571 アイギスとアリアドネ
「お前は近づかない方がいい」
「でも、益があると思いますの。まずは、クルヴェリオン様の恋人で、将来妻になる方であること。親しくしておけば、私の立場も向上しますし、鼻も高いというもの。リーナさんもきっと自分の味方をしてくれるような身分の高い女性の友人は欲しいはずですわ。養女になったばかりで、今なら身分の高い友人が少ないはず」
王太子の恋人についての情報を知っているのはアイギスだけではない。アリアドネも同じだ。
「リーナさんはセイフリード王子付きの侍女だったと聞きました。セイフリード王子と親しくするには、リーナさんから情報を得るのが一番ですわ。それに、レーベルオード伯爵家はデーウェンにとっては非常に重要な貴族だとおっしゃったのはお兄様ではありませんか。親しくしておくべきですわ」
確かにその通りかもしれないとアイギスは思ったが、妹のせいで収拾がつかない問題が起きては困る。
「お前なりに考えているのはわかるが、賛成しかねる。子供が下手に動き回っても、周囲は混乱するだけだ」
「お兄様だって、私を口実にリーナさんに近づけますわよ? 子供の保護者として」
しばしの間が空いた。
「私がリーナに近づいてどうする? クオンの怒りを買うだけで得はない」
「いいえ。そんなことはありませんわ」
アリアドネは断言するように言った。
「クルヴェリオン様がリーナさんを紹介して晩餐会に同席させたのは、お兄様に力になって欲しいからでは?」
「そうだろうな。他国の王族が好意的に受け入れているとわかれば、そのことを重視する者達は慎重になる。リーナへの悪口も減るだろう」
「レーベルオード伯爵家の令嬢なら、それだけでもお兄様が好意的に振る舞ってもおかしくありませんわ。だって、グランディール国際銀行のためですもの」
「まあな」
「私、お母様に聞きましたのよ。レーベルオード伯爵家が養女を迎えると聞いて、お兄様の相手にどうかという話が出たとか」
レーベルオード伯爵家が養女を迎えるという話は、近隣諸国にもすぐさま一報が知らされた。
それはレーベルオード伯爵家が周辺国とのコネがあること、影響力を考慮する者達が非常に多くいるからだ。
勿論、デーウェン大公家にもその一報は届いた。大公家は直接ではないものの、親戚筋から祝いの品を届けている。
また、レーベルオード伯爵家の令嬢が婚姻適齢期であることから、縁談話を考える者達もおり、アイギスにも考えてみてはどうかという話があったのは事実だ。
エルグラードの名門貴族の令嬢、しかもグランディール国際銀行とのつながりを考えれば悪い話ではない。
デーウェン大公家は元副王が治めていた属国だった時代、ミュノーア王家との格差をつけるため、あえて身分の低い者との婚姻を推し進められたこともあった。
そういったことから、大公家の者は養女という体裁を整えておけば、平民女性とも婚姻ができる。
アイギスとリーナとの婚姻も全く問題がない。貴賤結婚にならないどころか、むしろいい縁組だという声が普通に挙がった。
「その話はすぐになくなった」
それもまた事実だ。
レーベルオード伯爵家の令嬢はデビュー早々王太子に見初められ、入宮を命じられたという知らせが届いた。
あまりにも早い展開だったため、むしろそのための養女入りではないのかと思う者達も当然のごとくいた。
エルグラードの王太子と女性を取り合おうと思う者などいない。相手が悪すぎる。
「リーナさんは本当に素敵な女性のようですわね。優しそうですし、雰囲気も柔らかくて温かい感じでしたわ。それに、お兄様のお話にキラキラと目を輝かせていましたわ。自分の話を真剣に、それでいて楽しそうに聞いて貰えたので嬉しかったのではありませんか?」
「リーナが喜べば、デーウェンの国益につながる。キウイは今回の交渉でも特に力を入れる予定でいるし、観光業も今以上に力を入れたい」
「惜しいですわね。お兄様はああいう女性がお好みでしょう? 自分の話にきちんと耳を傾け、さりげなく質問をして自尊心をあおってくれるような方が」
「誰でも自分の話は聞いて欲しい。今更クオンや弟王子にデーウェンを売り込もうとしても難しいからな。リーナに的を絞った方がいいに決まっている。実際、上手くいったと思う」
アイギスはあくまでも自分の狙い通り、政略的な目的であることを強調したが、アリアドネは軽く流していた。
「取り立てて美人というわけでもないですけど、見目苦しいわけでもありませんし、むしろ普通に可愛い程度で近づきやすそうに見えますわね。身分も高すぎず、かといって養女先はとてもいいですし、性格もすこぶる良さそうです」
アリアドネはリーナが優しくて親切で素直、だからこそ騙されやすく利用しやすく都合がいい存在になりやすい人物であることを感じ取っていた。
「ああいう女性は取り立てて特技があるわけでもありませんけれど、害がなくて安全そうに見えますし、男性に凄くモテそうですわね。はっきりいって、晩餐会の殿方は全員リーナさんに釘付けでしたわ」
アリアドネは子供だが女性だ。男性陣の視線がほとんどリーナに向いていること、また、その表情も好意的であることをしっかりと見ていた。
「弟王子達はクオンを心から尊敬している。リーナはその恋人だ。ようやく兄に訪れた遅い春を歓迎しているに決まっている。リーナもうまく応対していた。自らの知識をことさらひけらかすことはなく、あくまでも会話を邪魔しない程度に抑え、質問内容もこちらが話したいことを話題にするきっかけをくれるようなものだった。私も配慮していたが、リーナもまた私に配慮し、デーウェンのアピールを手伝ってくれた。非常に話しやすかっただけでなく、終始いい雰囲気だった。クオンも興味がわいたという表情だった。やはり、恋人を使うのは有効だったな。リーナのおかげだ」
「褒めちぎっていますわね。お兄様はリーナさんに好印象を与えたのではなく、与えられた方なのでは?」
「お前もリーナを褒めていただろう? 実際、あのようにしていれば、重要な晩餐会などもうまく乗り切れる。いい勉強になったと思うが?」
「私もうまくやっていましたわ。大人しく注目を集めないようにしていましたのよ。子供が余計なことを言っていると思われないように」
アリアドネは自分の対応も評価されるべきだと思った。
アイギスもアリアドネが適切に行動したと思っていた。
「そうだな。外面を取り繕う器量が合ってよかった」
「失礼な。これでも、懸命に勉強してきましたのよ? それこそ、リーナさんよりもずっと努力してきたと思いますわ」
アイギスは心から呆れると同時に、やはり妹は子供だと思った。
「子供らしい意見だ」
「どうして子ども扱いしますの? 本当のことではありませんか。お兄様は私がどれだけ努力していたのかご存知のはず。苦手なことも克服できるように努めましたわ。中等学校の卒業資格の試験では満点でしたのよ?」
「お前が努力していたのは知っている。だが、リーナと比べるのはおかしい。お前はリーナの何を知っている? ほとんど何も知らないではないか。比べようがないだろう」
「確かに今夜会ったばかりですわ。でも、大公家に生まれたために、いずれは相応なお方、それこそエルグラードの王太子妃になってもおかしくないほど猛勉強しましたのよ。礼儀作法やダンス、ピアノのレッスンも厳しくて、手足にマメができましたわ。何の苦労もしていないと多くの者達は思っていますけれど、見えないところで必死に努力してきました。さすが大公家の者だといわれるように」
アイギスは一息つくと言った。
「アリアドネ、お前は大事な部分を見ていない」
「大事な部分?」
「リーナは平民だ。大公家に生まれなかったことで、自由気ままに生きて来たわけではない。お前は優雅な生活を保障され、勉強だけを努力した。一方、リーナは何の生活の保障もなく、生きるためにあらゆる努力をした。今は必死に勉強もしている。お前が十三年かけてしてきたことを、リーナは一日もはやく身に着けなければならない状態だ。そして、今夜の様子を見る限り、リーナはどこからみても立派な淑女だった。私がどちらを評価するのかわかるな?」
アリアドネは表情を歪めた。
「今夜あったばかりの女性に対し、随分と肩入れするのですね?」
「クオンからリーナについて聞いたが、非常に苦労を重ねて来た女性らしい。これからは楽な思いをさせたいと思っているらしいが、裕福な生活しか保障できないと言っていた。別の意味で苦労させることはわかりきっているからな」
「クルヴェリオン様の妻になれるのであれば、いくら苦労してもお釣りが来ますわ」
「それは違うと思うが、まあいい。それよりも、セイフリード王子と婚約する気が本当にあるのか?」
「留学中だけでしたら」
「そんな条件は無理だろう」
「一応、聞いてみればいいですわ。向こうも学業に専念できるといって、短期の婚約を喜ぶかもしれません。それと私、クルヴェリオン様の妻になれなかった時のことも考えていましたの」
「は?」
アイギスは初めて聞いたという表情になった。
「だったらそれを早く言え!」
「あくまでも万が一と思っておりましたので。ですから、お父様やお兄様がセイフリード王子を薦めるであろうことはわかっていましたわ。ただ、他の方のことも、夫候補として考えていますの」
「誰だ?」
「レーベルオード子爵ですわ。若い女性にとても人気がありますのよ」
デーウェンにはエルグラードから多くの情報が伝わって来る。そして、デーウェンの社交界において好まれるのが、エルグラード社交界の話題だった。
勿論、エルグラード社交界で有名な貴公子であるパスカル=レーベルオードの名前はデーウェン社交界でも知られている。
金髪碧眼、まるで物語に出てくるような王子のような容姿で、優しく温和な性格。それでいて頭脳明晰、剣技と乗馬術にも優れており、数々の大会で優勝や好成績を残している。祖父と同じ外務省へ入省後、王太子府へ転属。若くして王太子の側近に名を連ねたエリート。名門貴族の跡継ぎ。しかも、独身。恋人も愛人もいない。
女性達が騒ぎ、夫候補に考えるのは当然の結果だった。
「私、リーナさんやセイフリード王子を通じて、レーベルオード子爵とも親しくなれたらいいと思っていますの。レーベルオード子爵は外務省出身。新王の元で外務を担当するための引き抜きかもしれません。祖父と同じく外務大臣になる可能性もあります。その妻が私であれば、デーウェンにとっては大層都合がいいはず。勿論、グランディール国際銀行にも、夫を通して口を利いて差し上げますわよ?」
アイギスは少し考えてから答えた。
「やはり年齢が問題だ」
「伯爵家と大公家ですもの。多少はなんとかなるのではありません?」
それもまた否定はできない。しかし、アイギスは現実的ではないと考えた。
そして、このような提案をする妹を危険視した。どうにも嫌な予感がする。
「余計なことは考えるな。お前は学校で大人しく勉強していろ」
「私の留学は、いい結婚相手を見つけるためでもありますのよ? 女性にとって、誰と結婚するかは一生を左右する重要事項ですもの。お兄様もその点をしっかりと忘れないで欲しいですわ。それに、私はお友達からも素敵なエルグラード貴族の男性を見つけて紹介して欲しいと言われていますの。デーウェンとエルグラードの貴族達を結びつける役目もありますのよ。それを邪魔するのは、それこそ国益を損ないますわ。むしろ、どんどん若手の有望株の男性を紹介して下さいませ」
アイギスは盛大なため息をついた。





