556 願ったり叶ったり
やがて、真珠の間に移動したリーナの元へパスカル護衛騎士達を伴ったクオンが姿をあらわした。
ようやく、会えた。
昨日会ったばかりだというのに、長い時間会えなかったように感じてしまうのは、自分がいかにリーナに会いたかったかを表しているとしかいいようがないとクオンは思った。
まずは、すべきことがある。
クオンはソファから立ちあがって礼をするリーナに声をかけた。
「後宮において、私が来た際に席を立つ必要はない。着席のままでいい。特別に許可する」
クオンはそう言うとリーナの手を取り、ソファに座るように促しつつ自分もまた座った。
「ゆっくり休めたか?」
「はい。大丈夫です。緑の控えの間の方にいらしたと伺いました。お待たせして申し訳ありません」
「気にすることはない。少しでも早く会いたかっただけだ。夕食を一緒するために努力したおかげで時間ができただけでなく、執務もはかどった」
クオンは笑みを浮かべながらそう言った後、リーナに口づけた。
ようやく二人でゆっくり過ごせるという気持ちが胸に溢れる。
唇が離れた後もクオンはリーナをしっかりと抱きしめた。愛しい気持ちをあらわすかのように。
「後宮に住むにあたって、できるだけ不自由はさせたくないと思っている。こちらでも生活に合わせ、少しずつ整えていくつもりではいるが、要望があれば遠慮なく出していい。ここはお前の家も同然だ。居心地のいい場所になるようにしたい」
クオンはそう言ったものの、後宮をリーナにとって本当に居心地のいい場所にする気はあまりなかった。どちらかといえば、居心地の悪さを理由に王宮に住まわせたい位でいる。
しかし、側妃候補を王宮に住まわすことはできない。愛人としてなら可能だが、リーナへの酷い中傷や嫉妬の声が強くなるのもまたわかりきったことだけに、時期尚早だと考えていた。
「早速だが、何か望みはあるか? 不足だと思うことや不安なこと、気に入らないことでもいい。何でも私に話せ。でなければどう思っているのかわからない。私達は恋人だ。いずれ夫婦になる。互いのことをよく知り、理解するためにも、本音を伝えあう必要がある」
「実は、先程まで悩んでいたことがありました」
「どのようなことだ?」
「着替えの回数です」
クオンは眉を上げた。
「気に入らないのか?」
「食事の前に着替えるのは当然だと思うのですけれど、特に汚れているわけでもないですし、毎晩正式な晩餐会というわけでもないと思うので、必要な時だけ着替えるようにできたらいいのにと思っていました。でも、お兄様に相談したので解決しました」
「そうか。さすがパスカルだ」
リーナの悩みはすでに解決されていた。クオンはパスカルを優秀だと思ったが、同時に自分がリーナの悩みを解決できなかったことを残念に感じた。
「一応、聞いておく。着替えの数が多すぎたか?」
「ええ、まあ。本当はしっかりと着替えるべきなのかもしれません。そうすることで一日中きちんとした装いを保つことができるというのもわかってはいるのです。だから、着替えなくてもいいと思ってしまうのは、私が至らないせいだと思います」
「着替えるのが面倒なのか?」
「時間が勿体ない気がするのです。その時間を勉強時間にするとか、本を読むとか、体を動かすような時間にするとか……もっと有意義に使えるような気がして。着替えだけで一日の多くが終わってしまったら残念だと感じてしまったのです」
クオンはリーナが単に着替えるのが面倒だからという理由ではなく、もっと有効に時間を使いたいためだと知り、心から褒め称えたい気持ちになった。
「私は今とても嬉しい気分だが、お前の本心を聞き余計に嬉しくなった。今の発言を着替えることで一日を費やす者達に聞かせたい。お前の言う通りだ。身支度を整えるのは大切だが、それだけで一日が終わってしまうのは人生の無駄遣いだ。もっと有意義なことに時間を使った方がいい。私も同じ意見だ」
「クオン様も?」
リーナはクオンが自分と同じ意見だと知り、嬉しくなった。
「私は常に忙しい。一日に何度も着替えるのは時間の無駄だ。公式行事や重要な催しに備えて着替えることはあるが、必要と思う時以外は着替えない」
クオンは自分もまた着替えることよりも執務を優先していることを話した。
「但し、今回は着替えて来た。昨日からずっと着替えていなかったからな」
「昨日から? 眠る前に入浴しなかったのですか?」
「眠気が強くなるまで仕事をしていた。そこで入浴してしまうと目が冴えてしまい、眠れなくなってしまう。普段は朝起きた時にシャワーを浴びるようにしている。気分もスッキリするだけでなく、寝ぐせを直すにも都合がいい。その際に着替える」
クオンはいかにも合理的だというかのようにそう言ったが、リーナが気になったのは別の部分だった。
「クオン様は昨日からずっと着替えていなかったと言いました。今朝は入浴されなかったのですか?」
「会議の直前まで寝ていた。朝食も食べていない」
「お昼は?」
「サンドイッチを食べた」
軽食ということだ。リーナはクオンが普段どのような生活をしているかが少しだけわかったような気がした。
はっきりいって、乱れている。
あまりにも忙し過ぎるというのはわかるが、体にいいわけがない。健康を損なってしまうのではないかと心配になった。
「クオン様は働きすぎでは?」
「よく言われる」
クオンは苦笑した。
「だが、今まではそれでいいと思っていた」
「よくありません。絶対にいつか体を壊します!」
「そう思う。そこで、少しずつ私もできる部分から自分の生活を見直している」
リーナはじっとクオンを見つめた。
つい先ほど、夜遅くまで仕事をしていてそのまま眠り、入浴も朝食もなしで会議、昼食は軽食だと暴露したばかりだ。到底生活を見直しているようには思えなかった。
「いつもの私であれば、目覚めた後はそのまま夜遅くまで仕事をしている。だが、私は午後の仕事を途中で切り上げた。入浴し、着替え、後宮に来た。お前に会うために」
クオンは腕の中に閉じ込めるようにしたリーナを優しく甘い視線で見つめた。
「仕事は後でもできる。だが、お前と共に食事をする時間はいつでもいいわけではない。食事に相応しい時間だけだ。夜中に会いに来ても、寝ていては話もできない」
「クオン様は夜中に起きているのですか?」
「毎日ではないが、起きていることも多い。日中はどうしても様々な予定が入る。一人でじっくりと考えたり、過ごしたりできるのは夜中しかない。お前に初めてあったのも、夜中だった気がする」
「違います。早朝です」
「……まあ、ひと気のない時間ではあった。随分、昔のことのように感じる」
リーナはクオンを見上げた。
初めて会った時から、クオンの整った容姿は変わっていないように感じた。しかし、強くて怖そうに見えた表情は変わった。優しい。温かく、穏やかだ。微笑を浮かべている。愛情を感じることができた。
変わった。
リーナは単に過去において召使だった自分が側妃候補になったことよりも、自分とクオンとの関係が変わったことを強く実感した。
だから、変わりたくない。
リーナは自分とクオンとの今の関係が変わってしまわないように、いつまでもこうして側にいられるように願わずにはいられなかった。
「私……昔には戻りたくありません。クオン様のお側にずっといたいです」
リーナは正直に感じたことを言葉にして伝えただけだったが、それを聞いたクオンは一瞬にして喜び溢れかえり、心が舞い上がってしまった。
「ずっと側にいればいい。どうせ手遅れだ」
「え?」
どういうことかとリーナが問いかけるよりも早く、クオンは言葉を続けた。
「お前といると私は心が安らぎ満ち足りる。愛と幸せを感じることができる。これほどの想いを感じながら、手離すことなどできるわけがない。お前はもう私から逃げられない。どんなことをしてでも、私の側に置く」
クオンは正直に自分の感じたままを言葉にした。
それは一生の束縛を宣言するかのような重い内容に取ることもできたが、リーナは安心した。ずっとクオンの側にいてもいい、クオン自身がそう強く望んでいるのだと。
「だったら良かったです。それに……私も手遅れです」
「手遅れなのか?」
「はい。クオン様が私を離そうとしても離れたくありません。一生懸命勉強も努力もするので、お側にいさせてくださいってお願いします」
「願ったり叶ったりだ」
「私も同じです」
リーナもクオンも笑い合う。
どうしようもない愛しさが胸に溢れたクオンは堪えきれず、もう一度リーナに口づけた。
リーナはクオンの口づけを素直に受け入れた。
互いにとって、願ったり叶ったりの口づけだった。





