある専用エリアにいて下さい。デーウェンの関係者達の歓談相手も務めていただきます」
側妃候補は王族の妻になるかもしれない女性であるため、相応に教養のある女性というのが前提だ。外交関係者との歓談相手も問題なく務めることができるはずだった。そうでなければ、側妃候補としては失格ともいえる。
「飲食物は全て遠慮して下さい。エリアから出るのは化粧室に行く時、体調が悪くなった時、ダンスに行く時だけです。できるだけエルグラードの者ではなく、デーウェンの者と過ごして下さい」
話を聞けば聞くほど、リーナは青ざめた。
ダンスだけでなく歓談の相手も務める。しかも、一回、短時間ではない。舞踏会のメイン開催時間における全ての時間だった。
「ダンスの相手はまだ決定していません。後日、通達されるそうですので、相手の名前、身分や地位、出自等の簡単なプロフィールを覚えていただきます。当日は他の方々からも誘われるかもしれません。全ての誘いを受けるのは大変かと思いますが、可能な限り受けて踊って下さい」
社交経験を積む機会、これも大事な勉強。頑張らないと……。
リーナは必死に自分を鼓舞しようとしたが、不安の方が強く大き過ぎた。
気分を上向けることは全くできなかった。
「では、朝礼はここまで。皆様、本日もしっかりと勉強して下さい」
朝礼が終わった。





