564 最初の授業
初日の午前中は質問を受け付ける途中で終わった。
リーナは一旦自室に戻った後で昼食を取ることになる。
ヘンリエッタ達が着替えを用意していたものの、リーナは断ることにした。
「このままでは駄目でしょうか?」
「食事の前には着替えるのが基本です」
「でも、特に汚れているわけではありませんし、午後の授業もあります。このまま行けば丁度いい気がします」
「丁度良くありません」
ヘンリエッタは強い口調でそう言った。
「本日は初日です。他の方々も気合を入れて身支度を整えていらっしゃります。午後も着替えて万全の支度をすべきです」
「でも、授業では華美な服装をしなくていいという説明もあって」
「今日は初日、特別な日になります。重要な予定のある日の衣装はお任せいただけるはずです。どうか私共を信用頂き、着替えていただきたく存じます」
リーナは冷静に考えた。
まずは自分について。リーナはどうしても着替えたくないわけではない。単にドレスが汚れていないことや午後も引き続き授業があることを考えると、わざわざ着替える必要性を感じなかったというだけだった。
それに対し、ヘンリエッタの主張には強い意志が込められていた。特別な日であるからこそ、身支度はしっかりしなければならない。そのためには着替える必要がある。ヘンリエッタ達の判断を信用して欲しいというものだった。
特別な日であることはリーナも認識していた。身支度をしっかりすることにも同意しており、実際に学習室にいた他の候補者達も豪華なドレスに身を包んでいたことを考えれば、ヘンリエッタ達の判断は正しかったということになる。
華美な装いは必要ないという説明ではあったものの、してはいけないということでもない。授業を受けるのに不都合でなければいい。
そして、リーナが一番重要だと感じたのは信用だ。
ヘンリエッタが何も言わなくても、リーナはヘンリエッタや後宮の侍女達を信用している。その判断が間違っていると思っているわけではない。
だが、ヘンリエッタは信用して欲しいという言葉を口にした。
リーナは重要な日の衣装選びを後宮の侍女達に任せた。だからこそ、後宮の侍女達は衣装を用意した。途中で着替える必要もあると判断し、一着ではなく二着用意した。
だというのに、リーナの言葉はその侍女達の判断を覆し、変更する内容だった。自分達の判断を信用していないためではないかと思われても仕方がない。
だからこそ、リーナはしっかりと示す必要があると感じた。
自分はヘンリエッタ達を信用している。着替えをしなくてもいいと思ったのは、自分の個人的な感情、見方によっては我儘のようなもの。ヘンリエッタ達の判断が間違っていると思ったわけではないことを。
「……今日は初めて授業を受ける日です。確かに特別な日ですし、午前中の装いも間違いなかったと思います。私は侍女達を信用しています。我儘を言ってごめんなさい。着替えます」
リーナの言葉もまたヘンリエッタ達に気付かせた。
着替えるべきだと強く主張することは、リーナの考えとは違うだけでなく、我儘だと思っているとリーナに勘違いさせてしまうことを。
「リーナ様が我儘を言われていると思う気持ちは露程もございません。必要がなければ着替えないというのは合理的な判断だと思っております」
ヘンリエッタはできるだけゆっくりと丁寧に、強い口調にならないように気を付けた。
「ですが、私はリーナ様よりも長く後宮におります。だからこそ、この後宮という場所が伝統的で保守的、儀礼的であることを知っております」
後宮は古い。単に施設や家具が古いだけではない。時代を超えて受け継がれてきたものが多くある。後宮らしいルール、マナー、生活があった。
そして、それらは王族や貴族という特別な身分を持つ者達のためにあるといっても過言ではない。
「食事や予定のために着替えるというのは、後宮だけでなく貴族として常識的なこと。午前中と午後で装いが違うのもまた常識です。リーナ様が午前も午後も同じ服装であれば、どうして着替えないのかという疑問の声が上がるのが普通です。もしかすると、後宮や貴族の常識をわかっていないなどと思われるかもしれません。そのような事態になるのを防ぐためにも、着替えるのが適切であると考えます」
リーナはまたもや気づいた。
自分の判断は熟考した上でのものではない。いい考えのようにも思えた。しかし、それは身分や後宮という特別な場所においての常識とは違う。
捉え方によっては、リーナが貴族らしくない、貴族としての常識をわきまえていない、後宮に相応しい身支度をしていないという判断につながってしまう可能性もある。
「すみません。私が間違っていました。やっぱり着替えるべきだと思います」
「ご理解いただけて嬉しく思います」
ヘンリエッタは安堵するような表情になった。
「他の方々も午後のために間違いなく着替えられます。というのも、後宮にいらっしゃる側妃候補の方々は全員が上級貴族かつ裕福な出自です。午前と午後では着替えるのが常識だと思われていることでしょう。リーナ様だけ着替えなければ、何を言われるかわかりません」
リーナは自分以外の側妃候補者のことを思い出した。
生まれつきの上級貴族。高度な教育を受け、王族の妻に相応しいと選ばれた女性達。どう見ても立派な淑女であり、裕福な暮らしをしてきたであろう者達だ。
リーナは違う。誘拐された後は全てが一変した。
平民の孤児になった。リリーナという名前でさえなくなった。後宮に就職できたものの、下働き、召使、侍女、生きるために懸命に働いて来た。
リーナの人生と他の候補者の人生には圧倒的な差があった。
しかし、リーナはその差を埋めなければならない。クオンの妻になるためには、生まれつきの貴族で高度な教育を受け、特別に選ばれた淑女のようになる必要がある。でなければ、王太子であるクオンの妻に相応しいと思われない。
頑張らないと……でも、不安。自信がない。
午後の授業は音楽。
リーナは歌うことも楽器を弾くこともできない。音楽について詳しく知っているわけでもない。ため息をついたのは仕方がないことだった。
十四時少し前に学習室へと移動したリーナは、すでに学習室にいる他の側妃候補達を見て、ヘンリエッタ達の判断が間違ってはいなかったことを実感した。
午前中は全員が正装ともいえるような豪華なドレスだったが、午後はやや控えめなドレスになっている。フリルや刺繍といった装飾が控えめだ。
しかし、貧相なドレスではない。上質な布地をふんだんに使う贅沢さを感じるようなデザイン、たっぷりとしたドレープやボリュームのあるドレスが多い。
宝飾品も控えめではあるものの、特徴的で目立つ宝飾品を一カ所にあしらっていた。
時間になると学習室に入って来たのはペネロペと二人の女性だった。
「ご紹介します。音楽の講師を務めるマリア先生とカリスタ先生です。音楽の授業は週二回ありますが、選択科目にも音楽があります」
通常の音楽の時間は音楽の知識を身に着けるための座学になり、実際に歌や楽器等の演奏について習うのは選択科目を選んだ者のみということが説明された。
つまり、普段の音楽では歌や楽器の演奏を習うことはない。そう思ったリーナは一安心したが、その考えは甘かった。
「今日は初日ですので、最低限知っておくべき音楽について習います。それは国歌と愛国歌です」
エルグラードの国歌は一つだけだが、愛国歌は複数ある。
国歌斉唱の際に歌ったり、式典の際に流れるのは国歌になるが、それ以外にも国家に準じた歌、曲として愛国歌が歌われたり演奏されたりする。
リーナは国歌のメロディと歌詞については知っている。しかし、それ以外のことは知らなかった。
「作詞は宮廷詩人だったロレンス=アークワイド。作曲は宮廷楽団長のエーリック=フーヴァット……」
国歌の作詞作曲者についての説明の後、音楽の講師であるマリアは尋ねた。
「では、ロレンス=アークワイドによる別の作品がわかる方は挙手を」
すぐに手が挙がる。リーナ以外の候補者達全員の。
マリアはゆっくりと視線を巡らした後、答える者を指名した。
「では、ラブ様」
「美しき大地に栄光あれ、君の愛は深き森、エルグラード讃美」
ラブはいかにも面倒臭いとばかりの表情だったが、その答えに間違いはない。
しかも、非常に有名な詩、詩集名、合唱曲という三種類の代表作を挙げている。
マリアは満足そうに頷いた。
「さすがはウェストランドの姫君。素晴らしい答えです。異なる三種類の代表作を挙げるというところが特に。では、エーリック=フーヴァットによる別の楽曲についてわかる方は挙手を」
またしてもすぐに手が挙がった。勿論、リーナ以外の候補者達全員の手が。
「では、カミーラ様」
「エルグラード神曲、緩やかな曲線の午後、第三番深紅」
カミーラの答えもまた一つではなかった。
エーリック=フーヴァットは宮廷楽団長だったために、多くの作品を作曲している。その中でも特に評価が高く人気のある作品である組曲、協奏曲、交響曲をカミーラは選んで挙げた。
「見事な答えです。もし、フーヴァットの代表作品を記入するということであれば、この三曲を選ぶことこそ完璧な答えといえるでしょう」
その後も音楽の授業が続く。
リーナはただ講義を聞くだけでいい。質問を知らなくても答える必要はない。
しかし、質問の度にリーナ以外の全員が手を挙げる。リーナは答えられないため、手を挙げることはできない。
それを見ればリーナが他の候補者達とは違い、音楽について勉強不足だということをあらわすには十分だった。
「では、今日はここまでにしましょう。基本的なことばかりだったとは思いますが、音楽を語る上では最も重要なことばかりです。忘れることなくしっかりと覚えておいて下さい。以上です」
音楽の授業が終わった。
四十五分。リーナにとってはそれ以上に思える長い時間だった。





